第5話 やめられない

 実際には、十数年前にあった、

「大地震」

 というものがあった時代を思い出し、

「何をすればいいのか?」

 ということを考えてみたが、結局、

「俺には、何もできることはない」

 という結論に陥った。

 中には、

「ボランティア」

 で行こう。

 という人もいたが、少なくとも、

「それだけの覚悟を持っていないと、足手まといになるだけだ」

 ということは、テレビのドキュメンタリーで散々見たものだった。

 確かに、ボランティアというのは遊びではない。

「行ってやっているんだ」

 などと思っていると、他のボランティアに人に見透かされ、仲間外れにされてしまう。

「嫌々やるなら、邪魔になるだけだ、さっさと帰れ」

 と言われるだけで、

「勇んで出てきたんだから、帰るなんて、みっともない」

 などと言おうものなら、

「バカか、お前は」

 と言われるだけである。

「話をするのも億劫だから、俺の目の前から消えてくれ」

 と言われて、それで終わりだろう。

 特に、それが、班長だったりなどすれば、そこには自分の居場所がないというものだ。

 それこそ、

「病院にいけ」

 と言われるのは必至だ。

 本当に、精神疾患を病んでいるのかも知れない。

 だからといって。誰も同情してくれないだろう。なぜなら、

「そんな神経で、よくボランティアに志願したものだ」

 と言われて、それまでだ。

 ボランティアというのは、必死でやっているので、本当であれば、被災者のために、全神経を向けなければいけないのに、

「何が悲しくて、ボランティアに志願した仲間のはずの人間の面倒を見なければいけないんだ」

 ということである。

 それを思うと、

「俺は自分のことも何もできないんだ」

 と感じた。

 それなら、

「せめて生きている間に楽しもう」

 と考えたのだ。

 パンデミック前に行ったパチンコに、また行き始めた。

「自粛警察」

 というものに、やられた時、

「パチンコ屋ってかわいそうだな」

 と感じた。

 やはり楽しませてもらった以上、以前からパチンコをするのが楽しかった時のことを思いだして、

「パンデミックが収まったら、行こう」

 と思っていた。

 ただ、実際に収まってしまうと、以前とは、少し心境が違っていた。

 やはり、

「人間なんていつどうなるか分からない」

 という思いが先にくる。

 そうなると、

「楽しまないと損だ」

 と考えたのだ。

 そうなると、思い出すのは、

「パチンコをしている時の楽しさ」

 であった。

 パチンコというのは、

「遊戯だ」

 といっても、実際にはギャンブルである。

 遊戯であっても、ギャンブルであっても、

「勝つ時は勝つが、負ける時もある」

 というものだ。

 そして、遊戯として楽しんでいる以上、それを与える方とすれば、その楽しみというのは、

「利益追求」

 というのは当たり前のことである。

 店が利益を得て、その利益をもとに、客に楽しみを提供できるのだから、

「店が儲からなければ、客に何も提供できない」

 というのが、

「経済というものの、基本だ」

 といえるだろう。

 それを分かっていないと、パチンコのように、

「勝ったり負けたりする」

 という理屈の中で、

「楽しむということができない」

 ということになる。

 それを考えると、

「パチンコをいかにして楽しむかということは、実際に、やらないと分からない」

 といえるだろう。

「世界的なパンデミック」

 の中での、

「緊急事態宣言」

 において、

「自粛警察」

 というものが、パチンコ屋を虐めていたのは、その理屈が分からないからだろう。

 しかし、中には、

「お父さんが、パチンコに嵌ってしまって、給料を家に入れ倍」

 などということも実際にはあったりするだろう。

 ただ、最近では、共稼ぎも多く、奥さんの自立が当たり前のようになってくると、

「何もそんな旦那におんぶにだっこする必要はない」

 ということで、

「離婚」

 ということを考える奥さんもいるだろう。

 旦那も、まさか、奥さんがそんなことを考えているということを知らずに、パチンコに興じていると

「気が付けば、離婚されていた」

 ということになってしまう。

 話し合いなどというのは、すでにできるわけもない。

 奥さんとしては、何度も、

「危険信号」

 というものを送っていたのに、

「パチンコに興じていた」

 ということで、そのサインを見逃してしまった。

 奥さんとすれば、そのサインを見逃したということが許せないのである。

「確かにパチンコをするのは、旦那の金だから悪いとは言わないが、家庭が暮らしていくだけの金にまで手を付けるということは、絶対にやってはいけないこと。それは、共有財産というものを、崩すことになる」

