第3話 錯覚

 坂上は、大学生になった頃は、

「真面目に勉強しよう」

 と思っていた。

 だから、授業も最初の頃は、真面目に受けていたのだが、大学というところ、

「自分から友達を作ろうとしなくても、友達は、勝手にできていくものだ」

 ということであった。

 一年生の頃、たまたま隣に座ったやつが、なれなれしいやつで、やたらと話しかけてくるではないか。

 高校生の頃までは、そんなやつは相手にしなかった。

「どうせ、ろくなやつではない」

 という思いと。

「放っておけば、どうせ、飽きが来るのか、相手してこようとはしないだろう」

 という思いがあった。

 何といっても、

「無駄な時間を過ごす」

 ということに、敏感で、

「そんな暇があったら、別のことをする」

 と考えることであろう。

 大学生になってから、おぼろげに分かってきたことがあったのだが、

「年を取るにつれて、時間の感覚が短く感じられるものだ」

 ということであった。

 その感覚にも若干の違いがあり、それがどういうことなのかというと、

「小学生、中学生の頃」

 ということで思い返してみたのだが、その時に感じたのは、

「一日一日というのは、なかなかすぎてくれないが、一週間はあっという間だったような気がする」

 と感じていたという思いであった。

 だが、それはあくまでも、

「その時の感覚」

 であり、大学生になってからというもの、今度は少し感覚が違ってきたのだ。

 というのは、

「一日一日があっという間だったのに、一週間が、結構長かったのではないか?」

 というまったく逆の発想であった。

 しかも、今から昔のことを思い出すと、

「自分が歩んできた時間の感覚よりも、相当昔だったような気がする」

 というものだ。

 つまりは、

「それほど時間が経っていないにも関わらず、気が付けば、相当昔のことだったように思うのは、ひょっとすると、時間を無駄に使ってきた証拠ではないか?」

 と感じるのだった。

 だから、余計に、

「年齢を重ねるうちに、時間の感覚が、どんどん短くなってくるようになるのではないか?」

 と思ったのだ、

 小学生の頃がやたらと遠いということは、それだけ、どんどん、感じる時間の感覚というものが、短くなっているという証拠になるのではないか?

