第9話『ここで行かなきゃ、一生後悔する』

暗く、重い世界で俺は見えない何かに押しつぶされそうになりながら、もがいていた。


そして、そんな世界で微かに、淡く光る何かを見つけ、それを、掴んだ。


「っ!」


「お、おきた、おきたよっ、おねえちゃん」


「おじさん! おにいさんがおきたって!」


「そうか!! 運転手の方もとりあえずは大丈夫そうだが、どちらにしても最悪な状況だな。救急車はまだか!」


俺は、何が何だかよく分からない状況に動揺していたが、今がどんな状況かを思い出し、起き上がろうとした。


しかし、全身が痛く、上手く動くことが出来ない。


「き、君! 動いちゃいかん!!」


「行かなきゃ、いけない所がある」


「は、はぁ!? 馬鹿を言うな! 今自分がどんな状態か分かっているのか!」


「分かりませんよ。でも、ここで行かなきゃ、一生後悔する」


「死ぬかもしれないんだぞ!!」


「それでも、明日を呑気に生きているよりも、今この時にしか出来ない事なんだ」


先輩が、待っている。


ただ絶望して、死を受け入れて、終わりを待っているだけの先輩に、抗う気持ちを。


届ける!!!


俺は痛みを無視して立ち上がった。


そして、試合会場へ向かって歩き始める。


まだそれほど時間は経っていないハズだ。まだ間に合う。


俺は一歩、一歩と会場へと足を向けた。


「あぁ、もう! どうすれば良いんだ。こっちはこっちで離れられんし!」


「おじさん! あきなが、お兄さんに付いていく!」


「君だって、事故に巻き込まれたんだ。安静にしてなさい!」


「でも、でも。このままじゃお兄さん行っちゃうよ。それに、あきなは手がちょっと痛いだけだから、だいじょうぶ」


「なら、こはるも行く。二人でいけば、あんしん」


「あー。もう!! 分かった。なら、これを持っていきなさい。何かあったら、この一番上の電話を鳴らすんだ。おじさんとお話出来るからね」


後ろの方で、知らないおじさんと、女の子たちが話しているのを聞きつつ、足を進める。


三人の会話だけじゃない。遠くで鳴っている虫の声も、風の吹く音も、風に揺れる木の葉も、全てが感じ取れる。


世界が、まるで手の中にある様だった。


後の問題は、この体がそれほど万全ではないという所だろうか。


でも、それでも、歩ける。和樹たちも待っている場所へと、俺は急いだ。


「お兄さん」


「君たち。手を繋いでくれるか?」


「うん!」


「ささえる」


「ありがとう」


俺の我儘に付き合わせて、付いてきてくれるという女の子たちが危なくない様にと、手を繋いで、俺は会場へと急いだ。




自分で考えているよりも遥かに時間が掛かり、ようやくたどり着いた会場だったが、試合は既に始まっている様だった。


選手用の入り口から入り、何故か驚いているスタッフの人に案内されて、監督の待っているベンチへと向かう。


しかし、スタッフの人には控室で待っている様にと言われ、俺は早く試合に参加したいという気持ちを抱えたまま、ただひたすらに監督を待っていた。




その間、逸る気持ちを子供たちと話す事で紛れさせる事が出来たのは幸いだったと思う。


そして、固く閉ざされていた扉が勢いよく開き、顔色の悪い監督が飛び込んできた。


「立花!!」


「監督。すみません。遅れました」


「そんな事は良い! 大丈夫なのか!? あ、あぁ、頭から血が出てるじゃないか」


「大丈夫ですよ。それで、申し訳ないんですけど、俺のユニフォーム貰えますか? 預けてましたよね?」


「何を言ってるんだ。頭から血が出てるんだぞ。服もボロボロだし。まともな状態じゃない! 今すぐ病院に行け!」


「病院に行ったら、試合に出られないでしょう? 俺は出たいんです」


「野球なら怪我が治ってからいくらでも出来るだろう!」


「それじゃ遅いんです。今日しかない。この試合しか、俺にはないんです」


「お前は、何を言ってるんだ。確かに甲子園に行くにはこの試合を勝たなきゃいけないが、それにしたって、来年もあるだろう! それにお前ならプロにだってなれるんだ。こんな所で、こんな試合で人生を捨てるな!」


