第6話 同じ日を繰り返している

 宝くじが当たったというのは、夢ではなかった。

「数千万」

 という金が転がり込んでくるわけで、もっとも、そのうちのどれくらいになるのか、相当な数、税金で持っていかれることになるのだ。

「まぁ、税金で持っていかれるとしても、それでも、あぶく銭だということで、残ったものが最初から当たった金だ」

 と思うことで、その心境は、別に金銭的に

「意識することではない」

 と思っていた。

 しかし、それでも、まだ働いたことのない人間が、いきなり数千万の金を手にしたのだ。どういうことかというと、

「お金の使い方を知らない人間が、大金を手にしたということには変わりはない」

 ということであるのだが、なぜ、

「パチンコをやめられる」

 と思ったのか、この思考回路が自分でもよく分からなかった。

 お金が入ったら、

「パチンコし放題だ」

 と思うのが普通であり、

「パチンコで、もっとお金を増やそう」

 と思うかも知れない。

 しかし、自分の中で、

「パチンコは、金にはならない」

 と思っていることも事実で、意外とシビアに感じていたのだった。

 基本的に、

「パチンコ屋は、客を楽しませながら、儲けるところだ」

 という意識が強い。

 だから、相対すれば、パチンコ屋が儲かるようになっている。

 だが、すべての客から勝ちを奪ったとすれば、客も研究している人もいるだろうから、そんなことが、客に分かってしまうと、その連中はこなくなるだろう。

 パチンコというのは、出なければ、あっという間にお金だけが、時間とともに減っていく。

 つまりは、数十分で、一万円単位がなくなっていくといってもいいだろう。

 そして、数時間でもやっていると、数回くらいは当たるだろう。そして、

「どれくらいか出て、いくらか回復する、そして、また当たらない時間を過ごし、当たると、回復する」

 ということを繰り返すわけだが、それがパチンコだということで、時間が経過するごとに、

「無駄な疲れ」

 というものが襲ってくるということになるのだ。

 時間が経つにつれて、

「時間の感覚がマヒしてくる」

 ずっとパチンコ屋に通っていた最初の頃は、その時間の感覚がマヒしてくるのを感じると、それがパチンコをしている時だけではなく、普段の生活や、学校生活の中でも、言い知れぬ疲れというもの感じたのだった。

「世界的なパンデミック」

 の時期を過ぎる間、その感覚が薄れてくるのを感じていた。

 確かに、あの頃は、精神的にも異常になっていたし、その異常な神経が、まるで、

「引きこもり」

 のような感覚を作るのであった。

 そんな中で、

「お金と時間の関係」

 ということを考えた時期があった。

「お金がかかっていないとすれば、パチンコというものを、どれくらいの時間、楽しむことができるだろうか?」

 という考えであった。

 パチンコに興じるようになってから、その感覚は、

「刻一刻と変わってきている」

 と思うようになっていた。

 最初の頃は、

「一時間もやれば、頭が痛くなる」

 と思っていたのだ。

 何といっても、あれだけのうるさい中で、そのうるささに慣れていないということもあり、余計に疲れは、耳からも襲ってくるというものだ。

「体には五感というものが、備わっている」

 ということで、

「視覚」

「聴覚」

「嗅覚」

 というものが、直接的にはかかわってくることになるだろう。

「視覚」

 としては、まず、大当たりをしないまでも、数十回転に一度くらいに訪れる、

「チャンス」

 という煽りには、十分すぎるくらいの、視覚を刺激する演出がやってくるのだった。

 これほど、疲労感を味あわせるものもないだろう。

「聴覚」

 としては、それこそ、最初から最後まで、あの音に耐えなければいけないのだが、それを自分で、覚悟させることで、最初から、感覚をマヒさせるという心境に至らしめて、それを意識させないそんな感覚が、根底にはあるということであろう。

 だから、この聴覚への刺激が、

「本来なら一番の辛さのはずが、慣れることを強要することで、さらに依存症を煽っているのではないか?」

 と感じさせるのであった。

「嗅覚」

 というものは、まったくないと思われがちだが、

「実は、絶えず、何かの臭いを感じている」

 という感覚があった。

 もちろん、タバコの臭いなどもその一つであったが、それだけではない何かが存在していた。

 それが、他の視覚や聴覚の刺激によって架空に作られたものが、嗅覚を刺激することで、

「本来ならないはずの臭いを形成し、その臭いをもって、他の五感をマヒさせようというおかしな考えに至るのではないか?」

 と考えるのであった。

 そこには、

「循環性」

 のようなものがあった。

 循環しているものが何であるか分からないが、

「循環するということは、必ず限界がある」

 ということを感じさせる。

 そもそも、限界があるというのは、当たり前のことであり、いまさらながらに感じる必要もないことだということを感じさせるものだった。

「ブームというのは、周期をもって繰り返す」

 と言われたもので、

「循環性のあるもの」

 ということで感じさせられたものが、

「何かを繰り返す」

 ということと、パチンコを結び付けているのであった。

 ただ、パチンコへの依存というものと、その循環性ということに、何か関係があるということなのだろうか?

