第4話 あの時の先輩のように
『臨床はどれだけ力を入れても、誰がやっても大して変わりはしないさ.事故さえ起こさなければそれでいいんだよ。飯を食うための、生活をしていく銭を稼ぐ仕事だと割り切ってまずはノルマをこなすんだ』
十二年前。世良にそう言ったのは小木田だった。大学病院に就職できたことは誇らしく、期待で胸がいっぱいの世良は、その勢いのまま担当する呼吸器疾患の患者について症例報告としてまとめることができないか、小木田に相談したのだった。
『そういうアカデミックなことはさ、俺じゃなくて論文をコンスタントに書いている人間に聞くんだよ。俺たちなんて大したことないんだから。それに症例報告なんて書いたって仕方ないだろ。俺さ、症例報告って意味がないと思っているんだよね。だったらちゃんとスタディにしたほうがいいよ。まあ、やりたいんだったら止めはしないけどさ』
入職して間もない世良にとっては衝撃的な一言だった。わからないこと、不安なことがあったらいつでも相談してください、小木田はオリエンテーションのときに確かにそういったのだ。その言葉を鵜呑みにして安心しきっていた世良は面食らい、はじめは自分が何を言われているのか理解が追い付かなかった。小木田は続ける。
『どうせ俺たちなんて、しがない田舎の理学療法士だぜ。大したことはできやしないよ。あんまり肩に力を入れないでリラックスしてやったらいいよ。臨床は適当にこなしたらいいんだよ。もっとやるべき仕事だってあるんだから。大学ってのはどんどん仕事が降ってくるんだ。全部をまともにやっていたら身が持たないよ。俺は君のことを心配しているんだ。焦らなくていいんだよ』
いつのまにか世良は小木田に諭されるという構図になっていた.自分の想像とは全く異なる展開に混乱し、話題がすり替わっていることに気が付くことはできなかった。むしろ何か自分がおかしなことを言ってしまったと自分を責める気持ちになった。このときの世良はまだ、これが判断がつかないことをごまかすときの小木田の常套手段であることを知らなかった。
唖然として自席に戻ったころに、ようやく自分の悩みを解決できていないことを思い出した。症例報告は書いてはいけないという意味だったのだろうか。世良はただそれを確認したいだけだった。これからどうしよう。自分の悩み事を解決する術を失った。
ある先輩が世良の困った様子に気が付いて声をかけてくれた。先輩はもともと関東の病院で働き、結婚を機に地元に戻ってきた人だった。いつも自分のペースを崩さない独特な空気感のある人だったが、とても世話好きな人でもあった。先輩は症例報告にすることを前向きにとらえてくれて、いきなり論文ではなくまずは学会で発表してみたらとアドバイスをくれた。そして自分も手伝うよと言ってくれた。今思えば、それは論文にするには内容が不足していたので、目標を下方修正してくれていたのだと思う。そうして世良は先輩によく指導してもらう関係になり、それ以降も色々なことを教わった。その話はとても分興味深く、一切飽きることがなかった。学会に行くと先輩は少し顔が知れていて、受付にたどり着く前に道行くいろんな人から声を掛けられていた。そして一番近くで見てきた世良は彼が臨床に対してとても真摯に向き合っていることをよくわかっていた。いつか自分も先輩のような立派なセラピストになりたい、そう思わせてくれる憧れの先輩だった。臨床でわからないことや不安なことがあったら先輩に聞いた。先輩は何でもすぐに的確な答えをくれた。答えをもらう度に先輩のことを純粋にすごいと思ったし、どうして自分は同じような答えを導き出せないのかと、実力不足を実感した。世良も先輩に追いつけるようにと努力をした。はじめは何をしていいのかすらわからなかったのでとにかくがむしゃらに本を買い、研修会に参加した。夜は実験を手伝ったりもした。大学院に在籍中の先輩は、自分の研究だけではなく、研究室の同期や後輩の世話もしていた。その手伝いをすると、自分もその輪の一員になれた気がしたし、何よりも大学院がどんなところなのかを知ることができた。研究室のメンバーは職場とはまた違った視点の刺激をくれた。いずれも辛いものであったが、その辛さを乗り越えた先に自分が成長しているという実感が持てて、そのこと自体が糧となった。
世良が初めての症例報告をまとめるのには時間がかかった。先輩はいくつか参考となる図書を紹介してくれ、世良はそれを読むところからスタートだった。さらに事前のリサーチも不足していた。世良が新鮮に感じていたことは実はすでに多くの人が報告しているものであり、業界では既知の事実に過ぎなかったのだ。そうして挫折しそうになるたびに、先輩はまた別の視点でアドバイスをくれた。これを何度も繰り返すうちに、世良はたくさんの文献を読むことになった。想定が甘く、データが不足してしまったがゆえに主張できなくなるものもあった。それでも世良は楽しいと思っていた。この症例がものにならなかったとしても、この一連の過程での学びは日々新鮮な学びを世良に与えてくれ、臨床への刺激になった。実際、学んだことが他の診療の場面で役立つこともあった。たった一例を報告するにはこんなにたくさんの裏付けとなる知識や情報が必要になるものか。結局、その症例は報告するのは難しそうだという結論になったものの、世良にとって実りの多い経験となった。これを契機に世良は担当患者のカルテを隅々まで読み、調べるようになった。はじめこそ時間がかかり大変な作業だったが、一年も続けると知識がぐんと増え、短時間で終わるようになった。そして世良は症例報告にリベンジした。今度は前回とは異なり、しっかりと準備をしていたし、情報も整っていた。もちろん、先輩にも指導してもらった。学会へ出すための抄録を作成し、上司のチェックを受ける段階になった。小木田は先輩に指導してもらったと話すと、いいじゃないかといくつか内容をほめてくれた。技師長の大西は内容は学会側が判断するものだといって内容そのものには一切触れず、何カ所か文章を手直ししてくれた。
