第十一話 Studienerfahrung im Ausland−留学経験−

 その日の夕方、茶の間で祖父母がフランツィスカと対面して話していた。俺は夕食の片づけをする傍ら、その話を聞いていた。


「お嬢ちゃんはどこに住んでいるんだい?バイエルン辺りか?」


祖父の質問に、フランツィスカは首を振るとこう答えた。


「ベルリンですよ。でも確かによく言われますね。髪が黒い所とか、背が低めな所とか、あと………」


言葉が詰まり、暫しの沈黙が訪れる。


「………保守的な所とか。」


「確かに、南の方のドイツ人は結構古いもん好きが多いなぁ。」


革命とか言ってるフランツィスカが保守的?そんな風な印象は微塵も感じられないのだが。


「お爺さんはどこに留学なさっていたんですか?」


「わしぁミュンヘンだったな。西洋かぶれだった大学時代のわしにとっちゃあ天国の様な場所だったよ。」


祖母が口元を押さえてフフッと笑った。


「わたしと映画を観に行った時なんて、燕尾服にステッキを持って来ましたもんねぇ。」


それを聞いて、郷愁ならぬ異郷愁に浸っていた祖父も思わずクスッと笑みを溢した。


「そういやお嬢ちゃん、パンに塗って食べる生挽き肉は何と言うんだっけなあ?」


「ハッケペーターですね。」


祖父の質問にフランツィスカは即答した。その答えを聞いて祖父は頷き、こう言った。


「おお、これは正真正銘のベルリンっ子だなぁ。」


いきなりそう言い出したものたがら、理解が追い付かない。俺は台拭きを持ったまま立ち止まり、こう聞いた。


「じいちゃん、それってどういう事?というか『パンに塗って食べる生挽き肉』って何?」


祖父はくるりとこちらを向くと、説明を始めた。


「ドイツだとなあ、挽き肉を生で食うんだよ。ジャムかバターみたいにパンに塗ってな。」


「えっ?食中毒とか大丈夫なの?」


「それは、厳重に衛生管理をしておるから平気だ。わしも最初は怖かったけどなあ、結局何度食っても腹は壊さんかったぞ。」


そう言われても、どうも納得できない。豚肉を生焼けで食べることさえ恐れ多いのだから、生食なんて安心できるはずがない。少し困惑する俺に構わず、祖父は話を続ける。


「そいつを南の方では『メット』と言うのだがなあ、北では『ハッケペーター』って呼ぶんだよ。」


「へ、へえ。」


「わしの居たミュンヘンはドイツの一番南だったからなあ、現地の大学の仲間から、『ハッケペーターって言ってる奴はベルリンっ子かオストのスパイだ』って教えて貰ったんだよ。」


どうも『オスト』のスパイという聞きなれない言葉に引っ掛かったが、知らない言葉が出てくるのは祖父との会話では茶飯事なので、あまり気にしないでおいた。


フランツィスカは黙って頷いた後にこう言った。


「そうですよね。やっぱり、方言って結構ありますからね。」


「そうだなぁ。そう言えば、わしも一度だけベルリンに言ったことがあるのだがなぁ。あれは本当に奇妙な街だった……和政、ちょっと待てい。」


祖父は再び歩き出そうとした俺を引き留め、こう問い掛けてきた。


「和政もベルリンの壁の事は知っとるだろう?」


「うん。知ってるけど?」


「わしは西ベルリンから、壁の向こうを見たのだよ。」


祖父がその言葉を発した瞬間、フランツィスカはハッとした様子で目を丸くし、顔を彼の方向へと向けた。


「こちら側の街には自動車が走り、ネオンが輝き、人々の話し声が聞こえた。だが、。柵や有刺鉄線を越えた先に建つ街は、楠んだ外壁の建物や文字だけの看板、口を閉じて歩く人々で出来ていた……」


そして祖父はフランツィスカに顔を向ける。二人の視線が重なる。


「お嬢ちゃんは、そんな街での暮らしを望んでいるのかい?」


言葉が深く突き刺さったのか、彼女はしばらく沈黙した。しかし、顔を少し上に向けた後に首を横に振った。


「いいえ。私が望んでいるのは、みんなが幸せに生き生きと暮らせる社会です。社会主義が、共産主義が、そんな未来への道となるのだと思うんです。それが……」


拳が力強く握られる。


「東ドイツ人としての、私の信念なのですから!!」

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