第3話 ママ活はじめました
ビル群の間に埋もれるように広がる歌舞伎町の街並みは、無数のネオンが光り輝き、夜の活気に満ちていた。ホストやキャッチが路上で声をかけ、足早に過ぎていく通行人に笑みを投げかける。
途切れない人の波、耳をつんざく喧騒、眼球を焼くようにまばゆい街の灯りは、多摩地区育ちには刺激が強い。同じ東京なのに西と東でどうしてこんなに差がついたのだろうか。
馴染みのない景色に目を奪われていると、メリィさんから電話が。
『待ち合わせ時間まで残り二〇分になりましたわ。もう心の準備は済みまして?』
「はい、大丈夫です」ホントはあまり大丈夫じゃないですけど。
『それは安心ですわ。あと、先ほどメールでお送りしたマニュアルの内容は把握していますか? ご不安でしたら時間一杯まで見直すことをおすすめします』
「はい」マニュアルってなんだっけ? ……ああ思い出した、アレのことね。
『他にご質問は?』
「とくにないです」多分あるけど緊張しすぎて思い浮かびません。
『ふふ、これで準備万端ですわね。幸運を祈っていますわ』
「うちに帰りたい……」はい、頑張ります。
『心の声とセリフが逆になってますわよ』
「えっ」
『二二時にお迎えにあがりますので。新宿アルタ前でお待ちくださいませ──』
通話はそこで終了した。途端に心細くなった。さながら戦場にひとり取り残された兵士のような気分。都会の喧騒は銃声みたいに聞こえる。ドッドッドッ、と心臓の鼓動が急加速するのを感じた。
不安を紛らわすつもりで、自分のスマホにダウンロードしておいたPDFデータを閲覧する。メリィさんが言及した『マニュアル』とは、パパ活・ママ活の攻略法が記されたこの文書データのことだ。俺の武器はこれだけ。あとはこの身一つで相手と渡り合わなければならない。経験の差も考慮すれば俺が劣勢なのは明らかだ。苦戦を強いられるだろう。
待ち合わせ場所へ向かっていると、雑居ビルの焼け跡が目に入る。爆発の発生元となった一棟は全壊、隣接する二棟は半壊状態になっており、その周辺には立ち入りを禁止するためのバリケードテープが張られていて、今まさに警察と消防が現場検証をしているところだった。朝のニュースで知ったことだが、昨晩ここで爆発事故が起きたらしい。
今月、新宿で起きた爆発事故はこれで四件目だ。四件とも、可燃性ガスへの引火が原因だと報道されているが、世間では疑問の声が上がっている。事故ではなく、事件ではないのかと。
新宿区の治安は年々悪化の一途をたどっている。中南米と比べればまだマシだが、それでも安全とは言い難い。薬物、暴行、強盗、誘拐、殺人等といった重犯罪の認知件数は今年だけで既に5千件を超えており、その治安の悪さは日本中の常識にまでなっていた。
ふと、大型連休前に開かれたホームルームでの出来事を思い出した。
『酒も煙草も隠れてやる分には大いに結構、お前らの好きにしな。……だがこれだけは先生と約束しろ。新宿には絶対遊びに行くな。いいな?』と革ジャン×白衣が似合う女担任はクラスのみんなにそう忠告した。先生の表情はいつになく真剣だった。普段のだらしない態度はすべて演技だったんじゃないかと、そう錯覚するほどに。
そして先生はこうも言った。
『ちなみに約束破った奴はアタシと結婚な。5年後、アラフォーの女教師と式挙げたい物好きはぜひ新宿を楽しんでくれ。とっ捕まえて婚約届に印鑑押させてやる』
ちょうどそのとき、先生と目があってドキッとした。
──俺は死ぬまで新宿に行かないと決めた。
たとえ先生の忠告が無かったとしても、治安が悪い場所をあえて訪れようなんてふつう思わない。俺だって仕事じゃなかったら、こんなところには来なかった。
ほどなくして待ち合わせ場所に到着した。目の前にそびえ立つ摩天楼を見上げる。
新宿東王ビル。映画館を内包したオフィスビルで、8階のテラスに設置された怪獣のオブジェが特徴的。歌舞伎町のランドマークになっている。
あとは時間になるまでここで待つだけ。10分もすれば相手が来る、はずだった!