 ということだと、いう奥さんの言い分である。

 もちろん、協議離婚が成立すれば、それに越したことはないのだが、

「調停」

 というものであれば、キチンとした書類も作ってくれて、

「法律的に、十分に有効な書類なので、拘束力はあるのだ。

 だから、

「慰謝料」

 であったり、

「養育費」

 などというものを滞納すれば、

「給料や財産の差し押さえ」

 ということも、法律によって正当化されるので、これほど、恐ろしいものはない。

 下手をすれば、そのあたりの、

「民間の消費者金融よりも、恐ろしい」

 といってもいい。

 何しろ、後ろ盾が、

「法律」

 なのだから、国民である以上。逃れることはできないというものであった。

 坂上は、まだ結婚もしていないし、当然、子供がいるわけでもない。

 学生といっても、一応、家族からの仕送りも、制限されているので、半分近くは、自分がアルバイトなどをして、賄っていたのだ。

 だから、最初は、

「パチンコとかに興じていると、お金がもったいない」

 と思っていたのだが、しかし、大学での仲間との交流という意味で出かけたパチンコだったので、嵌ってしまったというのは、若気の至りといってもいいだろう。

 それでも、自分のお金で楽しむということなので、

「何が悪いというのか?」

 という思いもあった。

 しかも、最近の、

「パンデミック」

 のせいで、

「いつどうなるか分からない」

 ということを考えてしまうと、

「今楽しめることを楽しみ」

 という考えに至ったのだ。

 特に、

「大学を卒業すると、嫌でも社会人だ」

 と考える。

 社会人になると、お金は自由に使ってもいいが、その分時間的な制限であったり、人間的な付き合いなどがあって、

「ある意味、地獄に突入することになる」

 という考えに至るのだ。

 だから、学生時代が終わるであろう時期と、社会人になってからの人生は、

「まったく違うものだ」

 と考えるようになった。

「言い方を変えると、社会人一年生からは、生まれ変わった人生だ」

 ということになるであろう。

 だから、大学生の4年間というのは、

「入学から、卒業までの間、まったく違った心境だろう」

 と思っていた。

 もっといえば、

「大学時代の四年間は、自分の一生の中の四年間で、どこを切っても、一番長いものになるのではないだろうか?」

 ということであった。

 だが、

「それが実現しない人生であれば、ろくな人生ではない」

 ということも言えるのではないかと思うのだ。

 というのも、

「社会人になってから以降というのは、一年一年が短く感じられる」

 ということを、いろいろな人から聞いた。

 大人の人のいっていることを、

「一番信じてしまう」

 という時期であるだけに、

 大学一年生の頃は、まだ子供に近かったが、

「大学三年生から上は、大人の世界に首を突っ込んでいる」

 といってもいいだろう。

 というのは、

「成人するからだ」

 ということであるが、

 その当時は、まだ成人というと、

「満二十歳」

 からを成人とすということであるので、どうしても、

「大学三年生の頃から後を、大人だ」

 と感じるのであった、

 では、今のように、

「十八歳からが、成人だ」

 ということになれば、

「大学生になった時点で、半分くらいの人は、成人」

 ということになる。

 高卒で就職した人は、成人といってもいいのだろうが、大学受験の時期を経て、大学に入学した時点で、

「成人」

 というのであれば、今までの感覚からすれば、

「どこで、成人のスイッチを入れればいいのか?」

 ということになるのであろう。

 というのも、

「高校二年生くらいから大学受験に備えないと、なかなか難しい」

 ということになり、そうなると、

「高校三年間のうちの半分は、大学受験で棒に振る」

 といってもいいだろう。

 そんな状態で、受験勉強をしている間、正直、

「大人になるための勉強」

 というものはできないのではないか?

