第5話 魔々活男子よ億稼げ
紆余曲折を経て、目当てのゲームセンターにたどり着いた。そして店内へと続く自動ドアを通り抜けると、同時に、繋いだ手が離れていった。朱華さんが放したのだ。背景で流れるけたたましい店内BGMが、僕の中でくすぶっていた焦燥感を煽る。やっぱり、手を握ったのはまずかったか……?!
あれは僕なりの、精一杯の気遣いのつもりだった。足元がおぼつかないのが見ていて心配だったから、支えになってあげようと思って、あのとき彼女の手を取ったのだ。でも、朱華さんにとっては迷惑だったんだろう。どうしよう。余計なことをしてしまったぞ。
「くれぐれも勘違いしないでほしいんだけどね」大きく膨らんだ胸の前で両腕を組み、朱華さんが告げる。「私は、そういうことのために君を呼んだんじゃないんだ」
「そういうこと?」
「疑似交際のことだよ」
この際ハッキリさせておこう、と朱華さんが言った。
「恋とか愛とかそういう余計な感情はいらない。私がキミに求めてる関係は、都合のいい遊び相手で、それ以上でもそれ以下でもない。いいね?」
都合のいい関係。なんかアダルトな響き。
「それは、えっと、つまり……カラダだけが目当てってことですかっ?」
僕は両腕で自分を抱きしめる。
「なんでそうなるの。思考ロジックがあまりに思春期男子すぎないかい? ……いや、そういえばリアルに思春期男子だったねキミ」
大きくため息をついて、片手で頭を抱える朱華さん。
「あのね、もしそのつもりだったらゲーセンになんか来ないでしょ。普通に考えればわかるよね? ……虎太郎、キミってやつは筋金入りだね。犬の真似だのセルフ首絞めだの、まったく度し難いほどのヘンタイだよ」
ひどい誤解だ。これでもれっきとした清純派男子中学生だぞ僕は。どこぞの親友とは違う。少年漫画のお色気シーンだけで十分満足できるのだ。だからヘンタイなんかじゃないんだ……。
僕が自己弁護を試みようとすると、それを遮るように、自信ありげなしたり顔で朱華さんが言った。
「そしてそんなキミに付き合ってやってる私って性格良すぎ」
そうかな? ……そういうことにしとくか。
元はといえば、首輪とリード付けてきた朱華さんにも原因はあるのだが、それを指摘するのはやめておこう。
さて、と朱華さんが言った。
「じゃあ今度はキミが私に付き合う番だよ」ニヤリとして。「完膚なきまでボコボコにしてやる」
朱華さんが僕を引っ張った。リードではなく、僕の手首をぎゅっと掴んで。そして、そんな些細なことに対して安堵した自分に驚いた。なんで僕は今ホッとしたんだ?
レースゲームをしよう、と朱華さんが誘ってきたので、僕は二つ返事で了承した。なるほどそうか、遊び相手って、いっしょにゲームする相手のことをいってたのか。変な勘違いをしてしまったな。
レーシングゲームのコックピットに座すと、朱華さんが「その体に敗北の味を教えてあげる。嫌って言ってもやめないからね」と煽ってきた。さらに付け加えて「ああでも、マゾにはご褒美か」とも。気分が高揚しているのが目に見えてわかった。よほどゲームが好きらしい。
コイン投入口に百円玉を入れようとすると、朱華さんが「奢るよ」と硬貨を投げ渡してきた。朱華さん普段使いの長財布とは別にがま口の財布を持っていて、その中には大量の百円玉が入っていた。おそらくゲームセンターで使う用の財布なのだろう。……わざわざこんなの持たなくても両替すればいいのに。
「負けたら罰ゲームね。敗者は勝者の要求をひとつ呑む、というのはどうだろう」
と、朱華さんが言う。なんとなくこの展開になるのは予感してた。
彼女の提案に僕はうなづいた。これは、チャンスかもしれない。
「なら僕が勝ったら……連絡先、交換してくれますか?」
朱華さんはまつ毛を伏せて、落胆したように息をついた。
「……解釈不一致だな」
どういうことだよっ?