「……やばい、やばいやばいやばい……」
数十分経っても相手が現れない。デニムジャケットの衣嚢からスマホを取り出し、現在の時刻を確認。集合時間はもうとっくに過ぎている。
待ち合わせ場所ここであってるんだよな? それともドタキャン?
不安になったので、メリィさんに電話で問い合わせてみたところ、『問題ありませんわ。そのまま東王ビルの出入り口付近でお待ちください』という回答が返ってくる。
本当に大丈夫かな。この人の言うことはどうにも信用ならない。
直接本人と連絡が取れれば楽なのだが、交際クラブのシステム上それは不可能だ。連絡先を知るには、初回のデート後に相手から直接教えてもらうしかない。そして連絡先を交換すること──つまり相手に俺のことを気に入ってもらい長期的な援助契約を結ぶことが今回の目標である。
契約が取れなかったら、次の依頼がくるまで待たないといけない。もちろんその間の収益はゼロ、ひたすら無意味な時間を過ごすことになる。返済期限まであと13日。今はたった1秒も無駄にできない状況だ。失敗は決して許されない。
「……このビル、ここ以外にも入口あるよな」
街のシンボルになるほど大きい建物だ、入り口がひとつだけとは限らない。俺が今いる場所は映画館へと続くメインエントランスで、基本的にこの付近で待ち合わせするのがセオリーらしいのだが、相手が土地勘に疎い場合、別の出入り口で待っている可能性は考えられる。
念のために一度、ビルの周辺を見回ることにした。ビルを一周するだけならそこまで時間もかからない。早歩きすれば1分以内で済ませられる。その間にすれ違いになる可能性もあるが、向こうはすでに大遅刻かましてるわけだし、責められる筋合いはないはず。
「さっきの娘より楽しめそうだ。ほどよく引き締まった身体、その怯えた表情。実にたまらん……」
俺は路地裏で壁ドンされている。相手はぶくぶくと肥えた巨漢だ。
彼の太い腕には仏のタトゥーが刻まれており、豚のような顔には無数の切り傷が見られた。カタギでないことは明らかだった。男はハアハアと息を荒げながら顔を近づけてくる。鼻毛見えてるし息は臭ぇし。こんな男に初めてを奪われるとか最悪すぎる。
──どうしてこうなった。
さかのぼること数分前。
マッチング相手を探すためにビルの周辺を歩いているときだった。俺は、雑居ビルの路地裏で少女が大男に迫られる場面を目撃した。見るからに強引な感じだったので警察に通報──しかし事件の場所と男の特徴を伝えるなり、応対した警察官はがらりと態度を急変させる。警察官は冷めた口調で『いたずら電話はやめてくれないかな』と俺に言い、一方的に電話を切った。理由はわからない。しかしその背景には何か並々ならぬ事情があるのだと悟った。これが噂に聞く東横(東王ビルディング横)界隈、なんて無法地帯だ。
通行人は見て見ぬふりをして、少女を助けようとしない。
この状況を変えるには、どうすればいいのかを必死に考える。
そんなとき、少女と目が合った。潤んだ瞳で、俺に助けを求めている。
──気づけば俺は二人の間に割って入っていた。
『嫌がってるじゃないですか!』
俺は男に叫んだ。男は動揺して少女から手を離す。その隙に少女は逃走。彼女の後を追うように俺もその場を去ろうとしたが、勢いあまって転倒してしまい──そして現在に至る。自分で言うのもなんだが、情けない。