 と考えられる。

「大人になるための勉強というと、大学受験のような、詰込みの勉強ではない」

 大学に入ってから、友達や先輩から教えてもらったり、さらには、アルバイトなどをして、一緒に働く人から学ぶということになるだろう。。

 だから、

「大学1,2年で大人になっていく」

 と考えるのが、今まで一般的な考えだろう。

 といえるのだった。

「成人というものを、18歳にすると考えると、今度は、大人になるための段階すべてを、引き下げる」

 ということを考える必要があるのではないか?」

 と思うのだ。

 というのは、

「幼稚園から、大学生までと考えると、幼稚園に、5,6歳の間で通園し。7歳で省が学校に入学し、12歳で6年生となる。そして、13歳から中学生、16歳から高校生、18歳から大学生」

 というのが、例外はあるかも知れないが、普通の進級というものであろう。

 だから、刑法などで、

「児童」

 というと、

「13歳歳未満」 

 ということになり、幼児というと、

「5歳未満」

 というくくりになるのだろう。

 だとすると、

「成人というものを、20歳から、18歳に下げたのだとすれば、他の年齢もすべて、2歳下げる必要があるのではないか?」

 ということにならないだろうか。

 そうすることによって、実際に乗り越えなければならない年齢や、保護されるべき年齢も下に下がり、それによって、教育もしっかりしていかなければいけないということになるのであれば、分かるのだが、

「結果として、成人年齢だけを変えたとしても、それは、中途半端なことだといえるのではないだろうか?」

 それを考えると、

「法律というものが、どれだけ中途半端なものになるか?」

 ということが分かるというものだ。

「何かの制度を変える場合には、必ず、反対側に問題が潜んでいるというもので、それを無視してしまうと、大きくなった問題を見ることができず。見過ごしてしまうことで、あとになって、手の打ちようがない」

 ということになるのではないだろうか?

