相対的な幸せ

 「ぉっと……」


 危ない危ない、スマホを回収するのをわすれるところだった。流石に湿気が多い風呂場に長時間放置していたら電子機器のスマホなんてすぐに壊れてしまうだろう。


 最近のスマホの防水性能についてはよくわからないが、このスマホはだいぶ昔のオンボロだ。危なかった。


 「さて……」

 僕は思ったりよりも早く、喋る感覚を取り戻してきた。


 それはそうとてキッチンに行く……こんな通常なら軽々しい造作もない、むしろ毎日やっているだろうことだが、いつも食事は母に作らせ、部屋の前まで持ってきてもらっていた僕にとって、久しく行っていないキッチンは子供が森の小路こみちを歩くような大冒険だ。


 あぁそうだ。


 子供の頃のなんでも壮大に、幸せに感じていたのは多分まだ何も知らない純粋な心と心身の未熟さあってのものだった。


 あの頃は楽しかった。


 だがキッチンに行く今の僕の気持ちは恐怖そのものだ。


 だとすると人間、無知なほうが幸せなのかもしれない。


 そう仮定するならば成長し、知識を付けていく子供は、幸せから無意識的に、そして相対的に遠ざかっていると言えるだろう。


 新しいことを知ることで知識欲が満たされ幸せになる。

 

 だが一度知ってしまったものをニ度知るということは不可能であり、そうなるとあの面白い感覚と全く同じものを味合うのは永遠に不可能になる。


 そして身近な、生活することに必要不可欠な知識を享受きょうじゅし、知識欲から来る幸せを満たしてしまえばしまうほど日常的な幸せが無くなってしまうことで、相対的に不幸せになってしまう。


 幸せになると言うことは、逆に一つの選べる幸せを失うことだ。


 

 僕はこの25年間で幸せを選びすぎた。



 ネットばかりしているせいで謎の語彙力と謎の知識も付いたし、4年前だったか……結局受けることはせず、途中で放棄したが、高卒認定試験を取ろうと変に勉強もした。


 少なくともこの11年間の幸せは、結局意味のない幸せだったのかもしれない。


 意味のない幸せなんて虚しいだけだ。


 いや虚しいのは幸せに意味がないと思う自分の心か?結局幸せは幸せであるから、悪いことではない気がする。


 悪いことではないが、いいことと手放しに喜べる程ではないだろう。


 自分を見つめ直すというのは……はっきり言って……辛い、辛すぎる。


 だが、僕は幸せになるために変わろうとしているのではない、自分の愚かさに対する絶望が焦る心の燃料となり、自分自身の行いを許すために変わろうと決めたのだ。


 そうなるためにはやはり心で環境を支配するのではなく、環境で心を支配し、行動するのが一番いいのだろう。


 ここからは早かった。


 僕は久しく行っていない恐怖を押しのけて、キッチンから適当に見繕った厚い鉄のフライパンを手に取り自分の部屋に戻る。


 別今から部屋で料理をしようと言うわけじゃないのでフライパンであることに深い理由はない。

 肉を柔らかくするようなハンマーでも硬くて振り回しやすそうなものなら何でも良かったのだ。


 僕は左手でカメラを回す。

 

 僕は部屋は足の踏み場も無いが、パソコンをおいてある机の周辺だけはかろうじて綺麗にしてある。


 だがそれも相対的であり、一般的に見るならばまだまだ汚い。かろうじてというだけだ。


 そして一度目を離すと周りにはゴミ袋ばかり……。


 僕は机にただ一つ置かれたパソコンをじっくりと見つめる……


 最近のとは一風変わったフレーム……12年前のものだから仕方ないのだがかなりオンボロだ。


 最近のとは性能面で比べ物にはならないだろう。


 だが僕は引きこもりの間こいつをずっと愛用し続けていた。


 こいつで知識欲の幸せを享受し続けていたのだ。これほどの期間愛用しているとすべからく愛着も湧いてくる。


 

 だが………



 僕はパソコンのフレーム目掛けて横からフライパンを振り払い、強烈な一撃を叩き込んだ。


 パソコンにクリーンヒットするフライパン。


 パソコンは悲痛な悲鳴を上げた。

 


 


 

 

 

 

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