第2話 記憶と意識

 目が覚めた時、

「ああ、目が覚めてしまった」

 と感じた。

 それを、

「現実に引き戻された」

 と感じるということであって。引き戻された現実が。どのようなものだといえばいいのか、それを考えると、

「目が覚めたくない」

 と思うのは、現実に引き戻されるという思いなのか、単純に、

「まだ寝ていたい」

 という生理的な気持ちなのか、そこが疑問であった。

 眠っている時、すべてに夢を見ているのだろうか。

「寝ている時に見るのが夢で、起きている時に見ているものは、すべてが現実」

 という理屈は、誰もが認めることで、違和感がある人はいないだろう。

「一日の中で眠りに就く時が一番幸せで、目が覚める時が、一番辛い」

 と感じる時があるが、その時は、結構あったような気がする。

 それは精神的に落ち込んでいる時で、毎日のように同じことを考えるのであった。

「毎日、同じ夢を見ているような気がするな」

 と、感じる時があるのだが、これほど、

「違和感を感じることはないだろう」

 というものだった。

 毎日見ている夢は、

「毎日を繰り返しているのではないか?」

 と感じさせる。

 そう、そんなことを考えている時というのは、本当に、毎日を来る返しているのではないか?」

 と考えているのだった。

 最近、ずっとそんなことを考えるようになったのは、

「夢が覚めた時、自分が誰であるかという当たり前のことを、毎回感じている」

 ということからであった。

 夢から覚める時、いちいち、

「自分が誰なのか?」

 などということを感じるわけもない。

 それは、一日の始まりの毎回のことであり、そもそも、一日のっ始まりがいつなのかとおいうと、

「夢からめが覚めたその瞬間ではないか」

 ということであった。

 毎日のように、目が覚めたその時、

「今から一日が始まるんだ」

 ということで、うきうきすることもあるが、どちらかというと、

「まだ眠っていたい」

 と感じることが多い。

 そういう時は、まずほとんど、夢を覚えていないのだ。だから、

「まだ夢の中にいたい」

 という思いが、目を覚まさせたくないという思いと結びついて、

「それが、楽しかった夢なんだ」

 と思わせるのだった。

 楽しかった夢というのは、基本的に覚えていないものだ。

 というよりも、

「目が覚めるにしたがって忘れていくものだ」

 という感覚である。

 だから、夢を忘れたくないという一心で、

@目を覚ましたくない」

 と感じるのだ。

 しかも、夢というものが、

「いくら途中で覚めたとしても、その続くから見ることがない」

 というものだった。

 目を覚ましたその時、

「ちょうどいいところで目が覚めてしまった」

 と感じる。

 だから、

「夢の続きを見たい」

 と思うのだろうが、意識がしっかりしてくると、

「夢が、ちょうどいいところで終わってしまった」

 というのが、錯覚ではないかと感じるのだ。

 というのも、

「本当は、最後まで見ていて、目が覚めるにしたがって、ちょうどいいところで目を覚ました」

 と感じさせるのではないかということであった。

 ただ、そんな思いにさせるということは、何かの思惑があってのことであろうが、その思惑というのがどういうものなのか、まったく分かっていないのだった。

 一度最後まで見ている夢なので、

「もう二度と見ることはない」

 といえるのではないだろうか。

 そう感じれば理屈に合う気がするのだが、

「ではなぜ、最後まで意識させなかったのか?」

 というその理由に関しては、分かるわけではなかった。

「見た夢が、どういう夢だったのか?」

 ということを考えれば考えるほど、

「いい夢だった」

 という気がする。

 だから、

「もったいない」

 と思うのだし、それだけ、その途中までを忘れることはないのだ、

 そんなことを考えていると、途中までしか夢を見せないのは、

「夢を忘れたくない」

 という思いを、忘れたくないと感じさせるという、まるで、

「合わせ鏡」

;か、

「マトリョシカ人形」

 のようではないか?