「俺が欲しくてたまらなくなるぐらい、俺という存在を、みっちりその体に教え込んでやる。大人の勉強会だ。教科書もノートも必要ない、全コマ実習の保健体育。俺と君との、マンツーマン。どうだい? 唆るだろう?」
男は俺の腰に手を触れ、その感触を確かめるように撫であげた。ぞぞぞっと身体中に悪寒が走る。気持ち悪い。やめてくれよ。
助けを呼んでも誰も駆けつけてはくれない。抵抗しようにも膂力がない。状況は絶望的だった。
ひそひそ話が聞こえてくる。俺とさほど年の変わらない少年少女たちが、物陰からこちらの様子をうかがっていた。「ポルコに捕まるなんて、あの子もツイてないよねぇ」「自業自得だよ。警察も手を出せない相手に歯向かってさ」「シロ様呼んだほうがいいかな?」「今ライブ中だから呼んでも来ねぇぞ」目を合わせようとすると、ばつの悪い表情で逸らされた。誰も救いの手を差し伸べてはくれない。もう、終わりだ。身体の力を抜き、運命に身をゆだねようとしたそのときだった──
「すまない。遅刻した」
ひとりの女性に声をかけられた。落ち着いた声音に導かれるように顔を向ければ、そこには黒髪の少女がいた。一瞬、俺は彼女の美しさに魂を奪われかけた。
「集合時間までボーリングして暇を潰してたら、デートのことを忘れて没頭しちゃってね。てっきり先に帰ったのかと思ったけど……まだ待っていてくれたんだね」
赤メッシュが入った黒髪のお団子に、リング付きのエクステを通してつくったツインテール。漆黒のチャイナドレスの上に緋色のマウンテンパーカーを羽織っている。選ばれし者にのみ許される奇抜なストリートコーデだ。全体的に肌の露出は抑えられていて、スラリと伸びた脚にはニーハイソックスを、手にはレースのグローブを着用。年齢は一〇代後半といったところか。とても大人びて見える。
「私はその子に用があるんだ。──どいてくれ、三〇秒以内にね」
男のほうを見やると、心底めんどくさそうに彼女は忠告した。
ダメだ……この男を下手に刺激しちゃいけない。
「強気な娘は嫌いじゃない……が、その上から目線はいただけんな。教育してやる」
「そんなに教育が好きなら、学校の先生にでもなりなよ。向いてるよ、きっとね」
たぶん冗談のつもりで少女が提案する。
いくらなんでも教師に向かない人種すぎるだろ。
「ふざけるな。二度とやるか、あんな重労働」
まさかの元教師だった。
「悪党のくせに軟弱だな」
少女は嘲笑う。
「舐めんじゃねぇぞガキが。だいたい俺が免職食らったのもオマエみてぇに生意気なメスガキのせいで……」
男は鼻息を荒くしながら懐からナイフを取り出すと、その刃先を少女に突き付けた。
「や、やめてください。俺のことは好きにしていいっすから、お姉さんは見逃してあげてください……」
自分ひとりのために無関係の彼女を巻き込みたくない。
「はは、いいねぇ。こういう健気なのが唆るんだよ。オマエも見習っ──」
「三〇秒経った」
地面を蹴って一気に距離を詰めると、少女は稲妻のような速度で男の懐に飛び込み、股間を蹴り上げた。その威力は凄まじく、男の身体が空中に舞い上がり、そして地に伏した。男は白目を剥いて気絶した。
「……嫌な感触がしたな」
理解が追いつかない。我が目を疑った。
あの巨漢を倒したのか? こんな華奢な女の子が?
