第2話 猫みたいな義理の妹
キッチンの窓から差し込む朝日に包まれながら、俺は朝食の準備に取りかかる。
前日の夜に仕込んでおいた、卵液がたっぷり染み込んだ食パンを、弱火のフライパンの上にのせる。じゅわっと小気味よい音が台所に響いた。それから蓋をして弱火でじっくり焼きあげると、ぷるぷるのフレンチトーストが完成。甘い香りが台所に充満していく。
「今日はシナモン風味にしてみた」
「ん……」
すっかり広くなったダイニングテーブルに、フレンチトーストが載った皿を置く。心猫はそれを自分の席にたぐり寄せると、すかさずフォークとナイフを手に取り、「いただきます」と呟いてから食べはじめた。朝からひと風呂浴びたのか。妹の髪と肌は湿っていて、ぶかぶかの白いTシャツが濡れた肌に吸いついていた。そのせいで胸元を押し上げる膨らみが強調されて目のやり場に困る。もし血がつながっていれば、こんなふうに意識することもなかったんだろうか、と馬鹿なことを思う。
「朝からお風呂入ったの?」
「ん、昨日入りそびれたから。お兄ぃのせいで」
「えー、俺のせい? 身に覚えないんだけど、なんかした?」
「ふんっ」
唇をつんと尖らせ、そっぽ向く心猫。兄ちゃん、なにか怒らせるようなことしたか?
思春期女子の扱いはなかなか難しい。家庭科の授業とかで教えてくれないかな、年頃の女子との接し方。そしたら真面目に授業受けるんだけど。
「シャツ一枚じゃ湯冷めしちゃうぞ。髪もちゃんと乾かさないと──」
「うざっ。そんくらい言われなくても分かるし。子供扱いしないでよ」
ご機嫌斜めな様子でフレンチトーストをぱくぱくと頬張る妹。膨らんだほっぺはリスを彷彿とさせる。興味本位でつついたら、猫みたいに爪を立てて威嚇してくるんだろうなとか、むくれてても毎度美味しそうに食べてくれるよなとか、そんなどうでもいいことを考えながら、俺は口元がにやけそうになるのを必死に堪える。
心猫は俺の一個下で現在小学六年生。ただし背丈は兄を優に超えており、十二歳の時点でなんと一七二センチもある。最近は他の発育もよろしいようで、女性への成長を視覚的に感じる。
「あのさぁ」
皿の上にフォークとナイフを置くと、歯切れの悪い口調で心猫がたずねる。
「……お兄ぃ、なんで昨日帰り遅かったの?」
眉間にしわを寄せ、猫のように吊り上がった目で睨みつけてくる。風呂上がりのせいか。妹の顔は赤らんでいた。
「部活が長引いたんだよね。しかも帰りにみんなでファミレス寄ろうってことになってさ。それで遅くなった感じ。……連絡しなくてごめん」
言ったことは全部でたらめだ。借金の件を心猫が知る必要はない。
「なんで謝んの。べつに怒ってないし。遅くなった理由聞いただけじゃん」
「ごめん、次からはちゃんと連絡するから」
「チッ。てゆーか部活入ったの? 何部?」
舌打ちされた。これで怒ってないは無理があるぞ。
帰りが遅くても怪しまれない部活ってあったかな。
「……ああ、えっと……夜間散歩部?」
苦し紛れに答えると、心猫が訝しむような目を向けてきた。
「えっ、なにそれどういう部活? てかなんで疑問形なの?」
「名前のとおりだよ。夜に学校の周辺を散歩したりする部活だ」
「なんか面白くなさそう。散歩以外にやることないの?」
散歩の他にやること……うん、無いな。だって学校の周り住宅地だし。
「楽しいの? 帰宅部でよくない?」
「いや、わりと楽しいよ。それに夜の散歩にはリラックス効果があるしね」
そんな思ってもないことを嬉々として語ると、
「……私は、つまんないんだけど」
拗ねたように目を伏せて、ぼそりと呟く心猫。
たぶん何気なく口にしたであろう妹の言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