「捨ててないですよ。俺は。ただ、約束を、果たしたいんです。ここで諦めて、逃げたら、一生後悔する。監督。俺は、どうやっても、何をやっても試合には出ますよ」


重く、胸の奥に積み重なった感情を糧に俺は立ち上がって、監督と視線を合わせた。


憎しみも怒りも無く、ただ強く監督を見据える。


「お願いします。この試合が終わったら、何も言いません。どうか。この試合だけ、我儘を言わせてください」


「……」


「お願いします!」


俺は頭を下げた。


その勢いで床に血が落ちるが、体はしっかりと支える。


気持ちで、感情の重しで。この場所に縫い付ける。


「はぁ。俺はやっぱり教育者に向いてないんだなと、ハッキリと分かったよ。立花」


「監督?」


「一打席だけだ。それ以上は絶対に譲ってやらん。お前をぶん殴って、気絶させてでも病院に連れてゆく。だから、一打席だけだ」


「ありがとうございます!!」


「ただし! それだけじゃない。条件もある。周りが異変に気付いたら病院だ。九回の裏までに逆転が不可能なら、打つのは無しだ。良いな」


「はい」


俺は監督に感謝を告げ、その後、監督からユニフォームを受け取る。


そして、頭に包帯を巻いてもらい、それを隠すように帽子を深くかぶった。


まだ心配そうにしている女の子たちを安心させるように笑いながら、これが終わったらすぐに病院へ行くよと告げる。


チャンスは貰えた。ならば、それを活かす。


俺に出来る事はそれだけだ。




そして少しの間待ち、再び監督が控室に現れた。


「こんなにも佐々木の実力を憎く思った事は無いよ」


「では」


「あぁ。九回表がそろそろ終わる。おそらくは無失点だろう。そして状況は0対0。最悪な事にお前の出番だ」


「分かりました」


「忘れていないとは思うが、周りが異変を感じたら即病院だからな!」


「えぇ、分かっていますよ」


俺は監督の言葉に笑顔で頷いて、ゆっくりと椅子で休めたおかげで回復した気力と体力を振り絞り、ベンチへと向かってゆく。


心配そうに付いてくる女の子たちの手を握り、安心させながら。


そして、俺は遂に眩しい光と共に、来るべき場所へと来ることが出来た。


そう。思えば、長い旅だった。


父さんと共に見たあの日の景色から、ずっと追い続けてきた世界がここにある。


夢も願いも、祈りも、その全てを体に宿して、俺は打つ。


「立花! 来るのが遅いぞ!!」


「すみません。ちょっと色々ありまして」


「まったく。ヒーローは遅れてくるって奴か!? お前、佐々木にはよく礼を言っておけよ!? 佐々木! 佐々木!! 立花が来たぞ!!」


先輩の声に、奥で顔にタオルを乗せ、体をベンチに預けていた和樹がゆっくりと起き上がった。


そして、まさに満身創痍という姿で目に涙を滲ませながら、俺の所へとふらつく体で駆け寄ってきた。


「立花先輩。来るって、信じてましたよ」


「あぁ、遅れてすまない。でも、ありがとう。みんなのお陰で、俺にも活躍の場が貰えたみたいだ」


「えぇ、状況は完璧です。九回裏。互いに無失点。後は先輩が決めるだけ。どうです? これが天才佐々木の実力ですよ」


「やっぱり、和樹は凄いな。本当に。だから、後は任せてくれ」


「お願いします。って、そういえば、そちらのお二人は?」


「あぁ、知り合いの子なんだけど、ちょっと色々あってね。少しここに居させてやってくれ」


「はい? まぁ、分かりました」


何処か戸惑う和樹をそのままに、俺は監督と目で合図し、バットを持ちながらベンチの外へと出た。


焼けつくような日差しが、湧き上がる歓声が、俺にこの場所へ帰ってきたのだと教えてくれる。


そして、いつもよりも集中力が増している事を感じながら、放送で名を呼ぶ声を聞きつつバッターボックスへと立った。


視線の先には晄弘が立っている。


相手チームの監督がベンチから飛び出してきていたが、晄弘はそれを無視して、俺に強く視線を向けた。


どうやら晄弘は勝負してくれるらしい。


「ありがとう。晄弘」


短く感謝を告げながら、俺は全身全霊。全ての力をこの一打に乗せた。


晄弘が投げるまで、やけに間延びした時間を感じながら、俺は晄弘の向こう。観客席に翼先輩が立っていて、俺を見ているのを感じた。


心配そうに、両手を胸の前で握りながら、ただ俺を見ている。


そんな先輩を見て、俺はいつかの約束を思い出していた。


『どんな相手でも、どんな場所でも、必ず翼先輩の所まで届かせます』


あの時、木陰に翼先輩がいたのかは分からない。


俺の想いを届ける事が出来たのか、分からない。


それでも、そうさ。


どんな相手でも、どんな場所でも、俺は……!


バットを強く握りしめ、晄弘から放たれたやけにゆっくりと迫ってくる球に、バットを振った。


これ以上ないほどの最高の投球をくれた晄弘に、これ以上ないほどに俺の全身全霊を込めた一打で返す。


バットに当たったボールは高く、遠く、遥か彼方へと飛んで行く。


観客席の先輩がいる所まで。


俺はその球を見送って、先輩に想いを届ける事が出来たという満足感や、晄弘と戦う事が出来た。和樹たちの想いに応えることが出来た。という気持ちを混ぜ合わせながら、最期の力を振り絞って、一塁へ、そして二塁、三塁へと走る。


いつもよりも重い体を引きずって。


そして、ホームベースへとたどり着いた俺は、歓声と共に迎えられ、最後にホームを踏んだ後、ふらつく体を支える事が出来ずに、倒れこんだ。


瞬間、周りが騒がしくなり、色々な人の悲鳴が聞こえたが、それも全てが遠くなってゆく。


俺の意思に反して閉じていく瞼に、僅かな後悔を残しながら、それでも、俺は果たせた約束に、ただ安心するのだった。

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