 ただ、坂上には、

「そんな政治のことは詳しくは分からない。一つを変えれば、何か他に影響が及ぶのではないか?」

 ということは分かるのだが、それによって、どのような問題が発生するかということは、ハッキリと分かるわけではないのだった。

 ただ、今のようなことは、

「大学2年生の頃に考えた」

 のだった。

 その頃には、

「成人年齢を、18歳にする」

 という計画があるという話を聞いたからだった。

 そんな話が出てから、

「どうせ、閣議決定するまでに、まだまだ時間はかかるだろう」

 と思っていた。

 野党が、本筋の論点とは違う話を持ち出して、審議を妨害したりすることは分かっているからだった。

 攻撃される方の与党も、

「叩けばいくらでも埃が出てくる」

 というもので、野党の目論見はある程度成功することだろう。

 しかし、審議が遅れるだけで、どうせ野党にも、代替え案などなく、ただ、審議を妨害し、

「時間稼ぎをする」

 ということで、

「やってますアピール」

 を国民にできるというものであった。

 野党というのは、以前のように、

「政治政策」

 というものを盾にして、論議していたが、最近の野党というと、

「第一刀」

 と呼ばれるところでも、その傾向はひどいもので、彼らからして、

「やってますアピール」

 をするのだから、国民は、

「どこを見ていいのか分からなくなってしまう」

 といえるだろう。

「確かに、与党にはかなわないだろうが、いかに政治政策という意味で、論議をしてくれることから、国民の納得のいく答えを出してほしい」

 と思っている人が多かったのに、それが分からなくなると、結果として、

「政治に興味などまったくない」

 という国民が増えてくるということである。

 そんな政治に対しての問題を考えていた時代もあったのに、大学三年生になると、本来であれば、

「大人になった」

 という成人式を迎えた年齢になったことで、

「酒は飲める、タバコを吸える」

 ということであったが、

「酒くらいは嗜むが、タバコは吸わない」

 ということだったのだ。

 何といっても、タバコに関しては、

「パチンコ屋での嫌がらせ」

 ということから、

「タバコを吸う人間に対して、嫌悪感があった」

 ということである。

 しかし、実際には、違和感があるのだが、それは自分だけではないということを知ったのは、それから少ししてだった。

 特に今の時代は、

「タバコを吸う」

 ということ自体が、罪悪と言われるような時代となり、

「愛煙家」

 というのは、

「実に肩身の狭い思いをしている」

 ということであるが、それ以上に、

「マナーの悪い喫煙者」

 というものが、大いに社会問題になっていて、

 あいつらからいわせれば、

「タバコが吸える場所がなくなってきた」

 だから、ポイ捨てであったり、咥えタバコなどをするということであるが、それはまことに、

「本末転倒」

 である。

 今の時代においても本当の愛煙家は、マナーを守って吸っているのだ。

「一部の勘違い野郎が、せっかくマナーを守って喫煙していることで、嫌煙家とも仲良くしていけると思っているのに、あんな連中がすべてをぶち壊す」

 ということで、

「俺たちが一番の被害者だ」

 と、喫煙家はいうが、

「まさにその通りだ」

 といってもいいだろう。

「俺たちが一番大いに迷惑をこうむっているんだ」

 といっているだけに、マナーの悪い連中は、それだけで、

「罪だ」

 といってもいいだろう。

 ただ、パチンコにのめりこんでしまったことで、大学3年生という頃は、

「卒業のための、単位習得」

 と、

「就活に対しての準備」

 ということで、

「それまでになかった精神状態というものをいかに保てばいいのか?」

 ということを考えるようになっていた。

 そんな中において、その時は分からなかったのだが、

「お金の使い方」

 というものが分かっていないと、いくら、お金があったとしても、それは、

「宝の持ち腐れ」

 ということになることを分かっていなかった。

 パチンコでも、昔からそうではないか。

 というのは、

「たくさん勝った時は、厄払いということで、他の人に食事をごちそうするくらいのことは当たり前」

 と言われている。

 麻雀などでも、大きな手、特に役満などを上がって、トップになった時は、

「皆にごちそうしないといけない」

 ということが、まるで、

「儀式」

 のようになっているのだった。

 それは、

「あくまでも、儲けはあぶく銭」

 ということであり、

「勝った時にこそ、次回への期待と、厄払いを込めて、皆に還元するものだ」

 ということである。

 だが、なかなか、今の時代ではそんなこともできない。

「貯金しておこう」

 であったり、

「次の軍資金としてもっておこう」

 と思うのだろうが、

「それだけ、お金を大切にするのであれば、ギャンブルなどやめてしまえばいいのに」

 という人もいることだろうが、

「それとこれとは別だ」

 というに違いない。

 あくまでも、

「遊戯として楽しむのであって、お金は後からついてくる」

 ということであれば、

「儲かった時に還元」

 という意識が芽生えてこないのも、おかしな気がする。

 しかし、それは、

「お金がもったいない」

 ということにもなるのだろうが、それよりも、

「お金の使い方が分からない」

 といった方がいいだろう。

 お金を使うということがどういうことなのか。果たして分かっている人がいるだろうか?

 というのも、

「それが分かっているのであれば、分かっている人は少なくとも、お金には困らずに、人に施せるくらいになっているだろう」

 ということで、とても、自分のまわりを見渡して、そんな状況になっている人がいるわけもないのだった。

「お金をもったいない」

 と感じること、

「お金の使い方が分からない」

 と感じることとしては、

「同じ目線で見てはいけないことなのかもしれない」

 と感じるのであった。

 それが、いかに、

「使えるお金を手元に持てるか?」

 ということにかかわってくるのではないだろうか?

 さすがに、まだ大学生の、

「これから就活を始めようか?」

 という人間に、

「お金の使い方」

 などが分かるわけはないだろう。

 ただ、パチンコ屋で知り合ったおじさんのような人がいっていたのだが、

「パチンコをやって、勝ったり負けたりしていると、お金の使い方というよりも、いかに、負けないで済むか?? ということが分かるというものだ」

 といっていたのだ。

「お金の使い方の話をしているのに、何、パチンコに負けないという話になるというのだろうか?」

 と感じていたが、よく聞いてみると、よくわかるのだ。

 おじさんの話のきっかけとしては、

「何かを始める時、いかに勝つか? ということよりも、いかに、うまく終わらせるか? ということの方が大切だ」

 というのだった。

「どういうことですか?」

 と聞くと、

「勝つかどうかということよりも、いかに負けないかということの方が大切なのであって、特に、戦争をしないに越したことがない相手と、どうしてもぶつからなければいけなくなった時、いかに、うまく収束させるかということが問題だ」