……そりゃ心猫にしてみれば面白くないよな。ごめんな。兄ちゃんのせいで辛い思いさせて。
俺はお茶を濁すつもりで、こほんと咳払いする。
「……まあ、とにかくそういうわけだから。これからも帰り遅くなると思う」
心猫はしぶしぶ納得した感じで、
「あっそ。ちなみに今日は? また遅くなんの?」
「うん」
夜間散歩部に入ったというのはもちろん嘘。そもそも、そんな部活は実在していない。
でも帰りが遅くなるというのは事実。なぜなら今晩、俺は仕事に出掛けるからだ。
汚れてもないテーブルをふきんで拭きながら、昨日のことを振り返る。
***
「援助交際……『パパ活』や『ママ活』といった言葉はご存じですか?」
どうしてそんなことを聞くんだろう、と思った。
「パパ活だったら聞いたことあります。うちのクラスの女子が、といっても数人だけど、やってるらしくて……」
「中学生でパパ活、ですか」
まあ今どき珍しくもありませんわね、とメリィさんが独りごちた。
「先ほど『聞いたことがある』とおっしゃていましたが、パパ活の内容についてはご存じですか?」
俺は首を横に振る。
「どういうことしてるかは詳しく知らないっすね。せいぜい『おじさんとデートしてお小遣いをもらう』ってことぐらいしか……」
「その認識でまず間違いありませんわ。念のために補足しておきますと、パパ活は一般的には女性が年上の男性から謝礼を受け取り、食事に行ったり、疑似的な男女交際を行うことを指します。ちなみにこれを男女を逆転させたものがママ活になりますわ」
「なるほど……」
クラスの女子はそんなことをしていたのか。お金のために好きでもない相手とデートして、付き合って……。皮肉抜きに感心してしまう。だけど、上手く言葉にはできないけれど、なんか嫌だな、とも思った。直感的に、俺はその行為を認めたくなかった。もし心猫がパパ活をやるなんて言いだしたときには全力で止めるだろう。
「虎助様におすすめしたい仕事があります」
話の流れから次の展開は予想できた。できてしまった。
「この度、『ゼーレの郷里』は事業拡大にあたって、パパ活・ママ活の仲介サービス……もとい、交際クラブを新たに立ち上げました」
メリィさんは続ける。
「虎介様には本サービスに登録していただき、依頼があった相手とデートしてもらいます」
女性経験皆無の男子中学生には酷な仕事である。ともあれ、仕事の内容は理解した。ただひとつだけ、どうしても気になる点がある。
「それだけで稼げるんですか? 二週間で、一〇〇〇万円も。クラスの女子が会話してるのを小耳に挟んだことがありますけど、どれだけ上手くやっても一日につき三万円稼ぐのが限度、とか言ってましたよ」
「それはあくまでアマチュアの話。うちはプロです。素人とは比べ物にならないほどの収入が見込めますわ」
アマチュアとプロがあるのか。それは知らなかった。全国大会とかやってんのかな。
「他に何かご質問は?」
俺は黙って首を振った。稼げるのなら、それでいい。
美味い話には裏がある。だからこの仕事はきっと自分が想像するより遥かに過酷なものなんだろうと思う。怖いよ、正直。でもやるしかない。なんでもするって決めたから。妹を、たった一人の家族を守るために。
「言い忘れていましたが、学校には今まで通り登校してもらいますわよ」
「えっ? どうしてっすか?」
返済日まで余裕がないのに通学してる場合じゃないだろ。
「わたくしが虎介様と心猫様の後見人と相成ったからです。……といっても、わたくし未成年ですので、書類上は犬飼ということになっていますが」
「……後見人?」
「ようは保護者みたいなものですわ。とにかく、普段通り登校していただかないと裁判所から監督責任を問われて面倒なことになりますので、そこのところ、よろしく頼みますわよ」
保護者? メリィさんと犬飼さんが? 死んでも嫌なんだけど……。
