第9話 皇子、不本意ながら急用で出る
久しぶりにあの夢を見た。
一筋の光も射さない闇で少女の泣く声が響いている夢を。
* * * * *
号泣が次第に弱まり、すすり泣きに、最後にはしゃくりあげるだけになる。
それでも、その悲しみに満ちた声は決して消えることはない。
私のことなら、悲しまなくていい。
私は満ち足りて消えていく。
だから自分を責めなくていい。同胞とともに、幸せになればいい。
いとし子よ、どうか、先に逝く私を許してほしい。
お前の前途を見ずに逝く私のことなど忘れてくれ。
私さえいなければ、敬意を持って受け入れてもらえる。
わが友はお前を大切にしてくれるだろう。私の分まで。
愛する娘よ。
幸せに。
多くの同胞に囲まれた幸せな人生を。
私がここで消えるのは、お前にとっての僥倖。
私にとっては、救いですらある。
だから、もう泣かないで。
そう告げたいのに。
すでに感覚さえ失った身体はピクリとも動かない。
自らの手で優しく抱きしめて、その涙を拭ってやれたなら。
ああ、それだけは心残りだ。
お前の幸せだけを祈っている。
たとえこの身がこの世から永遠に消え失せようとも。
* * * * *
やるせない気分のまま、ベッドで迎える目覚めは最悪だ。
再会して以来、徐々に古の記憶が戻ってきている。
あの夢が誰の夢なのか。泣き続ける少女が誰なのか。今ならはっきりとわかる。
あの夢が大昔に実際起こってしまった出来事であることも。
涙で視界がぼやけていた。枕元がぐっしょりと濡れている。
おかしなものだ。
これはあの時は流すことができなかった涙なのだろうか?
今度は、絶対に間違ったりしない。絶対に、幸せにしてみせる。
頬に残る雫を拭って呟く。
「ゾーン、あなたは賢者なんかじゃない。自己満足に陶酔した愚か者よ。あの子の気持ちなんて、何もわかっていなかった。あの子の幸せを本当に願うなら、死を受け入れるべきじゃなかった。どんなことをしてでも、側にいてあげるべきだったのよ。あれじゃあ、あの子を救ったなんて言えないわ」
頭を軽く振って夢の名残を振り払うと、シャルはベッドから勢いよく起き上がった。
* * * * *
いつものようにエルサに身支度を手伝ってもらう。
いつもより念入りに姿見をチェックしてから、ドキドキしながら食堂に来てみると・・・
ひどくがっかりしたことに、皇子たちの姿はなかった。
母によると、早朝に、空間移動の術まで使って、あわただしく発ったとのこと。
至急、戻ってきてほしいとの通信が入ったとか。隣町の宿に置いてきぼりを食った、もとい宿泊している黒騎士団の術師から。
空間移動の術は属性を必要としない魔法。中級以上の術師なら練習さえ積めば一応は使える術だ。
ただし、それなりの魔力を必要とするし、目視できる場所ならともかく、通常は出発地点と到達予定地点それぞれに術式を使える同等の術師がいなくてはならない。移動できる人数も距離も限りがある。もし、失敗すれば、術者ともども異次元に閉じ込められてしまう。
労力や手間、安全性を考えれば、馬で移動した方がいい。『転移門』がある場所以外は。
膨大な魔力を持ち、かつ目的地を具体的にイメージできる能力者なら、話は別だが。ブーマ王国一と称される天才術師マリーナ夫人並みの。
皇子が躊躇なく術を使ったと言うことは、よほど事が急を要したのか。
「何があったのかしら?こちらでのんびり皆を待つとおっしゃっていたのに」
「どうやら予期せぬ客が来たみたいね」
「予期せぬ客?」
「はっきりとはおっしゃらなかったけど、どうやらあちらの身内じゃないかしら」
「あちらって、ゾーン王家の、てこと?」
愛しい人の不在に大いに気落ちしていても、シャルの食欲は通常運転だった。
母と弟と一緒に、皇子の置き土産、昨日死守したベルウエザー特産の黄金ベリーと腎臓ナッツの入ったパンケーキを遠慮なく頬張る。
(このふわふわした口あたり。ベリーの甘酸っぱさが優しい生地の甘さを引き立てている。おまけに、ナッツの歯ごたえがアクセントになって・・・。これほどのお菓子を短時間で焼き上げてくださるなんて)
相変わらず、皇子の作るお菓子は最高だ。
それにしても、とシャルは内心で小首を傾げた。
アルフォンソ皇子はローザニアン皇国アルメニウス一世の次男。男爵令嬢であった実母はすでになく、一番近い王族内の身内と言えば、皇王を除けば、皇后とその子である異母兄姉『アルバート第一皇子』と『アマリアーナ王女(現辺境伯夫人)』と、第二夫人とその息子の『アルサンド第三皇子』のみ。
『英雄色を好む』と言うが、名君と名高いアルメニウス一世は、若くして亡くなったアルフォンソの実母を除けば、自らの意志で側室を持ったことはない。第一夫人である皇后は王家の傍系の出であり、生まれた時からの婚約者。第二夫人は小国の王女であり、外交上の理由から娶ったと聞く。
「父は母を深く愛していた。母こそが生涯唯一の愛妃だと言ってくれた」
魔鏡を通じて皇王陛下から結婚の許可をもらったと連絡してきたアルフォンソが、なんだか嬉しそうに言っていたのを思い出す。
(皇后様には徹底的に嫌われているっていうか、憎まれているっておっしゃってたわよね。母方の男爵家で育ったから、兄姉との仲はあまり良くないとも。別邸にいらっしゃる第二夫人や第三皇子とはほとんど顔を合わしたこともないんだっけ。こんな時にわざわざ追っかけてくる親戚って…いらしたっけ?)
