第2話 中身は空っぽのポンコツ
午前の診療が押した分、午後のスケジュールがパンクした.何人かは休みにしなくてはいけないだろう。世良寛斗が弁当を食べながらそんなことを考えていると、急に右肩にずしっと重さを感じた。
「昼の患者、大変だったらしいな。大丈夫だったか?」
副技師長の
世良の右肩に手を載せたまま、小木田は続けた。
「むこうが間違えてきたんだろ?困るよな、ああいうやつ。たまにいるんだよな。対応してくれたのが世良でよかったよ。俺だったらあんなにうまく納められなかったな」
白々しい態度だなと、世良は思った。
「でも、話の通じる人でよかったです。もっと我儘な人もいるので。そういえば、小木田先生はあのときいたんですか?」
「いや、俺はいなかったよ。戻ってきたら
「ところで、予約日を間違えたにせよ、なんであんなに長い時間放置されてしまったんですかね。受付もスルーしちゃったみたいで、ちょっと腑に落ちないというか、気にかかってるんです。インシデントレポート、書いたほうがいいですか?」
世良が尋ねると、小木田は笑顔を崩さずに一瞬目を逸らした。右手は世良の肩に乗せたまま、空いているほうの左手で顎を掻いている。これが動揺を隠そうとするときの小木田の癖であることを世良はよく知っている。なにか白々しいなと世良は思った。
小木田は世良の肩から右手を離して首を横に振った。
「いやいや、そこまでにはしなくていいよ。どうせまた技師長が何か勘違いしただけなんだろうし。それにさ、運動を指導するだけなんだろ。そもそも我々が診るべき患者じゃないんだと思うんだよな。理学療法なんだから、もっとバイオメカニカルなものじゃないとさ。ただ運動するなら外来の看護師が指導したらいいんだよ。面倒な患者ばっかりこっちに押し付けてくるんだから。とりあえず、災難だったな。弁当、美味そうじゃん」
そう言い切ると小木田は満足げに自席に戻っていった。世良はその後ろ姿をじっと見ながら、あいつ何しに来たんだ、と思った。気遣うどころか、最後には持論で世良の努力を否定するような言動を取り、嫌な気持ちが増した。にも拘らず自分は部下の苦労に配慮しているいい上司だと思っている。普段は世良のことは一切気に掛ける様子もなく自分の仕事ばかりしている小木田がわざわざ声をかけに来たことも気がかりだった。なにか自分に都合が悪い時やバツが悪い時、こちらが何もしなくても言い訳がましい行動をとる男だ。右肩に残った生暖かさが気持ち悪くて、世良は左手で肩を払った。
小木田聡は自尊心が高く、自分は他人よりも優れたエリートだとと思っている。彼にとって肩書や社会的地位は最大のステータスであり、体裁ばかりを気にする。その中身には一切の興味がない。実際、中身は空っぽのポンコツなのである。肩書が欲しいがために大学院に進学したものの、学位論文は海のものとも山のものともつかないような結果をまとめて学内の紀要に載せただけだ。そうして胡坐をかいて数十年。狭い世界に引き籠り、自らの無能さを悟られないように務めてきた。不足している能力をうまくごまかし、やり過ごす。その内情を知るものからして見れば虎の威を借る狐であり、他人のふんどしで相撲を取っているだけなのだが、何も知らない人間から見れば優れたいい人に見える。周りも周りでお世辞かどうかよくわからない褒め言葉をかけていく。そんなことを繰り返すうちに本人も自らの実力を勘違いしはじめた。いまではすっかり有識者のように振るうようになり、臨床では個人のこだわりで歪んだ持論を展開し、まともな研究をしたこともないのに学術を偉そうに語る。年功序列で副技師長の座につくとさらに自尊心は膨れ上がった。自分は偉い。自分は優れている。自分は賢い。早く技師長になりたい。あんなやつ、何にも仕事をしないじゃないか。自らが努力せず楽に成果を得ることを美徳とするようになった小木田は、他を貶めることで自らを高め、だんだんと新しいことを受け入れがたくなった。新しいというのは、小木田が知らない、というだけである。長い間、閉ざされた自分たちだけの世界に引き籠っていたがゆえに、その感覚は世間からしてみれば十年くらい遅れている。自分たちに求められる役割が時代とともに拡大し、変化していることを受け入れることができない。しかし、自分は大学病院というアカデミックな環境で働くエリートであり、業界の最先端であるという周囲からの認識は失いたくはない。理知的な人間を装いたい。そんな体の内側で燻る自己顕示欲がばれないように必死に隠している。しかし、所詮はポンコツであり、ちらほらとボロを出す。先の発言はその隠し切れなかった本心が垣間見えたのである。
小木田から余計な声をかけられたせいでもやもやが一層増して、午後もずっとそのことが気がかりになってしまった。確かに今回の一件は先方が予定を間違えて来院したということもあり、部内で問題を共有すれば、インシデントレポートにするようなことではないかもしれない。それでも世良の感覚では、自分が声をかけるまで誰も声をかけなかったのはおかしいとしか思えなかった。罵られた当事者だから感情的になっているのだろうか。それにインシデントの話をした時の小木田の反応は何だったのか。余計な一言どころか二言も三言も口にしていた。昼休みのことが思い出されてきて,なんだか右肩がまた気持ち悪くなった。