「『パパ』って呼んでええよ、虎介クン」
犬飼さんが俺の肩に手を置く。
「わたくしのことはぜひ『お姉様』と」メリィさんはどや顔で。「シスターだけに」
絶対に呼んでやるものか。俺の家族は妹の心猫だけだ。父も姉も必要ないのだ。
メリィさんからの話は以上だった。その夜は、例のセダンで送ってもらい帰宅した。自宅のあるアパートに到着して車を降りるとき、メリィさんが俺を呼び止めた。
「つい先ほど、一件のオファーがありました」
やけに早いな。陰謀めいた早さだ。きっとなにか裏がある。
「さっそく明日から働いてもらいますわ。夕方頃に迎えに来ますので……股間でも洗ってお待ちください」
「こ、股間……」
明日の我が身に起きる展開を想起して、血の気が引いた。
***
「っ、くしゅんっ!」
心猫がくしゃみをした。湯冷めしたのかもしれない。俺は洗面室の棚からバスタオル、ドライヤー、コームを取ってくる。それから空いた皿を台所へと運び、テーブルを布巾で綺麗にする。片付けを終えると、心猫の背後に回り込む。妹はむすんとした顔でじっとしている。まるで撫でられ待ちの猫みたいだなと内心苦笑しつつ、濡れた髪をタオルで拭き、ドライヤーの温風をあて、髪の毛を櫛で丁寧に梳いてやる。許可はいらなかった。
ドライが終わると、心猫はいつもの要求を突きつけてきた。
「足。たぶん濡れてる」
足を拭け、という意味だ。俺はこの命令にだけは絶対に逆らえなかった。俺はその場でしゃがみ込むと、妹の純白な下肢にバスタオルをあてがった。
心猫は下半身不随で、自らの意志で足を動かすことができない。こうなってしまったのは俺のせいだ。
妹の足を拭くとき、いつもあの光景が頭に浮かぶ。三年前のあのとき、あの秋の日に、俺が早く気づいていれば、と思ってしまう。
「手つき……やらしい」
「そういう冗談やめて、リアクションむずいから」
「ふふ」
心猫がいじわるな笑みを浮かべる。
これは妹なりの意趣返しなのかもしれない。足が不自由になった原因は自分なのだと俺に再認識させるという意地悪なんじゃないかって。
でも、そんなことしなくたって、俺はあの日のことを決して忘れたりなんかしない。
「……チビ、ちんちくりん、短小」
「身長いじるのもやめて、傷つくからマジで」あと短小は違くないですか?
足を拭いていると、心猫は俺の髪の毛をわしゃわしゃと触ってくる。泣きじゃくる子供を慰めるみたいな手つき。こうして頭を触られるたびに、俺は惨めな気持ちになった。
「私たちこれからどうなるんだろ。母さんどころか、あいつまでいなくなって……。この先、生きていけるのかな」
兄の頭頂部を見下ろしながら淡々と妹がつぶやく。あいつとはクソ親父のこと。母さんは6年前に他界している。俺らが暮らすアパートのワンルームにはもう俺と心猫しか住んでいない。励ますつもりで「なんとかなるよ」なんて楽観的なことを言ってみたら、無言で頭をポカポカ殴られた。痛くてちょっと涙出る。
「……お兄ぃは、いなくなんないでよ」
その声は震えていたけれど、俺は無言で足を拭きつづけた。
妹と死に別れる、そんな最悪な未来を想像した。馬鹿げた妄想だ。心猫をひとりになんかさせない。まあ、もし俺が死んでも、心猫が生きてくれればそれでいいと思う。
初仕事、無事に乗り切れるといいんだが。
***
放課後の教室にて。
「女装すればワンチャンあると思うんだよ」
なんて意味不明なことを口にしたのは、クラスメイトの伊吹和馬(いぶき かずま)。和馬とは小学校からの付き合いで、日焼けした肌が似合う爽やか系サッカー少年なのだが、普段の言動が残念過ぎて女子から敬遠されているという、いわゆる残念イケメンであった。
──女装? 和馬が? ……無いわー。
──絶対に似合わないって。女子の対義語みたいな見た目してるし、アイツ。
──いやそれただの男子じゃね?
