二百七十二話 業火の乙女、灼熱の情気を抱いて冬の川を泳ぐ
「うおりゃああああっ!」
軽螢(けいけい)が走る。
その先には、刃物を持った浪人生の泉癸(せんき)さんがいる。
「ちぃっ、邪魔っ!」
「おぉっとっとっと!?」
泉癸さんの振り回す短刀を間一髪で避けた軽螢。
けれど勢い余って、足を踏み外し転んでしまった。
「メエエエェェェンッ!!」
そのとき、まったく素晴らしいタイミングで相棒の危機を察したヤギが、怒涛のように突進した。
「あ痛ッ! なによこのヤギ!」
私もヤギの一声で体の硬直が解け、軽螢の助太刀に回る。
「てんめー、いったい全体どこの誰の差し金だコッラァーーーーーーッ!」
とりあえず叫びながら走り出したけれど、その後のビジョンがなかった。
私の力で拘束できるか?
情報を吐かせるためには、頭突きで歯を折らない方が良いか?
などと余計なことを考えつつ、泉癸さんの前まで来たけれど、刃をこちらに向けて息を荒げる彼女に対し、有効な一手が浮かばない。
私と目が合った彼女は、明確な憎しみを孕んだ表情で、言った。
「最初っから気に入らなかったんだ、あんたのことなんて! 私より年下で、いっつも楽しそうにあちこち飛び回ってて、それなのに、それなのに、よりにもよってあの中書堂で……!」
「え」
思わず絶句し、アホ面を晒す私。
「まさか、ただの嫉妬? いやいや私なんてしがない予備生扱いですって。なんなら雑用女官みたいなもんですし」
受験ストレスをこっちにぶっつけられても困るんですけど、マジで!?
どこの馬の骨とも知れない私が、偉い人の覚えが多少めでたいせいで中書堂に出入りできているということに、不満を持っていたってこと?
受験ノイローゼ、そこまで拗れるか。
私もガリ勉戦士だった過去はあるので、その気持ちはわからないではないけれどさあ。
「うっせー! あんたなんか消えてなくなっちまえばいいんだ! 私が合格しないのもあんたみたいに、ズルで受かってるやつがいるからなんだーーーーっ!!」
「そんなくだらん理由で殺されてたまるかーーーーーーーーーーっ!!」
私はこの街に来て一番の、心から素直に思った気持ちを叫ばざるを得なかった。
ほんっと、ここまでいろいろ頑張って来て、しんどい目にもたくさん遭ってさ。
こんなエンディングだけは、マジでノーサンキューです!!
「バッカ麗央那! さっさと逃げろってーの!」
「ブメェェェッ!!」
間に軽螢とヤギが割って入る。
忌々しげな顔で泉癸さんが悪態を吐く。
「お前ら、揃いも揃ってなんにも考えてなさそーな、幸せなツラしやがって! 全部ムカつくんだよォーー! みんなみんな、いなくなっちまえーーーーー! もうなにもかも嫌だーーーーーーっ!!」
どこか同情できそうな、悲痛な叫びに胸が痛くなる。
けれど私は引き下がらず体に力を込める。
ひょっとすると、こうなっていたかもしれない私の姿が、目の前の彼女でもあるのだ。
受け止めて。
乗り越えて。
さらにその先を、進んで行かなければいけないんだ!
そう覚悟を決めて、歯を食いしばった、そのとき。
「麗央那、どうした!」
「みんな、無事、か!?」
騒ぎを聞きつけた翔霏(しょうひ)と鶴灯(かくとう)くんが駆けつける。
一瞬、私がその声に気を取られて横を見てしまったら。
「あああああああっ!!」
雄叫びとともに振るわれた、短刀の一閃。
「うあぁっ……!」
その横薙ぎを胴体に喰らった軽螢が、力を失って後方に倒れ込む。
「け、軽螢?」
「メェ! メェン!?」
すべての景色、すべての動きがスローモーションに見えた。
ああ、軽螢が地に倒れて、そして。
「貴ッ様ァーーーーーーッ!!」
咆哮を響かせて、翔霏が矢のように飛び出し、走る。
問答無用で泉癸さんを殺そうとしている、凄まじい怒りに満ちた顔で。
止めなきゃ。
いや待て、軽螢を手にかけた相手を、なぜ庇う必要がある?
そのまま翔霏に始末してもらえばいいじゃないか。
ああ、でもでもそれは、ダメなんじゃないか?
