チュートリアル

第1話


「あー……こりゃあダメかもね」


 メガネをかけた女性が僕の顔を覗き込んできた。そしてそのまま僕の左目を見るように手を僕の顔に添えた。

 何がダメなのかは僕自身でもわかる。

 実はあの時、僕は左目を怪我していたようなのだ。あの時はすっかり興奮していて全く痛みと出血に気づけなかった。起きて目に違和感があるなと思い、触ってみれば眼帯がつけられていて、そこで自分が怪我をしていたということに気づいたというわけだ。


「ダメって……?」

「失明」

 僕の左目を見ながら女性は軽々と言ってのけた。なんてことがない、というように。絶望した僕を見て彼女はため息をついた。「命が助かっただけでも奇跡的だよ」

 白い空間は学校の保健室に似ている。ベッドもあるし、何か薬剤と分厚い本が入った棚もある。しかし、清潔感が少し足りなかった。

 部屋の角には埃が溜まっており、ベッドはところどころ塗装が剥げて錆びている。床は傷だらけ……汚いというか、古い保健室だった。

「まさか本当に助かるとはね……」女性は小さく呟いた。


……。


「あの、ここってどこなんですか?」

「ここ?ああ、ここは異常災害対策部の医療室」

 『異常災害対策部』その単語は十分に僕を驚かせた。いや、その答えはさっきから予想していたのだが、まさか本当に異常災害対策部が存在していたものなんて信じることができなかったのだ。


 異常災害対策部は、2020年に政府が発足させた特殊部隊のことである。

 僕を襲ったあの怪物……業孤を除去するために。

 業孤とは、その正体はほぼ解明されていないが動物ではないものの知能を持ち、人間に対してのみ危害を与える存在である。その存在は2020年より前にも存在していたらしいが、政府が内密に処分していたことがわかっている。しかし、2020年に現れた業孤が出した被害は政府が隠せるレベルの被害ではなかった。


 300人が死んだ。あの時の世間の混乱は僕も覚えている。


 あの事件を皮切りに世界は業孤の存在と向き合い始め、業孤撲滅のために発足された機関が『異常災害対策部』ということだ。


「じゃあ、僕が会ったのは」「業孤だね。レベル4の」

 レベル4。僕は尻尾が4本ある業孤、この前の災害の半分にあたる実力を持つ業孤と会ったということだ。業孤の名前は『九尾の狐』に由来している。

 九尾の狐は生まれた時から9つの尾を持っているわけではない。年を経て妖力が増すごとに尾が増えていくのだ。業孤も年を重ねるごとに尻尾が増えていくという。

「40人は亡くなった。学校の授業中、窓から入ったみたい。かなり飢えていたのね、10人の遺体は見つかっていない」


 つまり、10人は捕食された……


「君もその一人、という扱いになっている」

「え?」

 僕は慌てて自分の四肢を確認するが、ちゃんとついているし動かせる。

 どういうことだ?僕はまだ生きているじゃないか。

 女性はカツカツとハイヒールの踵を鳴らした。古い本棚の前に立ち、本棚を埋める背表紙を眺めた。

「僕……死んだんですか?」

 彼女は驚いたように僕の方を見てはははと笑った。そんなに僕の言うことはおかしかったらしい。

「何、安心して。いや、安心できないか」

「どういうことですか」

 女性は長い前髪を右に流す。「君は今、世間では死んだことになってしまっているんだよ」

「君を助けたやつ……カシマって呼ばれてるんだけどさ。あいつは本来業孤を殺すためだけに君の学校へ向かったんだよ。でも、運よく生存者を見つけてね。ウチは生存者優先だからさ、急遽生存者を助けて帰った。そのあとから別の部隊が到着して業孤を処分・被害の報告を行なってしまった。そうしたら君は死んだこととして報告されてしまったのだよ」

