東京、血濡れた君の手を取る
魚峯
プロローグ
嫌な思い出がある。昔の話だ。夢で見た事か、現実で起きた事かも分からないぐらい昔の話だ。
僕は学校にいて、いつもと同じように授業を受けていて、隣には好きな女の子が座っていて、まあまあ楽しい時間だった。でも、しばらく時間が経つと黒板に書いてある文字がだんだん滲んで溶けていく。ハッとして周囲を見渡すと、周りにいた人間はみんないなくなっていて僕は恐怖でそこから逃げ出す。その後……僕はどうしたのだろう。
多分、この気味が悪い出来事は夢だったのだろう。気持ちが悪い正夢だったんだ。周囲に漂う臭気は夢で僕がいたあの教室に満ちていたものと同じだ。
「大丈夫か」
でも、今は紛れもない現実だ。僕は差し出された手を取る。その手袋の手は返り血で濡れていたが、抵抗感は無かった。「逃げるぞ!」
チカチカと明滅する蛍光灯の下で、3本の黒い尻尾が揺れている。
そうだ、昔の思い出に浸っている場合ではない。サイレンがわんわん血濡れの部屋を揺らしている。
僕は返事を返さなかったが、黒いパーカーの男は勝手に僕を連れて駆け出した。元々返事は聞いていなかったのだろう。軽快だった。足音も立たないうちに教室を僕たちは出ていた。
文字にできない怪物の鳴き声が後を追ってきた。
「うわっっ!」僕は思わず叫んでしまったが、それすらもかき消す轟音だった。しかし、そんなものは全く脅威とは言えないらしい。男は一切怯まずに走り続ける。
こいつ、一体なんなのだろう。僕は必死に足を動かしながらちらりと彼の顔を見ようとしたが、フルフェイスのヘルメットを被っており顔が見えなかった。
「前見てろ」「す、すみません!」
「喋るな」
今は生きることが最優先だ……ということらしい。僕は黙った。黙ってここから逃げて帰ることに意識を集中する。
僕がいた教室、ついさっき理不尽な惨殺が起きた教室はこの学校の3階にある。だから、とりあえず今目の前にある階段を2階分駆け下りればいい。男はこの学校の構造を把握しているようで、僕の考えている通りに階段を素早く降り始めた。
……すごい速さだ。この男、何かスポーツをやっていたのだろうか。
階段を降りると、一階の廊下の端につく。そうしたら道なりに進み、職員室の反対側が玄関……詰まるところ出口だ。
ダンダンと階段に何かがのたうつ音が響いて近づいてくる。それに気づいた瞬間一気に恐怖が舞い戻ってきた。
追いかけてきている! 今度は叫ばなかった。この音は怪物の長い尾が狭い階段の空間にベチベチ当たっている音に違いない。走るスピードが速まり、何度も僕は躓きそうになったが、その度に男が手を強く引っ張ってくれたおかげで僕は一度も転ばずに校外へ脱出することができた。
外の砂混じりのコンクリートの感触をこんなにありがたく感じる時がくるとは思わなかった。
外だ。
休む間もなく男は玄関の真ん前に止められていた黒いバイクに跨り、僕にヘルメットを被せた。
えっ、と思わず声を漏らすところだった。
誰かの後ろのバイクなんて乗ったことなんてない。しかも知らない人とだ。僕は躊躇ってしまった。
数秒の沈黙だったのだが、男はイライラした様子を見せて僕をぐいっと自分の方へ引き寄せた。数秒の誤差も許されなかったのだろう。僕は慌てて見知らぬ男の後ろに座った。途端にバイクが動き出す。
あの時僕が何秒もバイクに乗ることに躊躇していたら、僕たちは絶対に助からなかったはずだ。高速で走るバイクの上は思ったより安定してはいたが、僕は怖くて男の背中に情けなくしがみついてしまった。それからは記憶がない。
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