「私の知ってる虎太郎はこういう時、エロい要求をしてくるはずなんだ」
「僕の知ってる僕はそんなことしないですよっ」
「はは、素直になりたまえよ」とニヤニヤする朱華さん。
この女、たった一時間弱で僕という人間の大部分を理解した気になってやがる。
「もしキミが勝ったら、私の胸、触らせてあげてもいいよ。連絡先を教えるついでにね」
「ちょっ!? なに言ってんすか!?」
すごい自信だ。朱華さんは自分の勝利を確信しているようだった。……この余裕、さては熟練者だな? なんか懐からゲームデータ保存用のICカード取り出してるし。使ってる人初めて見たわ。
相手はガチ勢、対して僕はド素人。勢いで勝負に乗ったことを後悔している。もし僕が負けたら、一体どんな要求を呑まされるのだろうか。想像するだに恐ろしい。これは負けられないな。
(どうにか勝って胸を──じゃなくてっ、連絡先を手に入れてみせる!)
ゲーム開始。シフトレバーをガチャガチャ動かしてギアチェンジしまくる朱華さん。その操作の意味は初心者の僕にはわかりかねるけど、少なくとも見た感じはすごい上級者っぽい。僕もつい彼女の動きを真似したくなったが、慣れないうちにやってもどうせ失敗するだけだと思って、余計な操作はせず堅実なプレイを心がけることにした。基本大事。
──数分後。対戦が終了する。
力の差は歴然だった。結果は──僕の圧勝だった。実家のない勝利。操作方法もあやふやな手探り状態で、適当に車を走らせていたら、いつの間にか半周差をつけて朱華さんに勝っていたのである。けっして、僕のプレイングが神がかっていたわけではない。勝因は彼女のほうにあるような気がした。
もしかして、初心者の僕に花を持たせてくれたのか? そうだ。きっとそうに違いない。朱華さんの粋な計らいに僕は感動した。
(……それにしても面白かったな、このゲーム。もう一回やりたい)
手加減してくれたことには感謝しているが、それはそれとして、本気の朱華さんと競ってみたいという気持ちが湧いてきた。
「いや~楽しいですねこれ! 僕はもう操作慣れたので、次からは手加減無しでも大丈夫ですよ!」
「……」
朱華さんからの返事はなかった。ゲームのリザルト画面を忌々しそうにじっと眺めている。
それはそうと、罰ゲームの件はどうなったのだろう。いちおう勝ちは勝ちだし……。
「あの、連絡先――」
「飽きた」朱華さんが席を立つ。「別のヤツやろうよ」
そんな。まだ一回対戦しただけじゃないか。こちとらようやく操作に慣れたところなのに。
「あともう一回だけやりませんかっ?」
僕が再戦を打診すると、朱華さんは、わからず屋の子供に言い聞かせるような口調で、
「私は、別の、ゲームを、やりたいって、そう、言ってるんだよ? わかる?」
その表情はどこか鬱積したように不機嫌だった。
これ以上彼女を怒らせまいと、僕は黙ってうなづいた。なにをそんなにイラついてるのだろう。……まさか、さっきのレース、本気でプレイしてた? それで僕に負けて落ち込んでる? だとしたら、まずいな。とんでもなく失礼なことを、口走ってた気がするぞ。
「別のゲームって……これですか?」
「うん。前からやってみたいと思ってたんだ」
プリントシール機の前に連れてこられた。罰ゲームの話はどこへやら。相変わらず朱華さんの考えは読めない。
「元はといえば、プリクラ撮るためにキミを呼んだようなものだし」
「べつにひとりで撮ればよくないですか? ──あっ」
やばい。思ったことがうっかり口に出てしまった。朱華さんが遠い目をして。
「……撮ろうと試みたさ。そしたらね、私の近くで『ひとりプリクラとかウケる』『証明写真機と間違えてんじゃないの?』なんて会話が聞こえてきたんだ。それで──」
「いっしょに撮りましょう」
