第5話 この味が好きだ
水曜日の九時過ぎ。朝のミーティングを終えるとみなそれぞれの仕事のために席を立ち、スタッフルームには技師長の大西勝が一人残されていた。多少の人の出入りはあるものの、昼休みまではほとんど一人の時間になる。いや,大西がいるから、みんな寄り付かないのだろう。このスタッフルームの大きな窓からは理学療法室や作業療法室へ続く廊下が見える。その窓の縁にいつのまにか小さな多肉植物が置かれていた。
(病院に鉢植えの植物を持ってくるなんて常識がない)
そう思いながらも、大西はその植物のことは知らんふりをして窓のブラインドを下げた。今どきの若いやつらは俺がちょっと注意するだけでハラスメントだとか言って騒ぐ。面倒なことは小木田や牛窪に任せておけばいい。
今日は常連患者の来院日だ。彼女は難治性の腰痛で、非特異的腰痛という診断だった。様々な治療法を試したもののどれもしっくりこず、最終的に大西の徒手療法の虜になった。はじめこそ強い腰痛があり日常生活に支障をきたしていたが、その痛みは大幅に軽減して軽度の慢性腰痛が残存しているのみである。それでも大西の施術を受けるとすっきりして動きが軽くなるという理由で、治療の継続を懇願し、もう十年以上もの付き合いになった。患者といえ、それだけ長い期間顔を合わせていると気心も知れる。水曜日は彼女の来院を待つ間、デスクで暇を潰すのが習慣になっていた。
マグカップにティースプーン三杯分のインスタントコーヒーを淹れて,電気ポットからお湯を注ぐ。粉はさっとお湯に溶け出し、コーヒーのいい香りが広がった。大西はこの香りが好きだった。いつだったか、若手がインスタントコーヒーはまずくて飲めないとか、生意気なことを言っていたな。小木田に関しては全く興味がないのだろう、どれも同じだろうとか言っていた。けどな、違うんだよ。そりゃあ、豆を挽いて淹れたてのコーヒーよりは劣るかもしれん。けれど、コーヒーを粉末状にしてこれだけの風味や香りを閉じ込める技術の凄さを想像したことがあるのか。風味を損なわず、飲みたいときに簡単に作れる。今でこそ当たり前になったのかもしれないこのフリーズドライ製法は先人たちの知恵や努力、情熱の結晶ではないか。そうしていまなお、本物あるいはそれ以上のインスタントコーヒーを目指して、どこかの誰かが日夜研究に明け暮れているに違いない。技術というのはそういうものだ。完成はない。未完だからこそ、より高みを目指して情熱を燃やせるのだ。黒い液体を一口すると、濃い苦みがした。この味が好きだ、と大西は思った。
マグカップ片手に自席に戻った大西は、パソコンで週末の天気を調べた。知人とゴルフの約束があるのだ。天気予報は曇り、最高気温は五度、降水確率四十%、少し微妙だ。三月に入り、例年よりも暖かな日が続いているとはいえ、病院の片隅には小さな雪山が残っている。風も強そうだ。暖かい服装にしたほうがいいだろうな。今度はレインウェアを調べ始めた。すでに愛用のウェアを持っているのだが、新しい商品のラインナップが気になった。カラー、デザイン、耐水圧、透湿度、撥水性、ポケットの位置や数など、大西は何事も調べ始めるととにかく事細かく徹底的に調べ上げる。その性質は趣味であれ仕事であれ関係なく発揮された。どっぷりとゴルフウェアの沼にはまり、今度はグローブや靴なども気になりはじめた。
ピロリロリンッ! ピロリロリンッ!