 ということであった。

 そして、目が覚めるとまったく忘れてしまった夢というのは、実は目が覚めるにしたがって、最後まで思い出しているのであって、思い出した瞬間、思い出したということも含めて、リセットされるのではないだろうか。

 リセットされることで、もう一度、夢をみようと試みるが、その瞬間に、目が覚めてしまうということであった。

 それを考えると、

「夢の中というのは、永遠に同じ夢を繰り返しているのではないか?」

 という、おかしな気分に陥るのだった。

 そんなことをいつも考えているのが、坂上という男で、今年二十歳になる大学生だった。

 高校時代から、成績はよく。志望大学も現役で普通に入学できた。

「そんなに受験勉強をした」

 という感覚ではなかったが、

「何となく、合格した」

 といってもいいかも知れない。

 高校の定期テストくらいであれば、

「ほとんど勉強しなくても、ちょっと復習するくらいで、及第点くらいは、楽に突破できた」

 といえるだろう。

 坂上は、自分でも、

「勉強しなくたって、簡単に単位くらいはとれる」

 と思っていたが、さすがに大学受験はそうもいかない、

「丸暗記」

 というところも当然にあり、その場合も、独自の創意工夫で何とか乗り切っているのであった。

 それだけ、

「勉強に対して、効率がいい」

 ということであろう。

 学生生活において、

「勉強が楽しい」

 と思っていた。

 さすがに、受験勉強になると、

「初めて。勉強が面白くないものだ」

 と感じた。

 だが、逆に、

「効率よくやれば、勉強も楽しくなる」

 ということも感じたのが、受験勉強の時だったといえるだろう。

 ちょっとした創意工夫による受験勉強が、功を奏して、大学に入学した坂上は、

「大学というのは、レジャーランドだ」

 と言われているのだということが分かると、

「友達を作るということ」

 そして。それが、

「大人への仲間入りとなる」

 と考えると、

「大学入学とともに、自分がここでリセットされたんだ」

 と感じたのだ。

 それを思うと、

「あの感情が、まずかったんだ」

 と、高校時代までの自分が一変し、それまでの自分が、まるで、

「神童だ」

 と感じていたことを思い出した。

 それだけ自分が自惚れていたということを、思い知らされたのであった。

 ただ、客観的に、まわりの人の目で見れば、

「神童だ」

 という思いは、間違いのないことで、ただ、それを本人が感じるということは、普通の人であれば、

「おこがましいことだ」

といってもいいだろう。

 大学生になってから、リセットされた頭で、一番大きかったのは、

「人を見る目線の高さが変わった」

 ということであろう。

 高校生の頃までは、明らかに、

「優越感」

 というものがあり。

「その感情が、自分を支配していた」

 と思ったのだ。

 しかも、

「支配していた」

 ということは、逆にいえば、

「支配されていた自分も存在している」

 ということであり、

「支配されていた自分も、支配していた自分も、同じ人間であったが、他の人を見る時は、圧倒的な上から目線だった」

 ということを感じるのだった、

「上から目線」

 というものは、あまりいい言われ方をしたい。

「人を下に見るということはいけないことだ」

 というのは、誰もが感じていることだろう。

 それは、本当に人間である以上誰もが考えていることであって、それが、

「奴隷」

 であっても、その奴隷を支配している、

「領主」

 であっても、同じではないかと思うのだ。

 そうは分かっていても、

「どうなるものではない」

 という

「あきらめの境地」

 というものが、蔓延していることで、誰もが、反乱を起こすこともなく、

「理不尽だ」

 という思いを強く持ったまま、その心境は遺伝していくのである。

 その思いが、潜在意識となって、遺伝子に入り込んでいるのだろうか?

 もし、それが夢を見せるのであると考えると、

「覚えていないという夢は、遺伝子の中にしかないもので、それは、記憶であり、意識ではない」

 ということになる。

 だから、

「初めて見る」

 ということを理解できているのだし、

「思い出した」

 あるいは、

「懐かしい」

 という思いが、違和感となって、襲い掛かってくるのではないか?

 そんなことを思っていると、

「舗装されていない道」

 というものを、自分の何代前の人間から受け継がれているものだというのか?