 他の依存症と呼ばれるもので、

「ギャンブル」

 であったり、

「買い物」

 というものに、そんな循環性というものを感じることはなかった。

 もっとも、

「他の依存症というものに、今までなったことがなかったからな」

 という考えであった。

 そんなことを考えていると、今度は、

「循環性」

 というものだけを考えてみることにした。

 そんなことを考えていると、以前に読んだ小説を思いだした。

 しかも、その小説は、一度、テレビドラマ化し、映像にもなっていたのだった。

 だが実際は、その映像化された作品の原作はアニメのようで、自分が読んだ小説がもとになっているのではなかった。

 ただ、坂上が読んだ小説は、結構曖昧なところが多く、

「シチュエーションが同じなら、少々違っていても、同じような作品」

 と考えるふしがあった。

 だから、

「同じ作品だ」

 と思い込んでしまったのも、無理もないことで、知らなければ、ずっと、

「その小説が原作だった」

 と思い込んでしまったであろう。

 それを思うと、

「その作品がどんな内容だったのか?」

 ということを思いだそうとしても、

「相当ストライクゾーンが甘い」

 という小説となったことであろう。

 その小説の内容は、

「いざ思いだす」

 ということになると、本当に曖昧だった。

 それでも、要点だけは掴んでいるつもりであるので、ひょっとすろと、

「同じ作品を読んで、ここにその作品を思いだして書いてみる」

 ということをした際に、ある意味、

「一番、答えが曖昧になるような作品」

 といえるのではないだろうか。

 その小説を思いだしていくうちに、

「片方の端から、忘れて行っているような気がする」

 ともいえるのであった。

 その小説というのは、

「SF小説」

 といえばいいのか、

「オカルト色の強い、ホラー」

 といえばいいのか、とにかく、

「時間を使ったミステリアスな小説」

 といっていいだろう。

「一人の男が、自分の部屋のベッドで寝ているところから始まるのだが、そこに一人の女がやってくる。その女は男の姿を見て、落胆するのだが、それは、その男が、女を抱いた後だということが分かったからだった」

 それが最初のシーンで、女の手に持っている赤い花と、男のベッドわきに置かれている花がまったく同じもので、その色合いも何もかも同じだったのだ。

 その女は、その状態を見て。

「あの女が来たのね?」

 というと、男も、隠し立てする様子もなく、

「ああ」

 と答える。

 男は、まったく悪びれる様子もない。たった今、浮気をしていた男の態度ではない。

 いや、それどころか、

「この賢者モードを邪魔されて、迷惑だ」

 と言わんばかりに、男は女を見つめた。

 女は浮気をされて、怒るべきなのに、落胆はするが、それ以上何もいうことはできない。

 それは、

「私は、絶対にあの女に勝つことができないんだ」

 ということを分かっているからで、普通であれば、

「だったら、その女よりも先にここに来ればいいんじゃない?」

 と言われるのだろうが、そういうことはできないのだった。

 というのも、

「いくら私が努力しても、あの女との距離が縮まるわけはない」

 と思っていた。

「あの女」

 それは問題なのであり、ベッドで寝ている男は、

「いい女だったよ」

 と平気で、その男の言葉を聞かなければいけなかった。

 いつも、賢者モードのところに現れる女なので、その女は、今まで何度となくこの部屋を訪れているのに、目の前の男に抱かれたことはなかった。

 しかし、なぜか、その部屋を出る時、確かに、

「男に抱かれた」

 という感覚だけが残るのだ。

「確かに、あの人が私の中にいたことは確かなんだ」

 という思いだけが残っている。

 その思いは、耐えられることでありそうで、耐えられないということでもあった。

 もっと言えば、

「抱かれてもいないのに、この感覚はどうしたことか?」

 というものであった。

 この話の肝としては、ここに登場する、

「もう一人の女の正体」

 というものであった。

 というのは、この女は、実は、彼女本人であり、

「10分前を生きている自分」

 というものであった。

 つまり、

「10分前ということが決まっているので、自分と彼女は、交わることのない平行線を描いている」

 ということであった。

 彼女は、一つ疑問を持っていた。

「10分前の女がいるということと、10分後の自分もいるということで、10分前の自分を、自分が妬んでいたり、恨みを感じているとするならば、10分後の自分も、今の自分を恨んで生きている」

 ということになるのだろうか?