いよいよ新しいゴルフクラブにまで検索の手を伸ばそうとしたとき、スタッフルームの固定電話が鳴り響いた。普段なら無視する電話だが、なかなか姿を現さない外来患者からの連絡かもしれない、そう思って受話器を取った。
「はい、こちら、リハビリの大西です」
「大西君かね。私だ。清川だ。今すぐ私の部屋にこれるかね」
しまった、と思った。大西は予想外の声の主に思わず背筋が伸びた。
「はい、ただいま参ります」
受話器を取ったことを後悔しつつ、いそいそと席を立つ。スタッフルームを出たところで、世良寛斗と会った。世良は大西の姿をみつけると探し人を見つけた表情になった。
「技師長、患者さんが来たみたいですよ」
「おう、やっと来たか。ただ、ちょうど今部長から呼ばれてしまってな。悪いがちょっと待ってくれと伝えてくれ」
「ああ、それは仕方ないですね。技師長もお疲れ様です。患者さんには伝えておきます」
「全く、忙しいったらありゃしないよ」
世良もこの組織の中では部長の呼び出しが何事よりも優先されることは十分に理解していた。待たされる側も,そうした事情もよく理解した常連であるのですんなりと受け入れてくれた。
*******
部長室は医局の五階、渡り廊下でつながれた病院の隣の建物にある。実際は脳外科の教授室なのだが、慣例的にリハビリテーション部のスタッフたちは部長室と呼んでいた。重厚感のある一般的なイメージとかけ離れ、清川の部屋は簡素で事務的だった。唯一、応接用の黒いレザーのソファだけは高級感がある。そのソファには対面して二人の初老の男性が座っていた。一人は清川で、もう一人はスーツ姿に瓶底眼鏡をかけており、大西にとっては初対面の男だった。清川は大西に気がつくと手招きをした。瓶底眼鏡も大西のほうを向き、立ち上がる。
「急に呼びだしてすまなかったね、大西君。こちらは私の古い知り合いの古井さんだ。」
「はじめまして。
古井は慇懃な態度でそう言うと、ポケットから名刺を差し出した。急に呼びだされて名刺を持ち合わせていたなかったためきまりが悪かった。
「はじめまして。リハビリテーション部の技師長 大西勝と申します。今、名刺の持ち合わせがなくてすみません」
「いえいえ、お気になさらず。清川さんからすでに大西さんのことは伺っております。こんな大きな病院で技師長を務めておられる大変立派な方だとか」
「立派だなんてそんな。ただ、年を取っているだけですよ。立派なのはこのお腹だけですよ」
大西は数回、腹を叩いた。
「貫禄があっていいじゃないですか」
清川は二人の社交辞令的なやり取りを見守ったあと、話を進めるために着席を促した。黒いレザーソファに大西が座ると適度な反発と共に沈みこみ、なかなか座り心地がよかった。ソファの間に置かれたガラスのローテーブルには古井が持ち込んだ資料が置かれている。
「さて、大西君を呼んだのはほかでもない。古井さんの会社で開発している“健康サポートアプリ”についてなんだ。その資料がこれだ」
清川はテーブルの上の資料を大西に向けた。
「詳細な説明は古井さんからお願いします」
清川は古井に顔を向けながら言った。古井が続ける。
「はい。それではお時間を頂戴して。私たちの会社はこれまで主に業務管理のソフトウェア開発を中心に事業を展開してきました。ITに関連した領域を得意としています。これまでのそうしたノウハウを生かした新たな事業展開として、新たに“健康サポートアプリ”の開発を企画しました。運よく、政府の介護予防対策推進事業というので助成金いただけまして、まあ、これまで開発を進めてきたのです。しかし、私たちは医療については素人です。自分たちなりに調べてアイディアを出してはみたのですが、先日の中間報告で、医学的な立場からの監修が必須である、と指摘されましてね。それで清川先生にご相談に参った、というわけです」
「……というわけだ。今一通りアイディアを見させていただいたんだがね、どうも陳腐でありきたりで、面白みがない」
清川はいつもの平坦な口調で何の遠慮もなく言った。
「いやあ、お恥ずかしい限りです」
自分たちの案に酷な言葉を書けられたにも拘らず、古井は一切気にする様子ではなかった。