妙なことにならなきゃいいけど。
やっと、正式な求婚をやり直してもらえることになったのに。
「皇王様が皇子を連れ戻しに来たとか?」
弟の言葉にシャルの顔色が変わった。
「あり得ない事じゃないよね。きっと、他所にやるのが惜しくなったんだ。まあ、優秀な息子だし?」
「サミー、バカなこと言わないの。ご自身が許可された以上、今になって変更などなさらないわ。たとえ、そうであったとしても、皇王様が自分でやってくるなんて問題外。家臣を差し向けられるはずよ。安心しなさい、シャル。あの皇子殿下を無理やり連れ戻せるほどの騎士や術師なんて、いないから。私が断言する!こちらとしても、あれほどの有望株、今更、返すつもりはないけど」
「姉上、この際、はっきり言うけど、僕は反対だからね。あんな胡散臭い奴。結婚なんかしたら、姉上、また危ない目にあうかもしれないじゃないか。婚約なんて絶対に認めない・・・料理のウデは、まあ、認めるけど」
この姉大好き少年は、先日の誘拐事件の顛末にプラスして今回の誘拐未遂のことを深く根に持っている。
「領内にもきっと姉上にふさわしい人がいるよ。姉上ほど強くなくても。そこそこ強いのが、きっと」
「私にふさわしい人?アルフォンソ様以外で?ありえないわ」
シャルが首を振った。
「あの方ほど一途な方はいないわ、サミー」
1000年もの間、何度も転生を繰り返しつつ、探し求めてくれたのだから。
一途なんて表現では表せないんじゃないだろうか?
「心配しないで、シャル。できるだけ早く野暮用を済ませて、騎士団と一緒に来るっておっしゃてったから。だからしっかり食べて英気を養っておかなきゃね」
マリーナが、空っぽの皿の前で俯いている娘に追加のパンケーキを山盛り取り分けてやる。
「父上たちが、今日、帰ってくるそうよ」
「おじい様は来てくれるって?連絡はあったの?」
サミーが心強い味方の到着予定に声を上げた。
「まあね。昼過ぎには一緒に戻るって伝令があったの」
マリーナは、パンケーキをぱくつく手を一瞬止めた娘を見やった。
「シャル、
それから、息子に向き直って
「サミー、おじい様のお相手はよろしくね。直接お会いするのは、久しぶりでしょ。私は愛する旦那様と、殿下が戻る前に、水入らずでじっくりと話し合わなくてはならないことがあるの」
にこやかな母の笑顔に、父の受けるであろう叱責を思いやって、姉弟は食べることに専心することにした。
シャルの父、現領主クレイン・ベルウエザーと前領主ラウディス・ベルウエザーの一行が多くの獲物を手に帰領したのは、昼食後数時間経ってからだった。
クレインをはじめとする騎士たちの慣れた手つきで、血抜き処理済みの魔物肉はさらに細かく解体され、毒消し処理も完璧に施された。
その後、マリーナがクレインを有無も言わせず引っ張っていき、前領主の指揮の下で、調理スタッフ総出の調理が始まった。魔物肉を美味しくいただくためには、それなりの下準備が欠かせないのだ。
料理長とシャル専属侍女エルサを中心に、調理場スタッフは燃えていた。
何としてでも、次の晩餐会では、この地特有の美味しい、他領にはない『魔物料理』を作り上げようと。
昨日の『カニ』料理等で、アルフォンソ皇子の料理の腕前の凄さは実感した。
だからこそ、この城の厨房に仕える者として、皇子の舌を唸らせるに足るだけの珍味を食卓に供さなくては。ベルウエザーの料理人の矜持にかけて、よそ者に負けるわけにはいかないのだ。
ちなみに、取り置きしてあった『カニ』の手足は、前領主が味わったことがある鍋料理として出されることになった。
求婚者を迎え撃つ『晩餐会』が滞りなく準備され、直接的な関係者の心の準備もほぼ整った頃、アルフォンソ皇子から謝罪の言葉が届いた。
突然、食事の席に飛び込んで来た『鳥型伝言用魔道具<飛文>』。
それは、求婚に訪れるのが2、3日遅れそうだと告げたのだった。
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