「業孤に関する死者、被害者に関する法律はまだ整備されていなくてな。君の死亡扱いを取り消すのは今はまだ難しいんだ」


 背筋が凍った。


 女性はわかりやすく説明してくれたのだが、それは僕にとって悪いことだった。

 理解したくなかった。


「じゃ、じゃあ、僕はどうなるんですか」

 彼女が言いたいことを理解してしまうのが嫌だった。

 彼女は僕を試すように僕の目をじっと見つめてくる。家畜を見るような視線だった。

 彼女からみれば、僕なんて小さくて可哀想な生物なのだろう。

「私たちと一緒に過ごして、死んだ扱いが消されるようになるまで待つ。それが君のできることだ」


  ……。


「残念だけど、そうするしかない。君の暮らす場所の案内はあとで係の者にさせておく。よろしくな、《みなぎ》実凪くん」

 女性はそう言うと動けない僕の側へ歩み寄り、手を差し出した。「この後この部屋を使うんだ」

 僕はその手を取る。もう何か言う気力はない。情報の整理が追いつかないまま僕は立ち上がった。

 何か、何か聞きたいことがあるはずなんだ。

「目、お大事に」

 彼女はふっと優しく微笑む。その笑顔は美しかった。

「あ、あの」

「ん?どうしたんだ?」


「カシマさん、って……僕が会うことはできます?」


 僕のために用意された部屋は、少し広かった。もう帰ることのできない自宅にある僕の部屋と比べると、その差は歴然だ。子供用の学習机なんてないし、漫画がたくさん詰まった本棚もない。

 大人一人が住む、必要最低限の部屋。


「カシマ?ああ、さっき外に出て行ったよ。多分……駅の方に行ったんじゃない?」


  この建物……異常災害対策部の長野本部は、近くに駅があるという。

 僕は新しい部屋の内見もしないまま部屋を出た。

「ここの建物には何人かのメンバーが住んでいて、いつもすぐに災害に駆けつけられるようにしているんです。ほら、部屋を出たらすぐ目の前に玄関があるでしょう?」

 僕の部屋の案内をしながら、家政婦だという真夏さんが誇らしげに言った。真夏さんは優しそうなおばあちゃん、といった見た目の方だ。


 僕は玄関を開け、外に出る。

 

涼しい夜だった。

 

僕は駅へと足を進める。


 あの時から、カシマのことが頭に染み付いて離れない。階段で躓きそうになるのを察知して引き寄せてくれた、あの時の手の温かさ。僕は無意識に眼帯の左目に手を触れていた。


 涼しい夜だった。


「俺、何してるんだろ」

 そういえば、誰かに外に出ることを告げずに出てきてしまったのだが、大丈夫なのだろうか? 今更の話か。僕は自暴自棄に近いような状態らしい。先程の残酷は話をしてからずっと頭が回らない。


 僕は、死んだことにされている。もう家には帰れない。左目も失ってしまった。


「……バカみたいじゃないか」

 目が熱くなってきた。僕はグッと涙を堪える。

 これからカシマを見つけて問い詰めるのだ。目が赤くなっているまま彼に挑むなんてダサすぎる。そう思ったら涙は勝手に引っ込んでいった。


 「カシマくん?どうだかねえ、あのこは……この前、駅前の公園にいるところを見たけど、もしかしたらそこにいるかもねえ」


 真夏さんが言った通りに駅前の公園にとりあえずたどり着いた。

 暗闇を街頭が照らしあげている。灰色の砂の地面。それはどこか小さい時に遊んだ公園を思い出させる。暗いところから見ても、公園を囲む植え込みは綺麗に手入れがされていることがわかる。滑り台、ブランコ、懐かしい遊具たちがそこにいた。

 

一見、誰もいないように見えた。


 僕は思い切って公園の中に入ってみる。

 

 誰もいない。

 

カシマは人と接することは好まないという。一匹狼なせいで彼の情報は全く分からないし、彼も自分のことを語らないと真夏さんは言っていた。

 

誰もいないようで安心している自分がいた。一対一で話したい反面、彼のことが怖いと思ってもいた。


 僕は回れ右をして公園を出ようとした。

 

 


 全く気づけなかった。


 背後にいたなんて。

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