 と感じるのだった。

 今から思い出してみると、

 確かに、中学。高校と、短いのだが、それはあんまり関係のないことのようだった。

 時間的な距離、つまり、

「想像を絶するような距離」

 というものを考えた時、その発想の原点にあるのが、

「宇宙空間」

 というものであった。

「無限に広がる宇宙空間」

 というものが創造できるのだが、その中でも、

「地球と、太陽と、月」

 という関係について考えてみると、分かりやすいだろう。

 そもそも、宇宙という感覚は、太古の昔から、

「神秘的なもの」

 と言われ、

 ルネッサンス時代までは、誰もが、

「宇宙が動いていて、地球が静止している」

 と思われていた。

 それも、もっともだろう。

 何といっても、地球人は、地表というものにしばりつけられていて、地上と言われる部分か、せめて、海の中に行けるくらいだったのだ。

 空を飛ぶということもできなかった時代に、宇宙というものを創造するとなると、

「宇宙が動いていて、地球が静止している」

 と考えるのも、当たり前というものであろう。

 考えてみれば、今では空を飛ぶことが当たり前のように思われていたが、まったく空を飛ぶという概念がなければ、普通であれば、

「鳥のように飛ぶ」

 と考えることだろう。

「鳥人間」

 という発想になったとしても、それは、無理もないことであるだろう。

 だが、考えてみれば、人間の感覚というのはおかしなもので、

「陸蒸気」

 と呼ばれ、日本の文明開化に欧州から輸入した、

「蒸気機関車」

 に対し、

「こんな鉄の塊が、動くのか?」

 といって、恐ろしくて乗れない」

 という人がいただろう、

 だが、最初に、海や川などで、船を使った人は、当然のごとく、発明をしたのだろうが、これこそ、

「太古の昔」

 からあったものだといえるのではないだろうか。

 しかも、古代の四大文明と呼ばれるところは、

「川というものがあり、それが文明の発祥だった」

 と言われるのだろう。

「黄河文明の黄河」

「インダス文明のインダス川」

「メソポタミア文明の、チグリス=ユーフラテス川」

「エジプト文明のナイル川」

 などがそうであろう。

 それらの文明は、その時代、それぞれに交流があったのかどうかまでは分からないが、少なくとも、

「川があるから、文明ができた」

 ということであれば、それは、

「川を有効活用した」

 ということが原点になっていることであろう。

 というのは、一番考えられることとして、

「川を交通機関」

 として使ったということであり、そうなると、当然浮かんで狂う発想というのは、

「船」

 ではないだろうか。

 誰がいつ開発したものかは分からない、

 しかし、それぞれ、遠く離れたところで、同じような方法を遣う人種、民族がいるということは、それだけ、

「人種が違っても、脳の構造は同じなので、結果、開発されるものというのは、同じものになるに違いない」

 ということであろうか。

 それを考えると、

「地球のほとんどが海であり、陸は限られている」

 と考えると、海への思いというのは、人間はひとしおなのだろう。

 ということを考えると、これから進出していくであろう、宇宙空間であるが、この宇宙空間というものに対する発想は、

「宇宙という大海原」

 ではないだろうか。

 そもそも、

「宇宙船」

 というではないか。

 元々、地球における生物の元祖は、

「海の中の、プランクトンのような生物だ」

 と言われているではないか。

 地球ができた時というのが、マグマが冷えて、固まったものが地球だということで、なぜ、そんなところに水があるのかということはよく分からないが、そんなことを考えていると、実際に面白いというものである。

 次第に陸地ができてきて、巨大生物が生まれてきて、数万年以上という月日が何事もなく流れているかのようだが、実際には違ったことだろう。実際の今というものが、どういうものなのか?

 ということと結び付けようとするのは、正直、

「愚の骨頂」

 といえるかも知れない。

 しかし、

「記憶や意識」

 というものを考える時、時間という感覚を無視することができない以上、人間としては、

「どこからどこまでを考えるかというのは自由であり、その結果、

「無限ということを証明するに至るのではないか?」

 と考えられるようで、そこまでいくのが、タブーだといえるかも知れないと感じると、考えることを恐怖だと思う時間もあるだろう。

 宇宙空間に、

「海」

 というものを重ね合わせると、

「宇宙空間が、大海であり、それぞれの星が、国であったり、大陸であったりということを考える」

 しかし、広い宇宙空間を見てしまうと、その無限さゆえに、地球上における、

「どんなに小さな範囲であっても、宇宙空間と結び付けて考えることができる」

 といえるのではないだろうか。

「限りなく広大な無限」

 というものが存在するということであれば、

「限りなくゼロに近い」

 というものがあっても、それは無理もないというものではないだろうか?

 と考えられるのであった。

 SFアニメなどを見ていると、結構面白い

「宇宙空間の、エピソード」

 というものがあったりする。

 子供のころに見て、面白いと感じたのは、

「宇宙空間を海として、そこに潜んでいる、

「宇宙潜水艦」

 なるものがあるという発想だった。

 これは、同じころに見た、同じくアニメであったが、それは、普通の日常の街での出来事なのだが、不思議なアイテムを遣えば、

「空気中を海と見立てて、飛び込むことができる」

 というものであった。

 だから、そのアニメでも、空気中から潜望鏡のようなものが出ているのを見た覚えがあった。

 そういう意味では、

「空気中も、空気のない宇宙空間というものも、海という発想を使えば、同じような発想を思い浮かべることができるのだ」

 ということであった。

 時間の感覚と、宇宙空間、さらには、大海原と、

「まったく違った世界」

 であるのだろうが、発想をめぐらすと、

「実は隣り合わせだった」

 ということは、往々にしてあるものだ。

「大どんでん返し」

 という言葉があるが、

「まったく遠い距離であっても、実際には、すぐ隣だった」

 などということもあるのではないだろうか?

「何か、心理学的に、そういうものもあってもいいのではないか?」

 と思うのだが、それこそが、

「錯覚」

 というものではないだろうか?

 少したとえは違うかも知れないが、

「地図の錯覚」

 というものもある。

 それは、基本的に、

「地球が丸い」

 ということからきている錯覚なのだが、

「丸い物体である、地球を表すのに、地球儀のような最初から丸いものであれば、説明がつくのだが、それを平面の地図で表そうとすると、輪切りにするような表現でなければ、距離を表すことはできない」