大西は二人の話を聞きながら資料にも目を通した。細かな文字が連ねられたポンチ絵は一見するとなにやら壮大な計画を思わせるものがあった。しかし、よくよく読むとただの電子版健康手帳であり、確かに既存の類似したアプリケーションはたくさんありそうに思えた。
「確かにレイアウトが違うだけで似たような商品はたくさんありますな。いわゆる健康手帳の電子版というか……」
大西は忖度せずに言った。二人とも同意を示す相槌を打ち、清川が続けた。
「そうだんだよ。ただの電子版健康手帳になってしまえば助成金が打ち切られる。それでね、私は閃いたんだよ。AIだ。入力された情報に基づいてアドバイスをくれるAIだ。しかもそれはその人に最適かつ具体的な運動プログラムを提供してくれるものだ。他の商品は医学の監修を受けていないから、大抵は病気や障害のある人を対象に考えてはいない。私はね、健康な人ももちろん、力の弱った高齢者や身体に障害を抱えて暮らす人にも使えるような、そんなAI搭載型健康サポートアプリを思いついたんだよ」
清川は珍しくやや興奮していた。瞳の奥ではいギラギラと輝く欲望の炎が渦巻いている。その様子は大西に何か裏があるのだと感づかせ、面倒な案件であると予感させるのに十分だった。
「このアプリの開発には無数の運動プログラムが必要になる。あとは、わかるね」
「つまり,我々にそのアプリに搭載する運動プログラムを考案しろ、というのですね」
「さすが大西君、ものわかりが早い。ただし、運動と言っても手足だけじゃなく、認知、嚥下、言葉もだ。そしてそのすべては医学的にエビデンスを持っていなくてはいけない」
随分と無理のある要求だと大西は思った。そしてそのアイディアも言うほどの斬新さがあるようには思えない。
「私はね、医師と療法士が連携しているうちのチームだからこそこのアイディアを実現できると思っている。医師だけでも、療法士だけでもダメだし、その二つが揃っていてもアプリケーションなんて開発できない。ところが、偶然にも私には古井さんという知り合いがいたのだ。これは奇跡としか思えん巡り合わせだ」
内容に対してずいぶんと大袈裟な言い方をしていることに大西は違和感を覚え、ますます何か裏があるのではないかと思わせた。古井は知識がないがために、医学部の教授がそういうならきっとそうなのだろう、といった感じで相槌を打ちながら二人の話を聞いている。
「しかし、これはなかなか骨が折れる仕事になりますね。我々としては労力に対するメリットがあまりないように思うのですが」
大西はささやかな抵抗の意を込めて言った。
「常人の努力ではできないことを成し遂げてこそ、はじめて価値のある仕事ができるのだよ、大西君。とにかく、私は古井さんを応援したい。さっきも言ったが、この企画は我々だからこそ実現できるのだ。さっそくワーキンググループを立ち上げてくれ。何事もスピード感が大事だ。古井さんのところからも一人メンバーを出してくれ」
ささやかな抵抗はあっさりと押し切られ、大西は沈黙した。一方で、古井はここぞとばかりに話し出した。
「もちろんです。いやはや、こんなにまでとんとん拍子で話が進むとは驚きです。今日はごあいさつ程度になるかと思ったのですが、さすがは清川先生です。私たちだけでは本当にちっぽけなものにしかならなかった。やっぱりに相談に来て良かったです。医学のことはお任せするしかありませんが、ソフトウェアのことなら任せてください。お互い協力していいものを作りましょう」
「それと、できればこの企画を大学の産学連携機構の事業の一環として扱いたいのだけれど、どうだろう。ちょうど先の理事会で私が次年度からの機構長を拝命してね、新しい企画を考えていたところだったんだ」
「それはありがたい。是非そうさせてください」
古井はすぐに呼応した。清川の目論見がだいたい読めた大西はもはや抵抗が無駄であると悟り、企画への賛同の意を示した。
「じゃあ、そういうことだから。後は頼んだよ、大西君」
話はそこで終わりとなった。大西と古井はあとでメールを送る約束をしてそれぞれ部屋を出た。大西はこの貧乏くじを誰に引かせるか思案しながらリハビリテーション部へと戻っていった。
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