──女装なら虎介くんのが千兆倍似合いそう。
──わかる。てかデフォで可愛いし。
先ほどの発言を聞きつけてか、教室中の女子が軽蔑するような視線を和馬に向ける。何人か俺のことを噂しててるような気もするが、きっと聞き間違いだろう。
「……女装したら何がワンチャンあんの?」
得意げな顔で和馬が答えた。
「百合天使ましろちゃんのライブを生で見れる」
百合天使ましろ。ソロで活動中の地雷系(地雷系ってなんだろう?)地下アイドルだ。彼女は自らをレズビアンであるとカミングアウトしており、女性ファン以外はファンとして認知しないという男性嫌いのアイドルとして知られている。ライブ会場は男子禁制らしく、そこで和馬は『女装すれば入場できるのでは?』という馬鹿な考えに至ったようだ。
「言っとくけどマジだぜ、マジにやるぜ俺は」
「……まあ、うん、頑張れ。お前ならいけるよ和馬」
「おう! じゃあ帰りに服とコスメ見に行こうぜ!」
「え、やだよ。さりげなく俺を巻き込むなよ」
俺はその百合天使とやらに興味はない。和馬にライブ映像を見せてもらったことがあるが、彼女、男性を嫌悪しているわりにはいかにも男受けしそうな格好をしていて少し驚いた。白や水色を基調としたジャージやパーカーの着こなしはあざと可愛くて、短いスカートから伸びる魅惑的な太ももは男どもの熱い視線を集めそうだった。惹かれてしまう気持ちはわからないでもない。
にやけながら和馬が、
「真白ちゃん、ぜってー処女だよなぁ、ふふっ」
なにを根拠にそんなことを。……女性同士ってノーカンなのかな?
「そして俺は童貞。お似合いだと思わないか?」
その理論だとお前どころか女性経験がないこの世の男全員がお似合いになるけど。
「仮に真白さんがしょっ……そうだとして、和馬のそれとは価値が違いすぎて釣り合わないと思うけど。ああもちろん和馬が下ね?」
「なんだとこの野郎。じゃあテメェのは価値あんのかよ」
帰り支度をしている女子たちがこっちを見ている。この話題そんな気になる?
──価値、ね。
俺は周囲に聞こえないくらいの声で自嘲的に答える。
「……俺のはたぶん数万円くらいじゃないかなぁ」
実際そのくらいの値段で、近いうちに俺の貞操は奪われる。もしかするとそれは今晩かもしれない。
「ぶははっ! なんっじゃそりゃあ!」
しけたこと言ってんじゃねぇよ、と和馬が笑う。
「お金に換算するもんじゃないだろ『初めて』ってのはさ。もっと自分大事にしろよな」
そんな訳わかんないこと言って馬鹿みたいに笑う和馬が、不覚にも格好よく見えて、そして自分がなんだか汚い物のように思えてしまった。いたたまれなくなって、俺は逃げるように席を立つ。もう家に帰ろう。メリィさんが迎えに来るかもしれないからな。
「そろそろ帰る。部活、頑張って」
「おう。……そういや虎介は部活入るつもりねぇの?」
「うん。勉強とか妹の介護とか色々あるしな」
「そっかぁ、それは残念だなぁ。……西武レオマリノ所属のエースストライカー様が入部してくれたら中体連で無双しまくりなんだけどなぁ?」
和馬が期待の眼差しを向けてくる。
今さら復帰したところで足手まといになるだけだし、そもそも俺に復帰する資格なんてない。期待してくれるのは嬉しいけど、その気持ちに応えてやることはできないのだ。
「俺いなくたって強ぇじゃん、うちのサッカー部」
「それは、そうだけどさ」
しばしの沈黙の後、和馬が照れ臭そうに頭を掻いた。
「……虎介がいねぇとつまんねーんだよ」
いつもみたいに茶化すわけでもなく、ただ真剣にそいつは答える。なんだか申し訳ない気持ちになって、言葉に詰まってしまう。結局、気の利いた返事は思い浮かばなくて、俺はそのまま席を離れた。
「虎助様」
⁉ 教室の扉を開けると、そこには天敵がいた。後光を背負い、修道服をまとう金の亡者。名は、メリィ・ゼーレ。彼女は今日も輝いていた。物理的に。
「お迎えにあがりましたわ」
驚きのあまり俺はその場に立ち尽くした。
クラスメイトの視線がグサグサと背中に突き刺さる。
よりによって教室まで迎えに来るやつがあるかよ……。それよりどうするこの状況。「よお」頭を抱える俺の肩に手を置いたのは親友の和馬。コイツいつの間に……。
「お前の知り合いか、色男?」
洋画じみた台詞を口にしながら、品定めするように和馬はメリィさんを凝視。「すげーマブいな」それは彼女の容姿が美しいという意味か、それとも彼女の後光のことを指しているのだろうか。たぶん両方だろうな、と思う。メリィさんは二重の意味でマブい。
「で、どういう関係だよ?」
どう答えたものか。本当のことを打ち明けるのはまずいし、不本意だがここは『義理の姉』とか言って適当に誤魔化しておくか。メリィさん、自分のことを姉と呼んでくれとか言ってたし。
「義理の姉なんだ──」
「テメェ!」
瞳に怒気を宿した和馬が、俺の両肩を掴んで揺すってくる。
「義理の妹だけじゃ飽き足らず姉まで作りやがったのか! しかもシスターってなんだそれエロすぎか! くそっ、俺も寝る前に聖書の読み聞かせしてもらいてぇ! お前ばっかずるい! なんで俺ん家には来ないんだ! 一人っ子辛ぇよぉ!」
「ばっ、和馬、やめっ、やめろ、落ち着けっ……」
義理の姉妹を欲しがるのは結構だが、その対価としてお前の両親は離婚することになるんだぞ? それでもいいのか?