 ということになる。

 そんなことを考えると、

「時間と、空間の歪みを創造したところの四次元というものを考えた時、丸い球体をまずは考えないといけない」

 ということで、最初から、

「錯覚ありき」

 という発想でいくしかないということであろう。

 地図というもので、

「一般的に航海図などに使用されるものとしての、

「メルカトル図法」

 というものがある。

 こちらは、

「角度を正確に表したもので、距離や面積は性格ではない」

 と言われるものだ。

 それに対して。

「モルワイデ図法」

 というものがあり。こちらが、

「距離や面積が性格であるが、角度が曖昧なものということで、

「分布図」

 などに主に使われるということだ。

 実際に、特撮テレビで見た、

「地球防衛軍などの、ロゴであったり、作戦室にあった地図などというのは、

「モルワイデ図法」

 というものが使われていたような気がする。

「メルカトル図法」

 が、長方形であるのに対し。

「モルワイデ図法」

 というものが、楕円形であるということが特徴である。

 見た目に格好のいいのは、

「モルワイデ図法」

 ではないかと考えると、地球防衛軍が使うとすれば、それは、楕円形の方が格好いいと考えれば、

「なるほど、モルワイデ図法を使っている」

 ということも分かるというものだ。

「距離と取るか、方角をとるか?」

 一長一短であろうが、

「そこに、四次元の世界などを絡ませるには、そのどちらも絡ませる必要があるのではあいか?」

 ということになるのであろう。

 地図などの錯覚という中に。一つ気になるものを感じたことがあった。

 いわゆる、

「サッチャー錯視」

 と呼ばれるもので、これなどは、完全に、

「目の錯覚」

 といっていいものだ。

 これは、

「元英国首相」

 で、

「鉄の女」

 と、フォーランド紛争などの時に言われたことに由来するのだろうが、その人の性格を捩ったのかどうか分からないが、

「見た目」

 ということで、

「正対して見た姿と、上下逆さまに見た姿」

 とでは、まるで違う人物にしか見えないということからきているのだという。

 上下逆さから見ると。

「局所的特徴の変化が、見てとりにくくなる」

 ということからきているのだという。

 そもそも、逆さ絵という発想ではないが、

「鏡の錯覚」

 というものもあるといわれている。

 というのは、

「鏡に映る場合、左右は、反転して映るのに、上下は、逆さまにならない」

 ということに対して、一度は、

「不思議だ」

 と思ったことがある人も少なくはないだろう。

 しかし、それも、一瞬のことで、

「それが当たり前だ」

 ということで納得することが多いだろう。

 それを納得させる説明にいくつかあるが、その一つとして、説得力を感じるのは、

「鏡に映っている姿が、本当は、正面を映しているのではないということで、後姿をこちらに向けているのが、自然だという意識があることで、本来なら、こちらを向いているわけではない人の姿を見ているからだ」

 という発想であった。

 これは、あくまでも、

「目の錯覚」

 ということだけにとらわれることであり、それを、

「目の錯覚ではない」

 ととらえることによって、そもそも、おかしいと思うことが、

「別におかしいわけではない」

 ということになるのだということになると、理屈が、納得させるだけのものとなるということになるのではないだろうか?

 目の前に映るものを。どのように考えるのかということを思うと、

「サッチャー錯視」

 のように、

「錯覚を納得させるために、半ば強引な理論を組み立てたのではないか?」

 と思えることは、往々にして多いのかも知れない。

 だから、

「錯覚」

 というのは、何も目だけではない。

 五感すべてに、

「錯覚」

 させる何かが備わっていて、それをすべて、

「目の錯覚だ」

 ということで片付けようとするから、納得できることもできないように、錯誤されてしまうのかも知れない。

 そんなことを考えていると、錯覚というものを、いかに考えるかということが大きな問題なることであろう。

 錯覚というもので、一番わかりやすいのが、

「錯視」

 というものであろう。

 見ているものが、信じられなくなれば、それが錯視であるし、そのせいで、

「何が真実なのか、分からない」

 ということになるだろう。

 世の中には、

「事実と真実」

 という考え方があるだろう。

 ドラマ化何かのキャッチフレーズで、

「真実は一つ」

 などといっているものがある。

 ただ、これをまともに、つまり、

「一直線」

 に見てしまう人がいると、そこは、

「真面目」

 という言葉で解釈されることになるだろうが、

「真面目がすべてにおいて、正しいといえるのだろうか?」

 ということである。

 つまり、

「真実と事実というものを考えた時のことになる」

 ということになるが、

「基本的に、事実は確かに一つである」

 何が起こったとしても、例えば、

「誰かが殺された」

 ということであれば、

「死んでしまったので生き返らない」

 ということが事実で、死んだことの真相として、

「殺されたということで、警察が捜査に乗り出し、そこで、証拠であったり、証言から真実に近づこうとするわけであるが、殺されたということが事実であっても、その動機というものが、犯人が捕まったとしても、本当の動機を言わなかったとすれば、結局、

「殺された」

 という事実に対して、

「その真実は、分からずじまい」

 ということになるだろう。

 中には、

「犯人をかばって出頭してきて、その人をそのまま起訴して、有罪になってしまったとすれば、結果、事実ではない方に事件が解決したということで、それを、真実だといえるのだろうか?」

