第2話 真紅の現実
フィオナは自宅に戻った翌日から、もう早速やる気に満ち満ちていた。
日の出と共にカッと目を開けると、簡単に着替えをすませて部屋を出る。執務室までの道のりすらもどかしく、早足でたどり着いた扉を開けた。
アレイスター公爵家の執務室は、懐かしくも威厳ある空気でフィオナを出迎えてくれる。綺麗に清掃されている室内を、ゆっくりと見回しながら、書類が山と積まれた執務机に歩み寄った。
「……お母様、三部門首席は逃してしまいましたが、実技首席にはなれました。褒めてくれますか?」
いつもこの席に座っていた、亡き母の面影にそっと語りかける。
母・エレインはアレイスター家の直系で、父・ローランを婿養子に迎えてフィオナが生まれた。強烈な攻撃魔術を操る魔術師で、フィオナと同じ薔薇色の髪を靡かせる姿から、赤龍と呼ばれるほど優れた魔術師だった。
明るく楽天家でフィオナにとってエレインは、大好きな母であると同時に尊敬する憧れの魔術師でもあった。まるで一際輝く箒星のように、鮮烈に生涯を駆け抜けたエレインはフィオナが八歳の時に病没。
すごい魔術師になりたい。そんな漠然としていたフィオナの夢は「母が大切にしていたものを守り抜き、より輝かせて次代へ繋ぐ」とエレインの死後に明確に形になった。そのための努力は惜しまずにきた自負がある。
「まずはお母様が大切にしていた学園を、立派に継ぐための勉強から始めたいと思います」
千里の道も一歩から。少しでも早く学園を引き継げるように、学園運営に携わりながら経営を学んでいこう。執務机にそっと腰をおろし、フィオナは
現代魔術の開祖であるアレイスター一族の誇りを胸に、『求める全ての者に、その扉は開かれている』その学園の信念をより輝かせる後継者となってみせる。
フィオナは緊張と期待を胸に、
「…………っ!! な……な……なに、これ……!!」
大人の世界はフィオナが足を踏み込み数秒で、洗礼パンチを食らわせてきた。横っ面をぶん殴られたような衝撃に、なんとか震える手を伸ばして呼び鈴を掴む。息も絶え絶えになりながら、必死に救助を要請した。
「エ、エエエ、エディ! エディーー!」
猛烈にリンリンと呼び鈴を振り回しながら、アレイスター家の一切を取り仕切る執事長の名を叫んだ。
「お呼びでしょうか? フィオナ様」
「エ、エディ……どうしよう、私、私、目が……! 目が……!!」
「フィオナ様、落ち着いてください。まずは呼び鈴を振り回すのを一旦やめましょう」
「う、うん……」
動揺のあまり振り回していた呼び鈴を、ぶん投げたフィオナにエディは静かに頷く。
「どうなさいましたか?」
「う、うん……あのね、目が、目がおかしくなってるかもしれないの……ちょ、帳簿が……帳簿が真っ赤に見えるの……」
「左様でございましたか。ご安心ください。フィオナ様の目は正常でございます」
「……っ!! え? 正常なの? 真っ赤だよ? 真っ赤なんだよ? ご安心できない。うちってこんなに貧乏だった……?」
「ふむ……」
勤続四十年のベテラン執事は、落ち着き払った態度でスッと一歩歩み出た。
「フィオナ様、こちらをご覧ください」
山と積まれた書類の中から、差し出されたもう一つの帳簿を恐る恐る開く。じっくりと眺めてから、フィオナはホッと胸を撫で下ろした。
「あ、黒い。ちゃんと黒い。よかった。幻覚だったのね!」
黒字の帳簿で落ち着きを取り戻したフィオナに、エディは元の帳簿を無造作に開いて見せる。
「いやー! やめて! 赤い! 赤いの!」
錯乱したフィオナに、エディはそっと赤い帳簿を閉じた。フィオナは急いで黒字の帳簿を抱きしめて、涙目でエディを見上げる。
「エディ……赤……赤、怖い……」
「フィオナ様。今抱きしめていらっしゃる心安らぐ黒い帳簿は、アレイスター家の帳簿です」
「家の……? じゃあこっちは……」
「そちらの救いようがないほど真紅に染まった帳簿は、アレイスター魔術学園の帳簿です」