朱華さんのような美人がボッチでプリクラを撮る絵面は、たしかに、見る人によっては滑稽に思えるかもしれない。人目を惹いてしまう容姿ゆえに、そんな悪感情に晒される機会は少なくないのだろう。僕の妹も似たような境遇で、気苦労が多いとよくぼやいている。気の毒なことだ。
「誤解されたくないから、白状するけど」朱華さんが僕の顔を覗き込む。「人恋しくてキミを買ったんじゃないよ」
その表情は読み取れない。緋色の瞳がじっと僕を見つめている。綺麗だなという感想しか浮かんでこなかった。
「ただ、哀れに思われたくないだけなんだ。……私はひとりでいるのが好きだし、寂しいと感じたことはない。だけど周りはそんな私を孤独だと決めつけ、嘲笑う。それが癪で……だから、買った。キミという人間に惹かれたわけじゃない。本当は、誰でもよかったんだ」
しばしの沈黙を挟んで、朱華さんが言った。
「私に好かれようとしなくていい。そんなことしなくても、お手当はあげるから。虎太郎も、それで満足でしょ?」
言葉に詰まった。話が唐突すぎて返事に困るんだけど。
(……ようするに、どうでもいい奴ってことか、僕は)
複雑な気分だ。自分が彼女に好かれてるなんて、そんな図々しいことは思ってないけど、まさか全然気にも留められていなかったなんて……。
会話の途切れた空間に堪えきれず、「すみません。トイレ行ってきます」と言い残して僕は店内の男子便所に逃げ込んだ。洗面台に手をつき、鏡で自分を見る。緊張で顔がこわばっていた。
──私に好かれようとしなくていい。
あの一言は、彼女なりの配慮だったのかもしれない。私は君に何も期待してないからそんなに気負わなくていいんだよ、という遠回しのメッセージ。けど、こっちにだって事情がある。借金返済の第一歩として、朱華さんに僕のことを気に入ってもらって恋人契約を結ばなければならない。『どうでもいい奴』じゃダメなんだ!
(……こんなことでクヨクヨしてる場合じゃない)
顔を洗って心機一転。朱華さんの待っている場所(プリクラ)へ向かうと、
「ねぇ君一人? せっかくだし俺らと撮らない? 奢るからさ」
「てかそれリード? もしかして犬とはぐれちゃった?」
「……犬なら今男子トイレ」
「へぇ、賢いんだねぇその子」
「……どっか行ってくれない?」
「そんなつれないこと言わないでさ、俺らと遊ぼ? 独りじゃ寂しいっしょ?」
朱華さんが二人組の男にナンパされていた。センターパートとマッシュヘア、お洒落な大学生といった印象。露骨に迷惑顔を浮かべる彼女をよそに、二人はさらに距離を詰めていく。僕はそいつらに向かって、
「や、やめてあげてくださいよ。困ってるじゃないですか」その一声で男たちがこっちを見る。声が震えているのを自覚した。深呼吸して、次の言葉をつむいでいく。「っ、それに、独りじゃ寂しいって勝手に決めんのは、あんま良くないと思うっす……」
朱華さんは目を見開いて、それから「ふふっ」と口元を緩ませた。
「なに横から口出してんだよ。関係ねぇだろ。どっか行けよ」
中分けの男が声を荒げて、僕に詰め寄った。ここで引き下がったら負けだ。
「関係なくないです。自分……か、彼氏なんでっ!」
え、マジ? と男が声を漏らし、そして朱華さんは「っははは、なるほどそう来たか! っははは、面白いねキミは!」と腹を抱えて笑った。そんな馬鹿にしなくてもいいじゃんか。
「そういうわけだから、キミたちと遊ぶつもりはないよ。私の彼氏は見てのとおり、嫉妬深い男なんでね」
納得いかないのか男たちは立ち去ろうとせず、あろうことか──
「マジかー。そりゃ残念だな。じゃあ予定変更ということで」朱華さんに拳銃を向けてきた。「ここで死んでくれ。ポルコさんの玉を潰した落とし前は、あんたのタマを取ることでつけさせてもらう」
もう一人、マッシュヘアの男が口を開いた。