 ということであった。

「勝った負けたといっていると、戦争は永遠に終わらない。一度勝てば、相手は、こちらに勝つための研究をしてきて、再度、こっちに喧嘩を売ってくる。こちらが、何の準備もしていなければ、すぐに負けることになる」

 というのだ。

 それを聞いて、

「なるほど、そういうことですね。お互いに相手を倒すまで戦って勝っても、今度は相手が、こっちを倒そうとするのだから、そこに終わりはなく、堂々巡りを繰り返すだけだということになるんでしょうね」

 というと、おじさんは、頷いていた。

「昔の、東西冷戦の時、核開発競争というのが起こったけど、あれだって、相手よりも強力な兵器を作るということを目指してのものだったですよね。相手よりも強いのを作れば、向こうも負けじと作る。結局、どんどん強力なものになっていって、最後には、地球を、一発あれば、破壊できるほどの兵器になったかも知れない」

 ということをいうのだった。

 それを、おじさんは、

「堂々めぐり」

 だといったが、その話を聞いて、坂上は、

「三すくみ」

 ではないかと感じたのだ。

 三すくみというのは、それぞれに、けん制しあっている相手がいて、

「誰かが動けば、自分がやられる」

 という形になるわけだ。

「三すくみ」

 というのは、3つが絡んでのことなので、非常に強いのだが、

「核の抑止力」

 というのは、一見、2つの争いのように見えるのだが、実は、そこに、

「核兵器」

 という一角があるとすれば、これも一種の、

「三すくみ」

 という形になるのかも知れない。

 要するに、

「三すくみ」

 というのは、どこか一角が崩れれば、ずべてが終わりということで、

「お互いにけん制しあっている」

 ということだけになるというのとは違っているといってもいいのかも知れない。

「勝った負けた」

 という関係も、

「三すくみの一角」

 となるのかも知れないではないだろうか。

 かつての戦争というと、

「やめどころが難しい」

 というのは、かなりあったことであった。

「振り上げたこぶしを抑えきることができない」

 ということもあるが、もっと大きなものは、

「マスゴミ」

 と

「世論」

 の問題ということである。

 例えば、日露戦争の時などは、

「世界の大国ロシア」

 というものに、喧嘩を売ること自体が自殺行為であり、政府の中にも、主戦論者と、戦争反対論者がいた。

 戦争反対だからといって、

「平和主義者」

 というわけではなく、あくまでも、

「戦争は時期尚早」

 ということであった。

 しかし、実際には、

「今戦う力が整っていない」

 ということでの反対であったが、それを主戦論者から、

「今やらなければ、国力差がどんどんついてしまって、もう戦争は不可能になってしまう」

 ということだったのだ。

 そこで、何とか落としどころを見つけての和平交渉だったのだが、そこで、

「賠償金が取れない」

 ということに国民が起こって、

「日比谷焼き討ち事件」

 というものを引き起こしたということであった。

 だから、大東亜戦争でも、本当であれば、

「初戦で、勝ち続け、相手に戦意を喪失させたところで和平に結び付けよう」

 という考えが最初だったのだが、実際に勝ちすぎたのだ。

 そこで、世論も、

「大勝利」

 というのを祝って、湧き上がる。

 いまさら、

「戦争をやめるなどということを、国民に言えなくなってしまった」

 ということである。

 そもそもの原因だった。

「シナ事変」

 でも同じだ。

 途中で、

「トラウトマン和平工作」

 というのがあったのだが、その時、本当は、中国側が日本の要求を呑む予定だったものを、日本軍が、

「南京陥落」

 をさせたということで、日本は、要求をさらに厳しいものとした。

 それによって、中国側も、

「そんな条件をのめない」

 ということで、せっかくの和平交渉が、成立しなかったのである。

 もし、成立していれば、

「日米開戦」

 もなかったであろう。

 ただ、陰謀説もないわけではないので、どこまでが本当のことなのか、何とも言えないということになるであろう。

 どちらにしても、大東亜戦争をやめるきっかけは、

「トラウトマン和平交渉」

 あるいは、

「当初の作戦」

 とおりに、ことが進まなかったことが大きい。

 それだけ、戦争が、当時の日本人の士気を高めていたということになるのであろう。

 パチンコは、どうしても依存症となっていることでやめられない。