 しかも、

「10分後の女からみれば、今の自分は、男に抱かれていて、満足感を味わっていると思っているに違いない」

 と考えるのだ。

「そんなことはない。私は、男に抱かれていないんだ」

 とは思うが、

「では、部屋を出た時の、あの抱かれた感覚は何なのだろうか?」

 そう思うと、

「自分は、部屋を出たとたん、10分前の自分に憑依したのではないだろうか?」

 と感じるのだ。

 ということは、あの部屋にいる間だけ、

「10分前の自分」

 というものが存在していて、あの部屋から出ると、

「自分は一人になる」

 ということではないかと感じるのだった。

 それを考えると、あの男が、とても、無表情であるということも分かるというものであった。

 最初は、

「賢者モードだからだ」

 と思っていたが、そうではないようだ。

 しかも、男が女とした後だというのに、実にきれいになっている。

 ベッドも乱れているわけではなく、ベッドの上には、女性用のガウンが置かれていて、きれいに畳まれているではないか。

 誰もそれを弄ったわけでもなく、きれいに畳まれている・

 それを思うと、

「これほど、きれいな状態はない」

 といえるのだった。

 ゆっくり男を見ていると、

「確かに汗は掻いているが、どうも、女を抱いたように見えないというところもある」

 と感じていた。

 それは、

「女特有の感覚」

 なのであろうか。

 それとも、男というものを、自分が相当知っていて、

「男から女を抱いた気配を感じない」

 という感覚が溢れているからなのだろうか。

 少なくとも、男からは、女の淫靡な香りがしてくることはなかった。

 それは、

「自分だからだろうか?」

 とも感じた。

「自分の臭いは、自分では分からない」

 といえるだろう。

 例えば、自分が餃子を食べたとして、その臭いを他人は、一瞬にして察知することであっても、自分には、いつまで経っても分からない。それは、

「汗の臭い」

 ということでもわかることではないだろうか?

 と考えるのだが、その理屈は、分かりそうな気がするのだった。

 というのも、

「汗の臭い」

 や、

「餃子の臭い」

 というのは、身体から溢れてくるものだ。

 しかも、他人であれば、それが自分のものではないと思うから、臭く感じるということであろう。

 それは、逆に、

「自分は臭くない」

 という思いの表れなのかも知れないが、果たしてそうだと言い切れるのだろうか?

 そんな自分の嫌な臭いを感じないということなので、男から女の臭いを感じないと思った時、

「もう一人の自分だ」

 と感じたのであろう。

「男は、確かに女を抱いた。しかし、その航跡とでもいうものが残っていないのだから、錯覚でなければ、それは、もう一人の自分ではないか?」

 と思い、

「私を抱いたの?」

 と最初に聞くと、男は、

「ああ、いい女だったよ」

 というではないか。

 男の感覚としては、

「自分が抱いた女は目の前の女でしかない」

 と思っているのだろう。

 なぜ、

「10分後の女が、惨めな表情を浮かべて現れるのか?」

 ということが分かっているのだろう。

「自分と似た」

 いや、

「同じ女が、自分の代わりに男に抱かれる」

 そんな思いを我慢できるわけもないのだ。

 だが、

「部屋を出た瞬間、男に抱かれた感覚がよみがえってくる」

 と感じるのだ。

 それは、

「生まれてくる」

 というわけではなく。

「よみがえってくる」

 ということなのだ。

 そう考えると、もっと恐ろしいことが頭をよぎる気がしたのだ。

「10分という単位で、その間を果てしなく繰り返しているのではないか?」

 ということであり、

「時には自分は10分前の女になり、時には10分後の女になる」

 ということであり、

「その意識は、自分が10分後の女だということになれば、その感覚は変わらない」

 ということになるのだ。

 つまりは、

「絶えず自分は、前後のどちらかということに変わりはない」

 ということである。

 だから、この流れの小説や、それに近い話があったとしても、その根底は変わりがないだけで、実際に行きつく先は、バラバラである。

 ただ、同じ道を歩んでいるのは同じことであり、

「元々のスタートから見れば、どちらも、延長上にしかない」

 ということになるのだろう。

 それを考えると、

「テレビドラマの方は、二番煎じ」

 という感覚が強かった。

 これもある意味、どちらかが、

「10分先を歩いている自分」

 ということになるのだろう。

 どこからどこまでが、

「繰り返している部分なのか?」

 ということを考えると、

「同じ日を繰り返している」

 という小説もいくつかあるが、

「元は同じところから始まっている」

 といっても過言ではないだろう。

 坂上は、そんな小説とドラマを思いだしていると、

「意識と記憶」

 というものを絶えず意識していることに気づくのだった。


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