「楽しんだ後で始末しようと思ったんすけどね。もったいないことしたよ、アンタは。俺らの誘いに乗ってたら少しは長生きできたのにさ。ま、そもそも麒麟組にちょっかいかけた時点で詰んでんだけどね」
……急展開過ぎるだろ。
男が構えた拳銃、その標準は朱華さんの眉間を捉えている。
ポルコ。路地裏で僕に迫り、朱華さんに股間を蹴られた巨漢が、たしかそんな名前で呼ばれていた。あの見た目からカタギじゃないと踏んでいたが、本当にマフィアの構成員だったとは。それよりどうすんだこの状況。いつの間にか僕ら以外の客みんないなくなってるし。
「なんかキリン組って幼稚園のクラス名みたいだね」
おい状況わかってんのか。……僕も同じこと思ったけどさ。
「おちょくってんじゃねぇぞ!」
男が怒鳴る。しかし動じない朱華さん。僕の後頭部に手を当てながら、耳元でこう囁いてくる。
「まずいことになった」
「見りゃわかりますよ……」
「いや、正面の二人は関係ない」
「関係ない?」銃口向けられてるのに?
「私がストーカーに首を狙われてるって話をしたの覚えてる?」
「覚えてますけど……え、冗談なんですよねその話?」
「それが残念ながら──おっと危ない」
と、朱華さんが僕の頭を強引に前倒しして姿勢を屈めさせる。次の刹那、その頭上を衝撃波が走り抜けたかと思えば、轟くような大音響に鼓膜を破壊され、耳鳴りに襲われる。間近で落雷があったのかと錯覚した。聴力が元に戻ったころ、僕はおそるおそる瞼を開け、そして絶句。
ゲームセンター内に存在するあらゆるものが横に両断──尽く破壊されていた。それもちょうど同じ高さで。稲刈り後の田んぼのように綺麗な一直線で。朱華さんの助けがなければ、今ごろ僕の胴体は泣き別れになっていたのではないかと直感する。非現実的な発想。普通そんなことは起きない。自分は、悪い夢でも見ているんじゃないのか。
「あっ」
視界の端に赤いものを確認にした。地面に広がった赤い液体。その軌跡を目で追おうとしたところ、視界を何かで覆われる。朱華さんの手だった。
「見てもつまんないよ」
激しく脈打つ心臓の鼓動を感じながら、僕はうなづいた。
「とりあえず、事が収まるまでそこらへんの物陰に隠れてといて」
言われるがまま、適当な場所──バス型のキッズライド──に身をひそめる。狭い。さすがに中学生にもになると窮屈に感じる。
「誰に断ってあーしらの縄張りに侵入してんだァ?」
無縁であるはずの静寂と暗闇に包まれた店内で、そんな少女の声が響きわたった。
コツン、コツン、と靴音が徐々に近づいてくる。この惨状を物ともしない、余裕の足取り。
「ひさしぶりだね、黒熊。……身長伸びた?」
声の主に対して朱華さんが語りかけると、
「昨夜会ったばっかだろうが、朱華。ブチ殺すぞ」
暗がりから姿を現したのは、こんがり褐色肌の小柄なメイドさんだった。耳かけの黒髪ショートヘア、棘付きの首輪、耳にはたくさんのピアスを通し、ギロリと鋭い切れ長の目は山吹色。刺々しく近寄りがたい印象はあるが、ミニスカメイド服のおかげでそこに愛らしさが加わって、総合的に良い感じになっている。クールな顔立ちは少年のようで、しかしその華奢な体つきは女子のそれだ。
「懲りずによく吠えるねキミは。私に手も足も出ないくせに」
「そういうテメェは手も足も無いけどな。……つかその体、胸のサイズおかし──」
「黙れ」
「死ね」
黒熊と呼ばれるメイドは、右肩で担いでいたV字の変形ギターを、床に叩きつけるように振り下ろす。そこで生じた圧力波は建物全体を揺らし、天井の照明器具を破砕する。でたらめな威力だ。人間の域を軽く超えている。どうなってんだよあれ。
「……そーいやさっき、見慣れねぇガキと一緒にいたよな?」
ツバメか? と、メイドが小指を立てる。ツバメとは?