 確かに、戦争もある意味、

「依存症」

 のようなところがある。

 特に、戦争というと、どうしても、侵略であったり、それ以外のことで戦闘状態に入るとすれば、

「宗教がらみ」

「民俗戦争」

 さらには、東西冷戦期のような、

「代理戦争」

 という側面もあったりする。

 しかし、中にはまったく別の理由の時もある。

 たとえば、

「国内の不満を外にそらず」

 という意味で、戦争を始めることもあるだろう。

 日本だって、明治維新のすぐあとに、西郷隆盛らが推奨した、

「征韓論」

 というものがあり、

「朝鮮に攻め込もう」

 ということであった。

 これの理由というのは、

「明治維新によって、日本国が混乱していて、身分制度の撤廃によって、武士の不満が、くすぶっている」

 ということで、それを何とか外にそらそうとして考えられたのが、この、

「征韓論」

 というものであった。

 実際には、大久保利通が、

「まだ、日本は、戦争をしている余裕はない。まずは、国内の情勢を整えてからのことだ」

 ということで、西郷隆盛らを失脚させることで、なくなったのが、

「征韓論」

 だったのだ。

 攻め込まれる方もたまったものではないのだろうが、

「征韓論というのは、それはそれで仕方のなかった」

 といってもいいだろう。

 また、アメリカが日本を戦争に引きずり出したかったのは、

「ヨーロッパの戦争に介入する」

 ということへの、下準備だったといってもいい。

「日本に宣戦布告されたから、日独伊の同盟国は敵だ」

 ということで、ヨーロッパの戦争に、介入できるからだ。

 同盟国の条約で、

「日本が戦争状態になったら、同盟国は、その戦争をしている国に宣戦布告する」

 ということになっているのだから、

「日本が敵であれば、必然的に、ドイツと、イタリアは敵であるということで、大っぴらにヨーロッパの戦争に参入できる」

 ということだ、

 理由として、ヨーロッパでのドイツの侵攻を止める必要があるということはもちろんのこと、

「アメリカの介入で、戦争が有利になれば、戦後、アメリカの立場が絶対的なものになるだろう」

 ということもあった。

 だから、連合国の勝利がゆるぎなくなった時、

「ヤルタやカイロなどで、戦後処理の会議が行われたりしたではないか」

 ということである。

「占領問題」

 であったり、

「統治分割」

 さらには、和平交渉の問題などと、いろいろ議題はあっただろう。

 パチンコもなかなかやめられない。やめようとしても、依存症による意識があるからか、最初から、

「やめられない」

 と思っているからなのか、自分の中で、決心をつけられないのだ。

 それが、依存症の恐ろしさで、タバコをやめられないという人と似ていた。

 そういう意味で、以前パチンコ屋で、自分の顔に煙をぶつけてきたバカがいたが、もちろん、そんなバカを援護しようなどと思うわけもないが、同じ依存症ということでは、道場するところはあった。

 そもそも、パチンコだけをしている人が、タバコだけを吸っている人に対して、偏見の目で見ているのだから、逆に、タバコだけを吸っていて、パチンコだけをしている人を見ると、それは偏見の目で見ることだろう。

 しかし、前にいた男は、どちらもありなのだ。

 これは、普段から、どちらに対しても、風当たりが強いという意識が、その男を、余計にまわりへの偏見を強めるのかも知れない。

 それは反発であり、依存症というものが、自分を偏屈な性格にしてしまうのだろう。

 坂上は、さすがにそこまではないが、何とか依存症をやめようと思っていたが、その機会が訪れるかも知れないと思う出来事があった。

 もちろん、

「他力本願で、依存症が治るわけはない」

 という思いはあったが、なぜかそこに、自分の中での、

「藁をも掴む」

 という思いがあったからなのかも知れない。

 そう、以前勝った宝くじが当たったのだ。

「数千万という単位の金が転がり込んでくる」

 ということであった。

 ここまでくれば、ただの、

「あぶく銭」

 というわけではない。

 ただ、その時に感じたこととして、

「これでパチンコをやめられる」

 と思ったことだった。

 自分の中で思いつくこととしては、

「これ以上、とんちんかんなことはないだろう」

 という意識だけはあったのだった。


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