第6話 愉悦
『株式会社 PAC 代表取締役 古井純次様
平素よりお世話になっております。さきほどは名刺の持ち合わせがなく失礼いたしました。なにせ診療中の突然の呼び出しだったもので、用件を把握していなかったのです。また今度改めてご挨拶をさせてください。
これからご一緒にお仕事ができることを光栄に思います。さっそくワーキンググループを立ち上げましょう。私共の担当者としては小木田というものをつけます。そちらの人選が決まりましたらお手数をおかけしますがこのアドレスまでご連絡ください。
北野大学医学部附属病院 リハビリテーション部技師長 大西勝』
大西はスタッフルームに戻ると早速、メールを打った。理学療法士、作業療法士、言語聴覚士からそれぞれ1人ずつは人が必要だろう。ただ、そのまとめ役は誰がいいか。とにかく自分はこの件を手放したい。とりあえず小木田に任せよう。胸ポケットからPHSを取り出し、小木田に電話をかけた。呼び出し音が三回程鳴ると、受話器の向こうから小木田の声が聞こえた。相変わらず電話に出るのが早いな、と大西は思った。
大西は小木田に今回の案件について一通り説明し、あとは任せると言った。小木田は二つ返事でそれを承諾し、あとで人選をしたら連絡をすると返事をした。大西は今日中に返信をしたいので早く対応するようにと告げて電話を切った。
電話を切ると、スタッフルームの入り口から世良が顔を覗かせていた。
「技師長、鹿野さんがお待ちですよ。しばらくかかるかと思ってホットパックをしておきました。いつものベッドにいますので」
大西は外来患者のことをすっかり忘れていた。
「おお、そうか。いや、ちょうど今戻ったところだったんだ」
するりと嘘をついた。
「ちょうど二十分くらいは温めています」
世良の返事を聞いて、大西は患者のもとに向かった。
*******
理学療法室のプラットフォームにはうつ伏せになって読書をしている女性がいた。腰にはホットパックが乗っている。彼女が大西の常連患者、
「相変わらず忙しそうね.世良君が気を利かせてくれたわよ」
「いやはや、繁盛し過ぎて困りますな。さて、腰の具合はいかがですか?」
「まあ、いつも通りね。やっぱりずっと座っていると辛いわ。温めると楽ね」
「ふむ。では、さっそく始めましょう」
大西はてきぱきとホットパックを片付け、患者にをプラットフォームの端に腰掛けるように指示した。鹿野はやや苦しそうに左手を腰に当て、うつ伏せから起き上がった。数秒ではあるが、大西はこの一連の動作をつぶさに観察して記憶した。今度は背中側を観察する。脳内で鹿野の後頭部中央から床に向けて、まっすぐな垂線を引く。首、肩、骨盤……、この垂線を基準として左右の身体部の相対的位置関係を比較していく。いずれも床に対して水平ではなかった。つまり、首は左にかしげているし、肩は右側が挙上し、骨盤は左側が浮いている。一般の人からしてみればさして気にならない程度の姿勢の変化かもしれないが、この領域を専門としている人間から見れば明らかな変化であった。このことを確かめるために大西は鹿野に自分の手のひらを両方の臀部へ滑り込ませるように指示した。鹿野は指示通り両手を背に回して臀部の下に差し込む。重心が右に偏っているため、鹿野の右手よりも左手のほうが臀部の下により深く入る。大西は次に背骨を観た.服の上からはわかりづらいので、
鹿野の痛みは腰部に限局していたものの、その原因や位置は毎回変化した.右だったり左だったり、左右どちらもという時もある。
療法士の腕前が問われるのはここからである。鹿野に横向きに寝返るように指示し、両方の脚を屈曲させた。これは腰部の触診を行う肢位である。腰部の触診は左右の腰骨の頂点を結んだ線、ヤコビー線、を目印にして、五つある
触診をする時、大西はまず自分自身に意識を向ける。一度大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。呼吸をコントロールすると,かなり意識を自身の内面へ向けることができた。今の自分の精神状態はどうか。息遣い、そして鼓動をさっきよりも強く自覚できる。精神を研ぎ澄ませ、感覚を高める。周囲の雑音はだんだんとぼんやりとして、脳内にはほぼ自分と患者の二人だけ、正確には自分の感覚だけの世界が描かれた.意識の先には温かな掌があり、ごつごつと太い指が対象を優しく包み込んでいる.その手と指が捉えた面積分、大西の世界が広がった.このとき、大西の手は対象に一切の圧力を加えることなく、ただ置かれているだけである。大事なことは“感じる”ことであり、“探る”のではないのだ、と大西は思っている。まるでフェザーような軽さと繊細さが必要だ。余計な圧をかけず、掌はただ自分の脳と繋がったセンサーとなり、相手の体温や皮膚の湿潤具合、息遣い、筋肉の緊張度合いを伝えてくれる。それは相手の皮膚感覚も同じであり、きっと今の自分の体温や息遣い、緊張が伝わる。次第に呼吸は同調し、掌のを介して相手と接続しているような、その先に自分の体の一部が広がっているような、そんな錯覚をするほどに相手のことを感じられる。鹿野の皮膚は少し汗ばみ、筋肉は弛緩していた。十分にリラックスできていると大西は判断した。また大きくゆっくりとした深呼吸をした。
この意識の先はどこに繋がっているのか。大西は脳内の解剖図を鹿野の腰背部に投影し、触れた感触を基に骨格にあわせて解剖図を修正する。鹿野の腰背部は何度も繰り返し触知し続けていることもあり、大西の脳内にあはすでに十分な地図が出来上がっていた。あとはその解剖図に合わせて一つ一つの組織を探っていくだけだ。皮膚や皮下脂肪を含めた体表に近い組織はそのままの圧で触れ、より深部の組織を探りたいときはゆっくりと圧を強めていく。この圧のかけ方には大西なりの段階があって、その段階ごとに触診の深さを使い分けることができた。ただし、その段階がどの程度の圧力なのかは対象によって変化するため、他者にうまく伝えることはできない。さらに触診で把握できる深さと構造には限界がある。圧を強くすれば強くするだけ深部の組織を触れることができるわけではない。触れることができる範囲の問題を否定したら、深層の筋になにか刺激を加え、その前後の変化を観察する。そうすることで触診では把握しきれない身体内部の状況を推察するのだ。 その刺激というのはストレッチであったり筋の収縮だったりする。こうした技術の研鑽に、大西は人生をかけてきたといっても過言ではない。
この自分が探求し続けた世界にだけどっぷりと浸かるとき、時間はゆっくりと流れ、まるですべてを支配したような愉悦があった。相手の身体構造を精緻に把握し、生理的な変化でさえ手に取るようにわかる。そんな感覚に満たされると、身体がとろけて相手と一体となるような、自分と相手との境界がよくわからなくなるような感覚になった。実際、そんなことはないし、そこまでの技術的な境地に至っているわけではない。自己陶酔なのだと理解しつつも、むしろ今となっては唯一自分に酔いしれることができるこの時この瞬間が、大西はたまらなく好きだった。
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