「心当たりがないな。キミの見間違いじゃないのか?」
「あーしも最初そう思ったよ。一匹狼のテメェが人間と群れるわけねェ、そんなのありえねェ、ってな。でも見ちまったんだよ。中学生くらいのガキと手ぇ繋いで歩いてんのをよ」
もしかして僕の話してます?
「仮に連れがいたとして、その子をどうするつもりなのかな」
「こま切れにした後、東京湾に肉塊ばら撒いてドチザメの餌にすんだよ」
「……それはアイツの指示?」
おう、と肯定するメイド。
「テメェに近づく異性は全員皆殺しにしろだとさ」
僕はその異性の中に含まれているようだった。ぐるぐると歪む視界。急な眩暈に襲われる。吐き気までしてきた。くそっ、どうして僕がこんな目に遭わなきゃいけないんだよ。
苦い顔で、朱華さんが舌を打った。
「……あのクレイジーサイコレズめ、嫌がらせのつもりか」
後頭部を掻きながら、ぶっきらぼうにメイドが言った。
「つーわけで、さっさとガキの居場所吐けや。そしたら今日のとこは見逃してやる」
「ここだ」挑発するように親指を下げる朱華さん。「この下に埋めて隠した。自分で掘って探しなよ。犬みたいに」
「つくならもうちょいマシな嘘つけやカス。……もう一度聞くぞ。どこに、隠した?」
メイドが猛獣のような眼光で朱華さんを射る。殺気が空気を介してビリビリ伝わってきた。朱華さんは飄々とした態度で、自らに向けられた殺意を軽くあしらう。
「まず第一に、私は何も知らない。第二に、そもそもキミに質問権はない。第三に──」
朱華さんが指を一本立てる。ピン、と中指を。
「私より弱いくせに偉がるんじゃないよ、メスガキ」
「──その首もいで手玉にしてやる、このクソ女がァ!」
その言葉が合図だった。
先に動き出したのはメイド。朱華さんの顔面を目掛けてギターをフルスイングする。逡巡のない攻撃。確実に相手を死に至らしめんとしている。放たれた必殺の一撃を、朱華さんは後退して回避する。そこからグッと距離を詰め、振り切ったことで生じたメイドの隙──がら空きとなった腹部に、鞭のようなミドルキックを叩き込んだ。同時に聞こえてきたのは、メキメキと骨の砕ける音。メイドの身体は宙に浮き、そして目にも止まらぬ速さで付近の壁に激突する。「羽みたいに軽いね。おかげでよく飛んだよ」朱華さんの顔は狂気的な笑顔で満ちていた。「ダイエット中?」
壁にもたれかかりながら、メイドがギターを杖に杖に立ち上がった。ぜぇぜぇと息を切らしていたのは一時で、しばらくすると普段の呼吸を取り戻し、何事もなかったかのように回復した。彼女の表情には一切の苦悶が見られない。凄まじい再生能力だ。
「……悪ィかよ? これでも女子なんだよ一応」
「いいんじゃないの。痩せたいって思う気持ちは理解できないけどさ」
「ハッ、テメェはそりゃ痩せる必要ねーもんな。首から下が別物なんだからよ」
「言うねえ」
「そんで別物だから自分じゃ気づかねぇんだ」メイド服の袖で口元の血を拭い、ニヤリと右の口角を上げる。「ガタが来てるってことにな」
ぼとり、と朱華さんの左腕が落ち、無機質な衝突音が響く。結論からいうと、地面に伏した彼女の上肢は人間のものではなかった。いや、人工的に作り出したという意味では、人間のものだろう。ここにきて僕は、手を握ったときに覚えたあの違和感の正体に気づくのだった。
朱華さんが床に落ちた腕を見下ろす。