まるで一仕事終えたみたいに、ふぅーっと息を吐くと、彼女がこちらに近づいてくる。その足取りはフラフラしていて、強風が吹けばたちまち転倒しそうなほど心もとない。
「キミ、『虎太郎』だよね?」
「えっ? ……あっ、虎太郎って俺のことか……」
「違うの?」
「いえっ、虎太郎で合ってます!」
色々ありすぎて設定を忘れかけていたが、今の俺は『虎介』ではなく『虎太郎』である。虎太郎というのはマッチングサービスで使用している偽名で、メリィさんから、個人情報を守るためにデート中もそう名乗るように指示されている。本名を少しもじっただけなのは呼ばれた際に反応しやすいからだ。
そして彼女がこの名前を知っているということは。
「もしかして、『朱華』さんですか?」
『朱華』。それは待ち合わせ場所に来るはずだった女の名前。
「いかにも。私は、朱華」彼岸花のように鮮やかな緋眼が俺を捉える。「今夜キミを指名したものだ」
彼女が今回のデート相手らしかった。最初に浮かんだのは意外だなという感想。こんなにも若くて綺麗な女性がマッチングサービスを利用しているなんて思わなかった。わざわざサイトで探さなくたって、相手はいくらでも見つかるだろうに……。
「じゃあ集まったところでさっそく遊びに──と行きたいところだが、ひとつ確認しておきたいことがあるんだ」
「は、はい」
「虎太郎」ナチュラルに呼び捨てされた……。「両手でピースしてくれ」
「? わかりました?」
疑問符を頭に浮かべつつ、とりあえず指示どおりにダブルピースを披露する。
……あれ? 前にも似たようなことがあったような……。
朱華さんは右手のスマホに視線を落としながら、まるで何かと照らし合わせるように、横目で俺の顔をチラリと確認。どうやらスマホの映像と俺を見比べているようだ。
「これってなんの儀式ですか?」
「プロフ写真と見比べてる。本人かどうか、この目でちゃんと確認しておかないとね」
「あー、なるほどですね」
プロフィール写真なんて撮ったっけ? それとさっきのピースはなんだったの?
というか、指名される側だけ顔写真を開示されるのは不公平な気がするのだが。
「よし、確認は終わった。さあ遊びに行こうか」
──ガチャリ。ふと、首元に違和感を覚えたかと思えば、首輪を装着されたことに気づく。それはリードと一体になった代物であり、持ち手は朱華さんの手中にあった。
「これは一体……」
「首輪だよ。ドンキで買ったやつ」
「ですよね? 首輪ですよねこれ?」それは見てわかる。聞きたいのは別のことで……。
「なにか問題でも?」
問題しかないんですよ。
「や、なんで付けたのかなーと思いまして……」
顎に手を当て、しばらく思案すると朱華さんは、
「迷子になったら困るじゃないか?」ぐえっ。リードが引っ張られ首が締まる。なんて乱暴な人なんだ。「だから手綱はしっかり握っておかないとね」
得意げな顔で、それが常識だといわんばかりに彼女は説明する。
こいつはヤベー女だと確信した。
「さっきみたいな変態に絡まれないためにも、さ」
なるほどそれは頼もしい。じゃあさっそくなんですけど――ちょうど今、初対面の相手に首輪とリードをつけてくる変態に絡まれてるのでどうにかしてくれませんかね?
……いやホント頼むから勘弁してほしい。
それにこんな醜態を大衆の目に晒すのは公共の福祉とやらに反するだろ。ああもうてか恥ずかしすぎて死にそう。さっきから通行人に写真撮られてるし。頭が沸騰しそうだよ。
「あの、お気遣いは嬉しいんすけど、外してもらえませんか?」
「せっかく似合ってるのに」
こんなに嬉しくない『似合ってる』は初めてだ。
「でも恥ずかしいのはちょっと……」
「そっか」
つまらなそうに嘆息する朱華さん。
まずい。機嫌を損ねてしまった。
……くそっ、なにやってんだ、バカ野郎。
今回の目標は愛人契約を結ぶことで、それを達成するためには好感度を稼ぐ必要がある。……最初からわかっていたことじゃないか。その過程でなんらかの辱めを受けることになるのは。恥を捨てなければ、朱華さんを満足させることはできない。朱華さんを満足させて契約を結ばなければ、大金は手に入らない。心猫を……妹を、守れない。
覚悟を決めろ、日高虎介。
「なんて冗談ですよ! むしろ自分こういうの大好きで──」
羞恥心をかなぐり捨て、コンクリートの地面に手をつき四つん這いになる。
もうこうなりゃ自棄糞だ!
「朱華さんがお望みなら……い、犬の真似だってやりますワン!」
今の俺は、渋谷のハチ公ならぬ新宿のトラ公だ。
「お、おお……」
朱華さんは苦笑した。想定した反応と違う。
「期待してるところ悪いんだけど、そこまで要求するつもりないから……」
哀れむような目で見下ろされる。
「なんか、ごめんね?」
引いてんじゃねぇよ。俺の覚悟返せワン。
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