あの頃と今の涙
気付いたのが、髭を剃るのはいいもののかなり剃り心地?というのが悪い気がする。
ただの100均のカミソリだから伸び切った髭を相手にするには少々分が悪いのもあると思うが、なんだが気持ちが悪い。
このカミソリはいつのだろうか……
感覚的には案外些細なものだが積り積もればやはり気になる。こんなことばかり気にしてしまう自分が憎い。
と、いうより自分は今、湿気でスマホが壊れるかもしれない恐怖と戦いながら動画を取っているのだ、だとしたら気の利く言葉とは言わずとも、何か喋ったほうがいいのかもしれない。
あとから編集で字幕をつけるにしても字幕だけじゃ味気ないだろうし、髭を剃るときに適したBGMなど僕は知らない。
よく聞くフリーBGMは明るいものばかりだし、版権のきれた……確かパブリックドメインと言うのだったか、クラシックなども思い浮かんだが、髭と合うわけがないのは誰の目から見ても、この場合はプラス耳から聞いても明白だった。
たが僕はここで大きな壁にぶち当たる。
「っ……きっ…かっ…、っ……」
全く声が出なかったのだ、まるで声帯を接着剤で固められ、喉にタオルをつっこまれたかのようだった。
なんとか言葉をを話そうとしても出るのは汚らしい呻き声のみ……
なんて嘆かわしく、哀れで惨めなんだ、なんと僕は喋り方すら忘れていたのだ。
僕は人と喋ることなんてほとんど、いや、全く無かったし、独り言すら自分が虚しくなるからと意図的に抑え込んでいた。
しかし喋れなくすらなるなんて思いもよらなかった。「だれが喋れなくなるから人と会話しよう、独り言でも呟こう」なんて思うだろうか。
精神的ではそういうこともあるだろうが、物理的に喋れないのを予見など出来るはずがない。
僕はせいぜい声の大きさの加減が分からないぐらいとだと思っていたってのに。
僕は泣いた。いい大人が中途半端に剃った髭を携え、呻き声を上げながら泣き崩れた。カメラで撮っているのにも関わらず、床に膝をつけ惨めったらしくだ。
泣くことでふと思い返す引きこもり当初の記憶、あの頃も確か夜な夜な自分の不甲斐なさに……将来の不安に14歳の引きこもりは枕を濡らしたはずだ。
いつからだろう泣くことがなくなったのは。
いつからだろう開き直ってしまったのは。
いつからだろう変わろうと思ったのは。
そしていつからだろう行動に移したのは。
「……今日だ」
喋れた。多分喋ったのはわずかに残された人間、牧上蓬の本能だ。
僕は泣き崩れた時に落ちたカミソリを手に取る。
今まで涙を流し、髭をそったのは14歳からの引きこもりだ。
だがこれから引きこもりを辞めるのは牧上蓬、僕自身でなければならない。
変わらなければならないなんて思っておきながらその変わると言うことが何なのかわかっていなかった。
所詮上っ面だけの戯言だったのだ。
これからの行動は11年来の引きこもりが牧上蓬に戻る行動でなくてはならない。
引きこもりが社会復帰を果たすための行動ではないのだ。
そのためには絶対に必要不可欠な事がある。
それには物理的な、自分の気持ちとかではない準備が必要だったので取り敢えず僕は髭を剃り終え、シャワーを浴びた。
シャンプー1回で髪が泡立たない異常性にやっと気がつけたのは大きな成長だった。
このままお湯をためて湯船に浸かろうかとも考えたが流石に今からじゃ時間がかかりすぎるので明日に回すことにした。
その分、今日は風呂が5日ぶりということもあって念入りに洗ったつもりだ。
着替え(しかしやはりノーパンと言うものは何かしらムズムズするものだ)を終えると僕はキッチンに向かった。
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