「残念。お気に入りの素体だったのに」
徐々に彼女の顔色が、怒りの感情で染められていくのが見て取れた。途端に僕の手足が震えだす。生命の危機を肌で感じ取った。僕は今、朱華さんのことが恐ろしくてたまらない。
「んなの知るかァ!」再度、メイドが攻撃を仕掛けた。得物のギターを振りかぶり、地を蹴って、標的へと急速に接近。
不動の姿勢で、朱華さんは彼女を迎える。避けるそぶりはない。気怠そうに「フゥー……」と息を吐いて、小声でごにょごにょと呪文のようなものを唱えると、手のひらの上に火球が出現する。「爆ぜろ」虚空に突如現れた直径一〇センチほどの火の玉、向かってくるメイドに照準を合わせて、彼女はそれを中指で弾く。ピカァァッッ。瞬間、辺り一面が熱と光に包まれた。
(死んだわ、これ)
僕は自分の死を悟った。
***
「死んだわりには綺麗な顔して──あ、やっと起きた」
目を覚ますと、そこには朱華さんの顔があった。
「おはよう、虎太郎。よく生きてたね」
顔だけが、あった。正確には首から上だけが。
「うああああああああああああああああああああ!!」
衝撃的な光景を前に、絶叫。僕は気を失ってしまった。
以降、これと似たような流れを十回ばかり繰り返したのち、僕は朱華さん(生首)に動じない鋼の精神を獲得、自らの置かれた現状を把握するに至る。
換気扇の稼働音が耳をつんざき、ダクトから漂う料理の匂いが空腹を刺激する。ここは、居酒屋と中華料理屋に挟まれた、人通りのない窮屈な路地裏。見上げると、電線が蜂の巣のように入り組んでいるのがわかる。先ほどの戦闘の中、気を失った僕を朱華さんがここまで運んだという。ちなみに首と胴体が泣き別れになっているが命に別状はないらしい。……不本意ながら、そうであると納得するしかなかった。
横に視線をずらすと、そこには半壊状態で置き捨てられた朱華さんの身体があった。見た限り、球体関節人形に似たつくりをしている。
(……まさか、首から下が全部作り物だったなんて。義手ならぬ義体ってやつか)
遠くから、消防車やパトカーのサイレンが聞こえた。目的の現場はおそらく、ついさっきまで僕らがいたゲームセンターだろう。SNSのタイムラインには、倒壊・全焼したその建物と周りの様子を撮影した動画が、いくつも投稿されていた。中には『またガス爆発か?』というコメントも。まさか、と一瞬、良からぬ考えが頭に浮かんできて、とっさに、ある言葉が口から出かかった。それをためらったのは、精神の安寧のため。そしてなによりも僕と彼女の間に軋轢を生じさせないためだった。
「……なんだったんですか、さっきのアレは」
「アレって?」朱華さんが小首を傾げると、そのまま横にこてんと倒れて側頭部をアスファルトにぶつけてしまう。「あ痛っ」
僕はおそるおそる横倒れになった彼女の頭を持ち上げた。首の断面を下に、地面に対して垂直に置く。そしたら「地面汚いから抱えといてくれない?」と要求してきたので、そっと包み込むように生首を抱きかかえた。ぽすん、と胸骨のあたりに後頭部が当たった。手のひらに吸いつく彼女の肌は燃えるように熱い。これでも一応生きているのだと実感する。同時に、この狂気的な状況に慣れつつある自分がだんだん恐ろしくなってきた。
「朱華さんって何者なんですか? それにさっきのメイドさんも一体……」
そんな僕の問いに答えるべきかしばらく逡巡して、朱華さんは重い口を開いた。