「ね、姉ちゃんからも説明してよ」うわ、うっかり姉ちゃんなんて言っちゃったよ最悪。
メリィさんは笑顔で俺たちのことを見守っている。
「こら、虎介。わたくしのことは『お姉様』でしょ?」
こら、あんたがふざけたら収拾つかなくなるだろ。
それからしばらくして、和馬がやっと正気を取り戻したかと思えば今度は、
「虎介君のお姉様」教室の床に片膝をつき、メリィさんに右手を差し出した。今なんで俺のこと君付けしたの?「初対面でこんなこと言うのもなんですが──俺と付き合ってください」
まじか。相手が美少女なら見境なしかよ。和馬、お前が誰を好きになろうが自由だが、この人だけはやめておいたほうがいいぞ。人生めちゃくちゃにされるから。
あらあら、とメリィさんは微笑む。告白されたわりに冷静な反応だ。
「お気持ちは有難いのですが、わたくし、総資産50億ドル未満の方は異性として見れませんの。長者番付にランクインしてから出直して来てくださいまし」無茶言うな。
そんなメリィさんの返事を聞いても和馬は退かない。
「大事なのはお金じゃないと思います。大事なのは愛です。だって愛は──お金じゃ買えない!」
「しかし愛とやらではブガッティの新車は買えませんわ」
「ブ、ブガッティ……」和馬の顔が引きつる。「それってフェラーリより高いっすか?」
「車種にもよりますが、フェラーリの三倍は高価かと」
「ブ、ブガッティ……!」
打てど響かず。彼女に感情論は通用しなかった。膝から崩れ落ちる和馬。親友の、もう何度目かもわからない失恋の瞬間を目の当たりにした。
「ですが、その心意気にはわたくし感銘を受けましたわ」
メリィさんはその場にしゃがみ込むと、放心中の和馬の肩に優しく手を置いた。どういうつもりだ。「お友達からでよければ、ぜひ」そう彼女が声をかけると、和馬がガバっと顔を上げた。失恋少年は瞳の奥の輝きを取り戻し、「は、はい!」そして涙を流した。単純すぎてこっちも泣けてくる。
「あなた、お名前は?」
「伊吹和馬っていいます!」
「いぶきかずま様ですね。……ちなみに、お名前はなんと書くのでしょうか?」メリィさんが懐からB5サイズの紙を取り出す。「よければこの紙に書いていただけませんか?」
「書きます書きます、百枚でも千枚でも!」
「ふふ、ではここにお名前を記入してくださいまし」
ん? 俺はその用紙を注視し──そこに『借用書』と記載されているのを確認した。このシスター正気かよっ! 和馬が気づかずサインしそうになったので、すぐさま紙を取り上げてビリビリに破り捨てる。……ふぅ危ない、ギリギリセーフ。もう少し遅ければ和馬と借金コンビを結成するところだった。って──
「俺の友だち借金漬けにしないでくれますか⁉」
なんのことでしょう、とあざとく首をかしげるメリィさん。この状況を呑み込めず呆然としている和馬。床に散らばった紙片が廊下から吹き込む風にあおられ、静寂に包まれた教室に春の夕日が差し込む。そのとき教室に入ってきたひとりの女子生徒は、『え、なにこの気まずい空気』といわんばかりの困惑の色を浮かべて、そっと教室の扉を閉めた。チャイムが鳴る。気のせいか、それはいつもより大きく聞こえた。クラスメイトたちが真顔でこちらをじっと見ている。
「……お、お騒がせしました」
俺はみんなの前で頭を下げた。なぜだか無性に死にたくなった。
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