第八話 Fehlkalkulation−誤算−
叶恵はどこか抜けている。それは何年経とうが変わらない事実だ。
「じゃあ、俺が持ってるお金を使ってくれ。」
「えっ?良いの?」
俺は財布の小銭入れの中身を掴み、彼女に手渡した。自分は無一文になったが、叶恵が帰られるのであればそれでいい。
「あと五十円足りない………」
彼女を救ったつもりでいたが、その充実感は打ち砕かれた。これ以上財布に現金は入っていない。となると、取るべき選択は一つであった。
「なら家からお金持って来ようと思うんだけどさ、どうする?」
そう聞くと、叶恵は何か閃いた様子でこう答えた。
「じゃあ私もついて行っていい?もうずっと和くんの家に行ってないしさ。ちょっとお邪魔したいな!」
『ちょっとお邪魔したい』という言葉がやけに図々しく感じられたが、別に拒むような事ではない。むしろ、歓迎したい程である。
それに、フランツィスカは今日は朝から外出である。少し厚みのあるサンドイッチを持っていった様だし、恐らく帰ってくるのは昼以降だろう。
まだ日は東の方角ににある。叶恵を共産主義者と遭遇させずに家を訪れさせる為の時間は十分にあるのだ。
「分かった。昼までだったら良いよ。午後からは勉強とかで忙しいしさ。」
怪しいドイツ人が帰ってくる可能性があるからなど、口が裂けても言えない。
玄関前に着くなり、叶恵は目を輝かせて言った。
「わあ~!懐かしい~!」
高校で友達がいないなど信じがたい程テンションが高く、玄関の引き戸の傷だらけのガラスやら、脇に小さく咲いているヒルガオやらを、ちょこまかと見て回った。
「物壊したりするなよ。」
「そんな事しないから大丈夫、大丈夫…あっ…………」
ガチャン!
思わず、ハァと声として出るほどの溜め息をついてしまった。しかし、そんな彼女の失態さえも、玄関の景色が相まって懐かしく感じられる。
叶恵の壊した植木鉢の片付けを終えた後、俺は彼女を自分の部屋へと案内した。
「はい。五十円。」
そう言ってお金を渡そうとするが、叶恵は部屋の中を見渡し、思い付いた様に勉強机の上を指差してこう聞いてきた。
「すごい数の参考書だね。」
「ああ。『夏を制するものが受験を制す』って言うしさ。今は大事な時期なんだよ。」
彼女は勉強机の椅子に座り、参考書をパラパラめくりながら言った。
「和くんは凄いよ。ほんとに、私と比べらんないくらい。」
諦めのような、謙遜のような、そんな様子が語り口から感じられた。叶恵が自分自身と俺を比べてそんな気持ちになるなら、こちらまで悲しくなってしまう。
「中学校の時もさ、私によく勉強教えてくれたよね?あの時言えなかったから言いたいんだけどさ………」
「どうしたんだ?」
「いやいや、気にしないで!引っ越すときにさ、さよならも言えなかった事も思い出しちゃってさ………」
依然として落ち着かない叶恵。何か隠し事をしているかのような、そんな態度であった。
それから彼女と話している内に、気付くと時計の針は二本とも十二を指していた。
「あっ、そろそろ帰らないとかな?」
「そうだな。ちょっとの間しか話せなくてごめん。」
「ううん、もう二時間ぐらい話してたよ。でも、私ももっと話したかったな。」
そう言うと、叶恵は目を細めて笑った。その瞬間………
ガラガラガラ!
玄関の引き戸が開いた。
「ちょっと待ってて。」
俺はすぐさま立ち上がり、音のした方へと向かった。
それに、何と都合の悪いタイミングで……………!
「あ、和政さん。只今帰りました。」
「どうして今帰ってきたんだ?昼食なら持っていっただろ?」
フランツィスカは首を傾げる。
「あれは朝食ですよ?」
彼を知り己を知れば百戦危うからず。
彼女、いや、ドイツ人について知らなかった事こそ、最大の誤算であった。
「ドイツだと食事は五食なんです。」
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