二百七十三話 種明かし

 怪我人も死人も出ず、溺れた浪人女が一人いるだけでなんとか場は収まった。

 翔霏(しょうひ)の酔いも醒めたようだし、泉癸(せんき)さんを固く拘束するほどのことはない。

 無事だった軽螢(けいけい)を存分に撫で繰り回した私は、けれどあることに気付く。

 激しく大きな違和感の主が、新たに一人、加わっていたのだ。


「なんで乙さんがぐるぐる巻きに縛られてここにいるの?」


 むすー、と言わんばかりのジト目で、私たちを睨みつけている女性。

 間者、工作員、諜報員、隠密、忍び、あるいは草。

 いろいろな呼び方をされる彼女は、乙と名乗る尾州(びしゅう)除葛氏(じょかつし)の関係者だ。

 主に姜(きょう)さんの使いっパシリをしていて、私たちとも浅からぬ縁がある。

 乙さんの冷たい目線を知らぬ顔で受け流しながら、翔霏が教えてくれた。


「いつの間にかこの中州に忍び込んでいたんだ。私たちの会話を盗み聞きでもしていたんだろうな。うろちょろされても面倒臭いので、とりあえず縛らせてもらった」


 翔霏が私たちが騒ぐ現場に少しだけ遅れて到達したのは、そのせいだったのか。


「央那ちゃん、あたしはあんたの命を何度も救った恩人だと思うんだよね。猿(ましら)の嬢ちゃんに言って、この縄を解いてくれないかな?」


 猫なで声のうるうるした瞳で、そう嘆願された。


「乙さんに感謝している気持ちはもちろんありますけど、それ以上に私たち、姜さんや乙さんを信用してないんです。不便でもしばらくそのままでお願いします」

「こっちも仕事が立て込んでるんだよ。あたしの知ってることをいっぱい喋ってあげるからさ、なるべく早く自由にしてくれない?」


 乙さんの言い分に翔霏、軽螢がそれぞれ異なる見解を述べた。


「間者の姉さんが話す内容が真実とは限らんからな。むしろ私たちを混乱させるために、デタラメを並べ立てるかもしれない」

「縛り付けてる間はどっちにしろ俺らが有利なんだし、話だけでも聞いてみればいいんじゃね?」


 ふむ、どちらの意見にも一定の理があるね。

 私はひとまず、今この現場に存在する、最も大きな疑問を乙さんにぶつけてみることにした。

 信用するかしないかは、その答えを聞いてからでも遅くはあるまい。


「じゃあ乙さんに質問です。トチ狂って私を襲った泉癸さんは、乙さんたち尾州、旧王族勢力の差し向けた刺客、ではないんですか?」

「この女は正真正銘、素人の田舎娘だよ。受験勉強のためにここ、相浜(そうひん)の街で下宿してるのも本当だ。住んでる部屋におかしな連中が出入りしてる気配もないし、友だちの一人もいないのは調べがついてる」


 最後の情報は、聞かなくても良かったなあ。

 むしろ同情ポイントが加算されちゃうじゃないのさ。


「私の聞いている話とも矛盾はないようだ。彼女は嘘を言っていないと思うよ」


 籍先生も、乙さんの言ったことの正当性を担保した。

 確かに今さら私たちに危害を加える動機は、姜さんの側にはない。

 それをしたければ、誰も見ていない海の上ですでにやっているはずだから。

 けれどね、と言って乙さんは泉癸さんに関する補足を付け足した。


「この女はごく最近、央那ちゃんを襲うようにある人物から仕向けられた。本当に最近のことさ。だからあたしも除葛もその動きを掴み切れなかった。あたしはそれを確認するため、同時に央那ちゃんの身を守るためにこの中州に来たんだよ」

「乙さんがのんびりしてたせいで、私も軽螢も襲われちゃいましたけど……」

「仕方ないだろ! 猿の嬢ちゃんがあたしに気付くなり襲い掛かって来たんだからさ!」


 藪蛇を突かれてしまって、翔霏が目を逸らし口笛を吹いた。

 物事が上手く噛み合わない瞬間って、不思議とよくあるものですね。

 ともかく、肝心な情報が中にあったのは確かだ。

 私は話を戻す。


「泉癸さんは誰に頼まれてこんなことをしたって言うんです? 今の段になって私個人に嫌がらせしたところで、なにも意味はないと思うんですけど」


 東南の海で商売を進めることは、すでに私の手を離れて椿珠(ちんじゅ)さんやシャチ姐に委ねられている。

 私を痛い目に遭わせたところで、その流れを止めることはできない。

 困惑する私に笑みを浮かべ、偉そうに乙さんが言う。


「お勉強好きの央那ちゃんでも、見てないものは見えないか。そちらの老先生は、さすがに年の功で『世の中』ってものが見えてるようだけどね」


 促されて確認すると、籍先生が深刻な顔で立ち尽くしていた。


「……まさか、いや、そう考えるしかないのか」

「先生、どういうことです? なにか心当たりでも?」


 私の問いに、眉を顰めて嘆くかのように、籍先生は答えた。


「……麗くんを除こうとしたのは、腿州公(たいしゅうこう)か、その側近だろう」

「え、なんでです? 私、ここ腿州の偉い人たちから恨みを買うような真似なんて、別に……」


 私が困惑している横で、軽螢があーあーと、納得した顔で言った。


「そっか、せっかく頑張って海賊を海から追っ払っても、儲けを全部、角州(かくしゅう)に持って行かれちまう。海賊退治で一番、ゼニも人手も出してたのはこの州なのに、麗央那のせいで大した得るものもないまま、危ない仕事だけ背負わされた形になっちまうもんな」