「え! そんなわけないわ! 王国一の名門魔術学園よ!? こんなに真っ赤なわけ……!」
「確かにアレイスター魔術学園は、現在も揺るぎなく王国随一の名門魔術学園です。ですが帳簿は血のごとき真紅に染まっているのです……」
「真紅……」
エディの静かな声に、フィオナは真紅の帳簿を見つめる。黒い帳簿を抱きしめながら、恐る恐る帳簿に手を伸ばす。
「フィオナ様、お気をつけください。赤字は色移りいたします」
「えっ!! い、色移り……?」
「はい。色物を洗濯した後に、シーツをうっかり洗ってしまったがごとく。染まれば戻すのは至難です。雑巾にするほかなくなります」
「そんな……!!」
真紅の帳簿に触れようとした指を、フィオナは慌てて引っ込めた。今は黒い帳簿が、この恐ろしい赤に染まるというのか。恐怖に瞳を潤ませたフィオナに、エディは少し悲しそうに視線を下げた。
「現在、我がアレイスター領内は辛うじて黒字を保てております。ですが年々赤みを増す真紅の帳簿が、色移りさせようと迫ってきています……」
「赤みを、増してるの……?」
震える声で確認したフィオナに、エディは小さく頷いた。
「アレイスター家は積み上げてきた輝かしい功績に支えられ、褒賞で与えられたいくつもの豊かな領地を所有しております。ですが学園の赤字は年々増加しており、今は一族の全家門が資金を持ち寄り、辛うじて存続している状況です。学園を存続させる限り、やがて家門の帳簿も色移りして、今は黒き帳簿もやがて真紅に染まるでしょう」
フィオナはエディの恐ろしい予言に、子うさぎのように震えながら黒い帳簿を守るように抱きしめた。
「原因は……いえ、なんでもないわ」
いいかけた言葉にフィオナは、慌てて口を噤んだ。これは自分が見つけなければならないこと。ついエディを頼ろうとした口を閉じる。人任せでは何も得られないのは魔術と同じと自分を戒めた。現状すらを把握もできないなら、学園を継ぐ資格などそもそもない。
黙り込んだフィオナに、エディが少しだけ眦を下げた。真紅の帳簿に向き合う覚悟を決めると、フィオナは大切に抱きしめていた黒い帳簿をエディに差し出す。
「……色移りしないように、しっかり守っててくれる?」
両方赤くなったら耐えられない。真紅の帳簿は一冊でいい。心臓と精神に良くない。
「承知いたしました」
エディは力強く頷き、黒い帳簿を受け取る。離れていくのを切なく見つめ、フィオナは唇を噛み締めた。エディに守られて遠ざかっていく、愛しい黒い帳簿。しっかり扉が閉まり隔離が完了したのを確認し、フィオナは口元を引き締め真紅の帳簿に向き合った。
「か、覚悟しなさい。私があなたを黒に色移りさせてやるからね……!」
震える声で必死の威嚇しつつ、えいや! とフィオナは帳簿を開く。現れた視界を染める真紅からの、精神攻撃を耐えながらフォオナの孤独な戦いが始まった。
※※※※※
フィオナは半月の間、死闘を繰り広げることになった。
経理に関して基礎程度しか学んでいなかったが、丁寧に黒字時代から遡って帳簿を追いかける。
約三十五年前から帳簿はゆっくりと赤みを増し、どんどん色を濃くしているのがわかる。隅々まで日付を順に追い続けるフィオナは、赤字転落してから頑なに赤いままの帳簿をチェックした。この苦行から赤色を全身が拒むようになるほど、とても辛い作業だった。鏡に映る自分の髪色にさえ拒絶反応が出るようになった。赤、怖い。
帳簿と並行して学園理事会の議事録、アレイスター一族の会合記録、王国で発行された新聞にも目を通した。比較的精神的苦痛の少ない参照資料は、もはや心の安らぎですらあった。少なくとも脳が拒絶しない。
どうしても赤字に涙が止まらなくなってしまった時は、時々黒字時代の帳簿を眺める時間を挟むことでなんとか乗り越えられた。黒字時代の帳簿にはどれだけ助けられたかわからない。見ているだけで心を穏やかにしてくれる。感謝しかない。