 それを考えると、

「臭いが確かあったな」

 ということを思い出した。

 そもそも、

「夢に臭いという概念はないはずだが」

 と思うのであって、

「大学生になったとたんリセットできるこの感覚は、遺伝によって、引き継がれていた感覚であろうか?」

 と考えたが、

「大学のまわりにも似たような道があるのではないか?」

 と思えたのだった。

 その時、子供のころに、そんな道を想像していたということを、今回の夢で思い出した。

 子供の頃であっても、そんな道があるわけもなく、

「想像したとすれば、遺伝子のいたずらでしかないのではないか?」

 ということも分かっていた。

 子供の頃というのを思い出してみると、家の近くにある児童公園に、高校生になる頃までよくいっていたのを思い出した。

「思い出したといっても、数年前の記憶なのだが、その公園を懐かしいと思うと、そう思った時、かなり昔のように感じるのであった」

 ということを感じるのだった。

 ただ、思い出すのは、いつも、中学生の頃のことであって、小学生の頃は、そんなにでもなかったのだ。

 小学生の頃に比べれば、その公園の広さに関して、中学生になったとたん、急に狭く感じたのだ。

 その頃になると、成長期に入るのだから、当たり前のことだといえるのだろうが、実際には、そうではない。

 もっと言えば、

「少しずつ、小さく感じるようになる」

 というのが本当で、それが意識してではなければ、

「気が付いたら小さくなっていた」

 ということで、小さくなっていくという意識がない間に。気が付けば、

「急に背が伸びていた」

 ということに気づいた時、公園が狭くなったことにも気づくわけで、そもそもの、目線の違いということに、

「気づくか気づかないか?」

 ということが問題なのだろう。

 それを思うと。

「急に狭くなった」

 と感じたわけではなかったので、身体の成長の度合いも意識していたということになるのだろう。

 しかし、今から思えば、そんな状態だったということを覚えているわけではない。

 だが、公園の目線というもので、狭く感じてきたということを意識すると、

「成長も意識していたんだろうな」

 と感じたのだ。

 だから、その意識というのは、無意識だったのかも知れない。

「潜在意識」

 というものなのか、詳しいことは分からないが、その意識が記憶となって、感じさせるものなのではないかと思うのだった。

 この公園は、ずっと、子供の頃と変わったという意識はない。遊具も、同じ場所にあり、別に、取り壊された遊具も、新しく設置された遊具もない。

 そもそも、児童公園の遊具が、増えたり減ったりという方がおかしな気がするのは、

「その光景の記憶に、間違いがない」

 と思うからだろう。

 少しでも変われば、違和感満載で、見える角度が変わったとしても、

「まったく違う光景だ」

 と最初から意識していたとすれば、それは、当たり前のことだという意識しかないことであろう。

 それを思うと、

「児童公園を見渡していると、いつも同じベンチに座っていた」

 ということをいまさらながらに思い出させる。

 当たり前のことなのだろうが、その公園のベンチに座ってみると、

「いつも誰もいない光景」

 というのが思い出される。

 確かに、その場所はいつも空いていた。しかし、他に公園に誰もいなかったと感じる時の方が、むしろ少なかったような気がする。

 小学生の頃は、よくその公園で遊んでいたという意識もあるし、その頃から、このベンチに座っていたという意識も残っている。

 だが、公園で遊んでいたという記憶と、ベンチから見ていたという意識は別物であった。

「なぜ、別物なのか?」

 ということを考えてみると、分かる気がした。

 というのも、

「遊んでいる時というものが、記憶として格納されていて、ベンチで座っている時のことは思い出そうとすると、意識として感じるのであった:

 ということである。

 つまりは、

「動の時に感じることは、記憶として残り、静の場合は、意識として残っているのではないか?」

 と感じたのだ。

 これは、自分だけが感じることであって。他の人が感じるということと、少し違っているのではないかと思うのだった。

 というのも、

「意識と記憶」

 というものを、いかなるものなのかということを考えていたのだが、今回思い出した、

「舗装していない道のデジャブ」

 というものが、

「どうして違和感がないのか?」

 ということを考えた時。

「そもそも、公園は、舗装されていないではないか?」

 と感じたからだった。

 考えてみれば、スポーツを行う、

「スタジアム」

 などという、野外競技場で、

「舗装されているものがあれば、恐ろしい」

 という感覚である。

 野球にしても、サッカーにしても、団体球技で、舗装されていれば、どうなるかということを考えると恐ろしい。基本的には、芝の上であったり、土のグラウンドというのが当たり前のものだと考えると、実に、