 ということになってしまうだろう。

 だから、当事者以外が介入し、事件を見た場合、捜査員も、しょせんは、

「第三者」

 ということになる。

 事実から、真実に近づくことはできるかも知れないが、事実が真実と重なりあって、一つになるということが、実に難しいかということである。

 だから、

「事実は一つしかない」

 ということだが、真実というのは、

「証拠から積み上げられたもの」

 ということで、犯人のトラップにまんまと引っかかってしまったということになるのだということであれば、表向きな

「真実」

 ということで、それ以外に、

「事実から重ねられた、一種の状況証拠から導かれる真実」

 そして、

「すべてを網羅するということで、心理的に矛盾のないことが、存在すれば、それが、本当の真実ということであり、ただし、それが、事実と寸分狂わぬ状況になるのかというと、

「そんなことはない」

 ということで、

「一つの事実に対して、真実がいくつもある、

「といえるのであろうか?

 ミステリーなどを見ていると、

「事実と真実」

 というものを混同してしまうところがあるが、刑事が捜査を行う上で、また、犯人が事件を組み立てていくうえで、それぞれに、どこか、話が組み立てられないところがあり、それが絡んでしまうと、話が混乱してしまって、うまくいかなくなるのだろう。

 特に、事件を計画する方とすれば、

「完全犯罪というのはありっこない」

 と言われる。

 しかし、逆にいえば、

「矛盾さえなければ、それが完全犯罪だ」

 ともいえるわけで、

「下手に策を弄すると、そこから隙が生まれて、余計に完全犯罪などおこらないだろう」

 ということになるのだった。

 たとえば、密室殺人などを考えた時、

「本来であれば、密室殺人などを計画するわけではなく、誰かによって、殺された」

 ということにする方が、一番しっくりくるのだ。

「殺人事件があって、被害者がいて、そこから状況証拠が生まれていき、その通りに事件の捜査が行われていけば、誰もそのことを疑うものもおらず、いくら、誰かが事実を言ったとしても、組み立てられたことが、真実に近いと判断されると、真実は事実と曲げて判断される」

 ということになりかねないということになるのだ。

 だから、密室殺人というのは、探偵小説などで、

「読者への挑戦」

 ということであれば、話としては面白いのだろうが、そんなことはないわけであって、逆に、

「密室殺人」

 というのは、

「密室の謎さえ解いてしまえば、事件の真相にたどり着くのは簡単なことである」

 といえるのではないだろうか?

 そういう意味で、探偵小説ではありえるが、実際の事件としては、なかなかないだろう。

 と言われるものとして、考えられるのが、

「交換殺人」

 というものである。

 これは、ミステリーとすれば、ある意味、

「一番完全犯罪に近い」

 といえるものなのかも知れない。

 そういう意味で、探偵小説において、

「完全犯罪を構成することとしては、トリックというものを、最後まで読者に悟られないということで決まってくる」

 といってもいいだろう。

 つまりは、

「完全犯罪というものは、トリックを見抜かれた瞬間、終わってしまうという、一種のもろ刃の剣だ「

 といえるものであろう。

「交換殺人」

 というものにおいてもそうである。

 なぜ、このような方法を使うのかというと、

「実際に動機を持った人間と、実行犯が違うということで、しかも、それぞれに交換して犯罪を犯すわけなので、お互いに裏切ることはない」

 というのが元々なのであろうが、心理的には不可能な犯罪である。

 そもそも、同時に犯行を犯さないと、少しでも後から犯す人間は、相手が成功した時点で、自分の手を汚す必要はないからである。

 しかし、交換殺人の肝は、

「実行犯が犯行を犯している間に、動機を持った人間に、鉄壁のアリバイがないといけないわけで、次に犯行を犯す人間は、自分が、絶対に前の事件で、怪しまれることがないという証拠を持たないと犯行に及べないということだ。しかし、前に自分の死んでほしい人が死んでしまったのだから、自分がリスクを犯す必要はない。それが、交換殺人のもろ刃の剣だ」

 ということになるのだろう。

 殺人事件を計画する時、最初から不可能と思われる計画を練ることは普通はしないだろう。

 だから、計画を練ることはあっても、実際にはやらない。それでも、

「うまくいけば、完全犯罪だ」

 ということで、小説の上で、

「挑戦しよう」

 と考える作家はたくさんいるはずだ。

 だから、

「密室殺人」

 にしても、

「交換殺人」

 にしても、挑戦する人は少なくないといえるのではないだろうか。

 そのためには、

「実際の犯罪にはなく、小説ならでは」

 というトリックとして、

「叙述トリック」

 というものが用いられる。

 それは、

「作家の技量として、言葉巧みな誘導であったり、トラップのようなものだ」

 といえるものである。

 これこそ、

「事実ではない真実」

 というものを作り上げる。

「錯覚」

 というものなのかも知れない。


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