時々錯乱しながらも、黒字時代の帳簿を抱き締めたりしながら乗り切ること半月。とうとうフィオナは真紅の帳簿との激闘を終えた。被害は甚大だったが、減量には効果絶大だった。
「のんびり勉強とか言ってる場合じゃない……」
帳簿を見ながら書き出したメモに、フィオナは頭を抱えた。
後継者教育を受けている間に学園は潰れる。破産を無理やり食い止めている状態で、いつ色移りしてもおかしくないのは明白だった。それはフィオナの家の帳簿だけではない。年々増える赤字をアレイスター一族が、協力してなんとか穴埋めしているから。体力が多くはないいくつかの家門は、もうすでに色移りされて力尽きている。穴埋めに参加できる家門は、もうあまり残っていない。
『ねぇ、フィオナ。一つ予言をしておくよ。いずれ僕の助けが、必ず必要になる。僕らは友達だ。だからその時は迷わず連絡してくれ。分かった?』
退寮最終日のヒースの言葉。今になって理解できる。王家からも三度、無償で学園は資金援助を受けていた。
「ヒースは知ってたのね……」
だからこそのあの言葉。でも何も考えず速攻で連絡するわけにはいかない。
学園の金庫には大きな穴が空いている。でもその穴の箇所の特定、塞ぐ方法、もう穴を空けないための対策。それを見つけなければ意味がない。水漏れするからと水を足しても、足した水さえただ流れ出ていくのを眺めることになる。
そんな状態でホイホイとヒースを頼ろうものなら、無事に人生を台無しにできる。すでに王家には三度の借りがあるのだ。タダより高いものはない。共に学園生活を送ってきたのだ。ヒースに借りを作るとことがどう言うことなのかは、思い知っている。
「最終的に土下座するとしても、今ではないわ……」
手ぐすね引いて待ち構えているヒースを想像して、フィオナは吐きそうになった。幸せに長生きしたい。
机に突っ伏して悲しみにくれていると、ノックの音が静かに響いた。ティーセットのワゴンを押して入ってくるエディに、フィオナはパッと笑みを浮かべた。
「休憩されてはいかがでしょう」
「ありがとう! ちょうど甘いものが欲しかったの!」
執務椅子から立ち上がって、ソファーに移動する。早速ショートケーキを一口食べると、使いすぎた脳に糖分が優しく染み渡るようでちょっと気分が浮上した。
エディがパチンと指を鳴らし、汎用魔術を発動させる。魔力を水と火に属性を変換させることで、茶葉の入ったティーポットにお湯が満ちた。少し蒸らしてから注がれたお茶に、ホッとため息が出る。エディの淹れてくれるお茶はいつも美味しい。表情を緩めたフィオナの側に立つエディが穏やかに口を開いた。
「いかがでしたか?」
「うん。想像以上に深刻だったわ。一刻も早くなんとかしないと……」
諦めるという選択肢はない。
連綿と続いてきた学園の歴史と意義。アレイスター一族の誇り。義務でもあり使命でもある。だけどフィオナ自身が、建て直したいと思っている。
何度もせがんで聞かせてもらった、母が過ごした学園生活の思い出にとても憧れていた。今は憧れだけでなく、自分自身が肌で知っている。朝から晩まで魔術漬けで過ごし、学友たちと切磋琢磨する充実した日々を。母のではなく、フィオナ自身の学園の思い出。研鑽を積み上げてきたのは、そんな思い出の詰まった学園を引き継ぐためだ。
「……まずは敵情視察かな。問題点を正確に把握しないと。早速明日にでも行ってくるつもり」
「ではメイをお連れください。平民街の地理に詳しいので」
「そうする」
まずは問題の詳細を把握し、対応を検討し道筋を立てる。
(なんか新魔術の開発みたいね)
散々明け暮れてきた魔術式の開発工程とやることは同じ。それならなんとかできるかもしれない。魔術式の解析なら、途中で投げ出したことなど一度たりともない。
(やってやるわ!!)
立ちはだかる難問にこそ闘志を燃やしていた学生時代。なんとしてでも立て直して見せる、とフィオナは決意に拳を握りしめた。
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