「人間というのは、無意識に、その状況を判断し、違和感のあるなしを感じるというものなのだろうな」

 と感じたのだ。

 だから、ひょっとすると、

「静と動」

 という考え方ではなく、

「違和感のあるなし」

 というものが、

「記憶と意識」

 という格納方法に、別々の意識を感じさせるものではないだろうか?

 と感じるのであった。

 記憶も意識も、

「基本的に考えると、同じものではないだろうか?」

 とも考えられる。

 たとえば、

「おはぎとぼた餅」

 というものがあるが、これを、

「別々のものだ」

 と思っている人がいるだろう。

 そして、もう一つ、

「ぜんざいとおしるこ」

 この二つも、別々のものだと思っているだろう、

 これら二つは、それぞれに、

「同じもの」

 だということで、広辞苑に掲載されているのであった。

 ただ、それぞれに、微妙に違うところの意識として、考えることをがあった。

 というのは、まず、

「おはぎと、ぼた餅」

 であるが、

「これをどうして、言い分ける必要があるのか?」

 というと、これには季節がかかわっていたのだ。

「それぞれを、萩、牡丹」

 と考えると、それぞれに、その目的が、

「彼岸」

 というものにあるのだとすれば、

「春と秋」

 に限定される。

 そうなると、

「春が牡丹で、秋が萩」

 と明確に分けると、

「同じものでも、名前を分ける必要があったのだ」

 ということになるだろう。

 言い伝えとして、

「餡の中に入っているものが餅であれば、ぼた餅であり。ごはんであれば、おはぎだ」

 という人がいるが、実際には、

「おはぎも、ぼた餅も、もち米とうるち米を半々くらいに入れたものを適度につぶして炊いたものを、餡でくるむ」

 ということであったので、餅の中に関係があるということではないのであった。

 では、

「ぜんざいとおしるこ」

 ではどうだろう。

 こちらには、それなりに違いというものがあるということであるが、実は、それは、

「地域制で違いがあるようだ」

 ということである。

 つまりは、

「関西と関東で違いがある」

 ということだ。

 関東では、

「汁気がないものを、ぜんざいといい。汁気があるものをおしるこという」

 ということであった。

 その中でも、

「粒があるものを、田舎汁粉といい。粒がないものを、御膳しるこという」

 というのであった、

 では、関西はどうだろう?

 関西での違いというと、

「どちらも、汁気があるもので、違いは、粒があるものが、ぜんざいで、粒がないものが、汁粉だ」

 ということであった。

 だから、関東の人と、関西の人が、この二つのことで言い争いになると、きっと、収拾がつかなくなることだろう。

「どちらも、正しい」

 というのだから、それも当たり前ということである。

 関西にしても、関東にしても、問題となるのは、

「汁気のあるなしか」

 あるいは、

「粒が入っているかいないか」

 ということである。

 関東でも関西でも、どちらについても言及しているので、理解さえできれば、分かり合えることであろう。

 ただ、昔から、どうしても、

「関東と関西では、言い争いのたねは尽きない」

 ということで、

「理屈を言い合うと、なかなか決着がつかない」

 ということになるであろう。

 一つ言えることは、

「二つの相対的なものがあったとして、言われていることもそうなのだが、実はまったく同じもので、形状や性質によるもので分けれれているわけではなく、季節性というもので分かれているというものや、地域性で分かれているというものがあるという、民俗的な考えも考慮にいれる必要がある」

 といえることが、

「往々にして多い」

 ということではないだろうか。

 それを考えると、

「記憶と意識」

 というものも、普通では考えないようなことが、影響してくるのではないかと思うのであった。

 一つ考えられることとして、

「記憶は、意識の中に封印されているものだ」

 といえるのではないだろうか?


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