最後にリハビリテーション部の部長に確認をもらう。部長は脳外科の教授を兼任している
その翌日。いつもであればカンファレンスが終わり次第すぐに立ち去る清川が、ぐるりと後ろを向き、感情が宿っていない目をこちらにむけて,平坦な口調で部下たちに話しかけた。
『新人さんたちもだいぶ業務に慣れてきた頃かと思います。臨床も大切ですが、ここは大学病院です。ぜひ研究にも精力的にチャレンジしていただきたい。我々大学のスタッフは患者を診ることはやって当たり前のことであって、飯を食うための仕事です。臨床+αをやってこそ、一流になることができるのです。私は一流の仕事をしています。皆さんにも一流の仕事を教えます。だから、あなたたちは私の仕事を手伝いなさい。そっちのほうがあなたたち自身の将来のためにもなる、何倍も価値のあることなのです』
普段しない言動をわざわざした、ということがその場にいる全員に何かの意図を感じさせ、緊張感のある重い空気が漂った。清川は言い終わると部屋を出ていった。
そのあと、世良は小木田に呼ばれた。そこには牛窪もいた。
『あれはさ、君の症例報告があんまり気に食わなかったんだよ。教授は立場もあるから、はっきりとは言えなかったんだ。我々は脳外科の下だからさ、やっぱり脳外科の仕事をしなきゃいけないんだよ。とはいえ、我々は我々だからさ、ダメではないよな。それに症例報告をするってことはいいことなんだ。ただ俺は最初からちょっと気になることはあったんだけど。でもダメではないだ。ただ教授があんな感じだからさ。どうする?』
突然の、そして曖昧模糊とした言い回しに、世良は何を言われているのか理解が追い付かなかった。いつもは一人称が“俺”なのに、こういうときは“我々”を使うところに不自然さだけが妙に印象に残っていた。牛窪は何も言わずじっとこちらを睨んでいる。
世良は状況を飲み込めないまま、“ダメではない”というのであればただ素直に、やりたいです、と答えた。すると小木田は、でもさ、とさっきと同じような内容を繰り返した。この一年、自分は努力してきたし、症例報告をすることの何がいけないのか。それに先輩と言っていることが矛盾していて、混乱した。まだ新人だった世良は小木田は教授に何を気遣っているのか理解できず、何度言われても今回はやりますと答え続けた。小木田はどこか気に食わない様子であったが最後には観念し、しぶしぶといった様子で「君がいいならいいんだ」といった。牛窪は何も言わずに大きくため息をついて、小木田と部屋を出ていった。部屋の外では「また余計な仕事が増えたじゃない」という牛窪の甲高い声が聞こえた。
やりとりが終わるまで一時間もかかり、世良は心身ともにぐったりと疲れていた。今ならわかる。世良が送ったメールが部長を刺激したのだ。普段研究活動や発表をしない小木田や牛窪たちにからしてみれば耳が痛い。つまり、世良が藪蛇をつついたことを不満に思った行動だった。
それからは何事もなかったかのように日々が過ぎ、世良は先輩の指導を受け、がちがちに緊張しながら初めての症例報告を終えた。聴衆からは特に質問はなく、座長がいくつかコメントをくれた。二年目の療法士であることを思えば無難な、むしろよくできたほうだったかもしれない。しかし、世良の本番を気にかけたスタッフは先輩だけで、発表に至るまでの出来事が脳裏に嫌な記憶としてこびりつき、なんとも後味が悪いものになった。それでも世良は、今まで通りの研鑽を続けるようにした。誰か人の役に立つために、自分にできることに最善を尽くした。その姿勢は先輩が教えてくれた。
そうして二年ほど経った頃、先輩は職場を去った。大学の教員になるのだという。研究室のボスから助教のポストが空くのでぜひ来てほしいと声を掛けられていたらしい。やっぱり先輩はすごい、そういう憧れと尊敬の念と同時に、頼りにしていた人がいなくなるという不安な気持ちが入り混じっていた。
世良が職場の腐敗に気が付くまでに、それから半年かかった。
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あれから気がつけば十年が過ぎた。先輩は教授にまで出世して、今も時々連絡をくれる。世良もまた、先輩に追いつこうと自分なりに努力を続けてきた。ただ、今一つ手応えがない。今や自分にも後輩が何人かいる。後輩たちの目に自分はあの時の先輩のように映っているのだろうか。
昼飯は病院から徒歩圏内にある定食屋で蕎麦を注文をした。お茶を啜りながらそばを待つ間、 店の片隅のテレビでニュースを見た。五十半ばの見慣れた女性アナウンサーがスポーツ選手たちの活躍を報道していた。みんな20代で、自分よりも若くして世界で活躍している。番組内でコメンテータ―をしている有識者は自分とほぼ同い年だ。
同じ時代に生まれ、同じ年月を過ごしてきたはずなのに、どうしてこうまで差が出るのか。惨めな気持ちで蕎麦を手繰った。
午後からは言語聴覚士のレジデントによる報告が予定されていた。画面上の参加者も明らかに少なくなっている。午前ですっかりと惨めさに打ちひしがれてしまい、もはや全く聴講する気がなくなってしまった。それでも生真面目な世良は、そのまま歯を食いしばって最後まで参加した。
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