「……それで、世良さんはどう思いますか?」
患者から回答を迫られて、ふと我に返った。患者は杖のカタログを広げ、どの柄にするか世良に相談していたのだ。
「あ、すみません。私もそっちのほうがいいと思います」
適当な相槌を打って、良くないな、と思った。出口の見えない悩み事で仕事に身が入っていない。もう考えても仕方がないのだから、考えるのはやめて目の前の仕事に集中したほうがらいい。わかってはいるものの、もやもやは頭からは離れず、気を抜くとすぐにそのことを考えてしまう。世良は昔から気持ちを切り替えるのは苦手だった。
杖を注文する手続きを済ませ、いったんスタッフルームに戻った。一度気持ちを整理する必要がある。世良は“何が正しいか”ということに焦点を絞り、考えを巡らせた。
(インシデントレポートにはしないにせよ、今回の原因を突き止めて同じようなエラーが起きないような対策を立てることは悪いことではないはずだ)
自分の中で一つの結論にたどり着くと、少しは気持ちが晴れた。心に余白ができると、随分と些細なことに拘って時間を浪費しているとも思えてきた。今の精神状態なら、残りの仕事を終わらせることに集中できそうだ。
気分転換に成功してスタッフルームを出ようとすると、牛窪ゆり子が入ってきた.小木田に沢口の一件を伝えた理学療法士だ。二児の母親でもある。ユニフォームの輪郭は腹に浮き輪を三つ嵌めているかのようで、そのだらしのない体をぶいぶいと震わせながら世良に声をかけた。
「あら、世良君。お昼は大変だったね」
牛窪は水分補給に戻ってきたようで、バカでかい水筒の中身をがぶりと飲んだ。
「はい。あの件、牛窪さんが小木田先生に伝えてくれたんですよね」
「伝えるも何も、あの人はもともと小木田さんがあなたに頼んだんじゃないの?」
牛窪の言葉に世良は意表を突かれた。
「どういうことですか」
「どうもこうも、先週、主治医から電話があって、小木田さんが電話に出たのよ。ちょっと大変な人なんだけど、指導してほしいって。で,最初は私が頼まれたんだけど、忙しいから断ったの。そしたら別の人に頼むからいいよって言われたのよ。だからてっきりあなたに頼んだんだと思ってたわ。すごく怒ってたから心配したわ」
全く理解が追いつかず唖然とする世良を意に介さずに牛窪は続けた。
「そしたらあの患者が一日間違えてきてたんでしょう。なんだかしらないけど,傍迷惑な話よね。世良君も災難だったわね」
「その、先週の時点だと,小木田先生は誰にお願いしたのでしょう?」
「そんなこと私は知らないわよ」
「それはそうですよね。一応インシデントというかヒヤリハットというか、対策を考えたほうがいいかなって思いまして」
「あらあら。世良君はまじめね」
それだけ言うと牛窪はまたがぶりと水筒に口をつけ、ぶりぶりと体を震わせながら部屋を出て行ってしまった。
どうにも腑に落ちない状況なった。牛窪の他人事のような態度もあって、せっかく鎮まりかけたもやもやがまた燻り始める。
実際、この一件は小木田の仕業であった。小木田は電話を受けたとき,面倒な患者の運動指導なんてものは自分の仕事ではないと思った。そもそも理学療法というものはもっと崇高な技術なのだ。そう思った小木田は,近くにいた牛窪に任せようとした。しかし、牛窪に断られ、ひとまず適当に初診日を連絡した。そして自分の仕事をしているうちにその全てをすっかりと忘れた。今日、技師長から見慣れぬ患者がずっと待っていると連絡をもらってようやっと思い出し、まずいと思った。この時点で小木田は相手が予約日を勘違いしているとは知らず、すっかりと自分のミスだと思いこんでいたのだ。小木田はこういう時、他人に問題を押し付けて難を逃れたいという思考になる。牛窪には一度断られているし、気が強くて面倒だ。頼まれごとを断れないお人好しは、世良だ。困ったとき、世良寛斗は役に立つ。そう考えて、「今日、対応できそうなのは世良です」と適当に返事をした。別にスタッフ一人一人のスケジュールを把握しているわけでもない。ただ、言葉にするときっとそうなんだと思えて来た。自分は賢いのだ。自分の判断はいつだって正しい。今だって、この窮地をうまく乗り切ることができた。それに自分は電話での対応しかしていないのだから、証拠がないじゃないか。何か問題になっても自分は知らないと言い張れば絶対にばれない。むしろ、管理職である技師長の失態だ。小木田は随分と都合の良い結論にたどり着いた。
小木田がインシデントレポートにする必要はないと答えたのは、あれこれ詮索されることを恐れたからだ。昼休みに牛窪から世良が患者を怒らせていたと聞いたとき、面倒なことになりそうだなと思った。牛窪が世良に余計なこと言ったら困る。だから自分から世良に話しておくから、と牛窪をなだめたのだ.世良も特に気にしている様子ではなかったし、あいつは事態を丸く収めてくれた。その人選をしたのは自分なのだから、むしろいい仕事をしたじゃないか。
こうした小木田の器の小ささが招いた事態であることを、世良は知る由もなかった。そして、世良は残りの業務も身に入らないまま帰路についた。
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