「あ……」


 言われて私の脳裏に、一つのシーンが呼び起される。

 海の上で、姜さんの率いる軍船に追い詰められていたとき。


「央那ちゃん、もう勘弁したってえな~~~~」


 本当に困った顔でそう言っていた姜さん。

 あの言葉も、表情も、なに一つ嘘ではなかった。

 私たちが利益を持って行き過ぎると、それに反比例して腿州の利益が奪われて行く。

 それは結局、今の姜さんの雇い主、上司である腿州公の損失となる。

 腿州公から私たちへ対する印象を悪くし過ぎないためにも、妥当な落としどころを話し合おう、お互い譲り合おうと、姜さんは終始一貫して言っていたんだ。

 より詳しい背景を、乙さんが語る。


「この街で東国の連中が嫌われるように仕向けてるのも、本当は腿州公サマの思し召しさ。外の国のやつらは、稼いだ金の大部分を自分の故郷に送っちまうからね。要するに腿州から大量の金銭が国外に流出してるんだ。州公サマはそれが気に入らないってんで、微罪でもデッチアゲでもなんでも使って、東国の連中を牢にぶち込み、財産を没収してるんだよ」


 乙さんの話を聞き、悲痛な顔で籍先生が確認する。


「な、なら除葛軍師が、罪人を軍船の漕ぎ手に徴発している、と言う話も?」

「ご明察。除葛のやつは、そのままだと財産を奪われて国外追放される予定の可哀想な連中に、軍船の櫂を握るっていうまともな仕事を与えてたのさ。軍功を立てれば罪が許されて、ちゃんと財産も戻って来るって約束してね。他人を死ぬ気で働かせることにかけちゃ、除葛の右に出るやつはこの世にはいない。みんな怖いくらいに必死で働いてくれたよ」


 バチバチバチッ、とすべてのピースが頭の中で繋がる音がした。

 最後の、けれど根本的な謎を解く鍵も与えられた私は、力なく呟く。


「じゃ、じゃあ、私に泉癸さんをけしかけて、わざわざ危害を加えようとしたのも……」


 腕を組み沈思黙考していた翔霏が、その答えを言葉にする。


「州公にとって、ただの腹いせ、八つ当たりだな。浪人の姉さんが麗央那を気に入らなかったように。今さらどうしようもないとわかっていても、麗央那を黙って北部に帰すものかという、怒りと憎しみに憑りつかれたのだろう」

「そういうこと。人の心に関しては、央那ちゃんより猿の嬢ちゃんの方が深く理解してるみたいだね。本ばっかり読んでちゃダメってことさ」


 暗く沈んで俯く私。

 気にし過ぎるな、という意味で軽螢が優しく肩を叩いてくれる。

 そして言った。


「なんにしても麗央那に手を出しちゃ、お城の偉い人やヒメさんたちが黙ってねえよ。州公サマも早まったことしちまったなあ」


 素朴な感想の些細な裏事情を、乙さんは苦笑いで教えた。


「どのみち除葛のやつは朝廷に働きかけて、腿州の公爵を挿げ替えるつもりさ。海賊退治と治安の問題が片付いた、その先の話だけどね」

「州公閣下も、もうお歳であられる。あくまでも表面上は、不自然ではない退位と交代になるのだろう。事実上の左遷だとしても……」


 寂しそうな顔で、籍先生が言った。

 彼にとっては元直属の上司だもんね。

 あまり聞きたい話ではなかっただろう。


「ってなわけで、そこでノビてる浪人女の身柄は、こっちで預かりたいんだよね。除葛が州公と交渉する材料に使えるからさ。そっちに迷惑はかけないから、この辺で納得してくれるとお姉さん、嬉しいなあ」


 無様に縛られつつも、実にイイ笑顔で乙さんがまとめる。

 どうする? と視線で訊ねた翔霏に、私は頷きを返す。

 縄を解かれた乙さんは、全身の伸び運動をして関節をポキポキっと鳴らした。


「聞き分けてくれてどうも。この女は暗殺に失敗しちゃった以上、こっちで保護しないと州公の手のモンに殺されちゃうからね。いや、きっと成功してても口封じで殺されてただろうけどさ」


 よっこらせ、と泉癸さんの体を肩担ぎにして、乙さんが運ぶ。

 船なんかないはずだけれど、どうやって帰るのかなと思っていたら。


「あ、筏の、オッサン……」


 対岸から筏を渡しているおじさんが来たのを見て、鶴灯くんが呟いた。

 

「え、あの人も姜さんたち一味に繋がってるの!?」

 

 驚く私に、乙さんはドヤ顔で返す。


「決まってるじゃないのさ。あんたたちが中州に行くときに必ず使う経路なんだから」

 

 私たちが筏の上で交わしていた世間話のすべては、姜さんに筒抜けなのだった。


「参った、やっぱり勝てねえわ」


 一度は出し抜けたと思ったのだけれど。

 結局は、私の方がぎゃふんと言わされるんだな。

 いつになったら追い付けるのか。

 私は痩せた若白髪男の背中を頭に思い浮かべ、乙さんたちの乗る筏を見送った。

 籍先生が朝焼けの空を見ながら語る。


「私の生徒同士が、まさかこんなことに。州公閣下も以前は聡明で心優しいお方だった。お歳を召されて、お心が変わってしまったのか……」


 嘆く先生に、軽螢が寄り添って言った。


「人は変わるから、仕方ねえよ。死人が出なくて良かったじゃんか。州公サマも、引退するのに丁度いい頃合いだったんだよ」

「そうだね。そう思うようにしよう。ありがとう、応くんは優しいね」


 みんな、様々な想いを抱えて、相浜の朝日を眺めた。

 しばらくの間、ただずうっと、そうしていた。

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