冗談だと思って聞いてくれ、そう前置きして始めた彼女の話は、つくづく浮世離れしていた。彼女が言うには、自分は不老不死の怪物で、実年齢は四桁を超えるという。襲撃してきたメイドの名は『黒熊(くろくま)』といい、彼女が仕える『姫』の命令で、朱華さんの首を狙っているらしい。そしてその『姫』というのが、数年前に朱華さんの肉体を奪った張本人であり、また、元カノを自称するストーカーでもあった。と、ツッコミどころはままあるが、とりあえず朱華さんと『姫』&黒熊さんは敵対しあっている、と考えていいだろう。
こんな得体の知れないものと、これ以上関わるべきではないと思う。実際、僕は戦いに巻き込まれて死にかけた。幸い僕は無傷で済んだけど、被害に遭った人は他にもいる。その事実から目を背けてはいけない。許されないことだから。だけど……。
ピピピピッ。そのときちょうどスマホのタイマーが鳴った。デート終了時刻に作動するよう、あらかじめセットしていたやつだ。
「どうやらこれで終わりのようだね。期待してなかったわりには楽しめたよ。ありがとう」起伏のない声で朱華さんが言う。「今日のことは、貴重な体験として記憶に刻んでおくよ。……そしてキミは、悪い夢でも見たと思って忘れてくれ。もう二度と会うことも──」
「連絡先っ! 交換してくれませんかっ!」
「この期に及んでキミは何を言って──」
「僕の身を案じて『会わない』っていうのなら、それは余計なお世話ですよ」
「いいから私の話を聞け──」
「僕は朱華さんが不死身の怪物でも、朱華さんと一緒にいて危ない目にあっても構いません」
「ああもういい加減に──」
「それにまだ……プリクラ、撮ってないじゃないですか」
「っ……」
「今さら僕に気遣いとか思いやりとか、そういうのはいりません。僕は朱華さんにとっての都合の良い相手でいい。むしろ、そうありたいと思ってます」
朱華さんの言葉を片っ端から遮っていく。彼女の正体を知ってもなお、僕は彼女との契約にこだわった。それが最善の選択でないことは承知している。
もしかすると他に良い方法があったかもしれない。でも僕は馬鹿だから気の利いた策なんて思いつかない。
待てば良い相手が見つかるかもしれない。でもそんな都合の良いことはきっと起こらない。だから──。
「──僕が、朱華さんの手足になります」
たとえ、この先にどんな苦難が待ち受けようと、一秒でも早く、一円でも多く稼げるのなら、僕は彼女のすべてを受け止めてみせる。
「だから、えっと、ようは……僕の後援者(ママ)になってほしいと、つまりそういうわけでしてっ」我に返ると急に顔が火照りだしてきた。格好つけてるのが恥ずかしくなってくる。でもここで日和ったら負けだ。言え、言うんだ。「ぼ、僕じゃダメですかねっ?」
念押しに、朱華さんの頭を持ち上げて目と目を合わせ──ようとしたら、「やめろっ」と視線を横に逸らされた。顔が真っ赤に染まっている。彼女の肌に触れる手のひらが、焼けるように熱い。怒らせちゃったか?
「……こ、後悔しても知らないからね」
むすっと口を曲げる朱華さん。かくして契約は成立した。
まさかこれが、人類の命運をかけた大波乱を巻き起こすきっかけになろうとは、このときの僕は知るよしもなかった。
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