わからない、私にはなにもわからない。
ただ力を失い、膝を崩し、口をわなわなと震わせて立ち尽くすしかできない。
「ひ、ひぃっ!?」
泉癸さんは、逃げた。
三角州の端っこ、崖になっている一角へ。
「しまった!」
翔霏が悔しそうに叫ぶ。
川の中に飛び込んで逃げられたら、泳げない翔霏は追うことができない。
「わあああああっ!」
予想通り、泉癸さんは服を着たまま川面へと跳んだ。
対岸の市街地、筏の渡し場までは50メートルほど。
死ぬ気で頑張れば冬の川でも泳げない距離ではない。
「メェ……! メェェ……!」
「軽螢! し、しっかり!」
倒れている軽螢の傍らに、切ない声を発したヤギと、鶴灯くんが寄り添う。
私は。
軽螢と過ごした間に見た、彼の様々な表情が頭の中を駆け巡る。
ブー垂れていたり、へそ曲げていたり、驚いていたり。
夕飯のおかずが少なくて、寂しそうにしていたり。
でも、一番強く私の脳裏に焼き付いているのは。
「大丈夫、大丈夫。なんとかなるって」
そう言って笑う、人畜無害な田舎の少年。
軽やかに舞って飛ぶ夜の螢のように、人の心をなぜか柔らかくほぐす。
「うっおおおおおおおおお!」
その笑顔が、私に力をくれた。
なんの役にも立たない気休めの言葉が、私の体を前に進ませた。
全身全霊で走りながら、私は上着を脱ぎ捨て、肌着を放り投げる。
もろ肌むき出しの有様になって、声高に叫ぶ。
「小獅宮(しょうしきゅう)のカワイルカと呼ばれた、この麗央那ちゃんを舐めるんじゃねーーーーーーーーーッ!!」
そのまま中州の崖から、泉癸さんを追い大河の中へとダイブした。
自慢じゃないけれど、泳ぎだけは得意なんだよ!
中学のときは100メートルくらい、かなり限界ギリギリでもクロールで泳げたんだからなーーーーっ!!
「おりゃおりゃおりゃおりゃごぼごぼ~~~~~~~ッ!」
「え!? ちょ!? 速っ!!」
猛烈に追い上げられている泉癸さんが、困惑と恐怖の声を発する。
あなたの敗因は、山猿の私たちなんてどうせろくに泳げやしないだろうとたかをくくったこと!
そしてなにより、速さが足りない!
着衣水泳の平泳ぎで、半裸にまでなった私のクロールに勝てるわけねーだろ!!
「あ、ちょ、やめ、ごぼごぼがばがば!」
「ンギギギギギィ!! 大人しくしやがれぶくぶくげばぁ!!」
私と泉癸さんは水中でくんずほぐれつしながら、口の中に押し入ろうとする川の水とも格闘する。
水の中に人を引き込もうとするホラー映画の怪物よろしく、私は泉癸さんの胴体に絡みつく。
冷たい冬の水が、私たちからどんどんと体力を奪って行く。
けれど、それがなんだってんだ!
思い出せ、私の本質を!
日和って守りに入りかけ、忘れそうになっていた私自身の在り方を!
後宮で煙に塗れた、昼下がりの戦いを!
北方の草原を駆け、峡谷の集落を焼き尽くしたあの日の景色を!
私を私たらしめている、心の奥底で燃えている力を呼び覚ませ!
「私は炎! 怒りと復讐に燃えて滾る獄炎の女!!」
沸騰しそうなくらいに煮えた血液。
体中をドクンと脈打って私の四肢に力を与える。
「冬の川ごときに、負けるかってんだよおおおーーーーーーーッ!!」
そのまま、ぎゅぅぅと泉癸さんの胴体を両腕で強く抱き、搾り上げる。
「あ、が、かはっ……!」
胸を圧迫され、呼吸を妨げられた泉癸さんのか細い吐息が漏れる。
水中にあって息継ぎができないということは。
要するに、溺れる。
じたばたじたばた、とわずかな抵抗を示したのち、私の両腕の中で泉癸さんは力をぐったりと喪った。
「はあ、はあ、はあ……ぶっへ」
川面に顔を出し、水を吐く。
あ、あとはこのまま、彼女を引きずって泳ぎ、中州に、戻らないと。
そうしなければならないのに、体中のすべてが、まるで言うことを聞かない。
どんどん寒くなって来た。
このまま大した縁もない浪人さんと一緒に、水の中で冷たくなっていくんだろうか。
ごめんね、軽螢。
私はあなたのために、仇を討つことしか、できなかったよ。
軽螢にはいつも、元気付けてもらったのに。
安心させてもらったのに。
私からはなにも、ろくにお返しすることができなかったね。
本当に復讐しか能がないんだなあと思うと、呆れるやら、情けないやら。
「それも私らしいって、軽螢なら川向うでも笑って言ってくれるかな……」
朦朧とした意識の中で、そんなことを思ったとき。
「れ、麗! 大丈夫、かーっ!?」
鶴灯くんの声が聞こえる。
泳いで助けに来てくれたのか。
冷静になって考えると、泳げるのは私だけじゃないんだよな。
むしろ潜水や遠泳なら、私なんかより鶴灯くんの方がよほど達者なはずだ。
「け、軽螢が、軽螢が私のせいで……」
涙なのか川の水なのか。
もうなにもかもグチャグチャな濡れ顔で私は喘ぐ。
このままどんな顔をして、翔霏のいる中州に戻れと言うのだろう。
「と、とにかく、水から、上がろう! こ、凍え、死ぬ!」
助けに来てくれた鶴灯くんまで、巻き添えにするわけにはいかない。
私と鶴灯くんは二人がかりで、気絶した浪人女を引っ張りつつ、もといた三角州へと泳ぐ。
「れ、麗、泳ぐの、は、速いなあ。驚いた」
「どうでもいいよ、そんなこと……」
私を元気付けようとしてくれている、鶴灯くんの優しさと気遣いが痛かった。
中州で浜になっている部分に、翔霏とヤギ、籍(せき)先生夫妻も出て来て、私たちを待っている。
ああ、軽螢の介抱を誰もしていないということは、きっと、そう言うことなのだ。
ん?
視界の端、砂浜の片隅に、あるわけのない、いるはずのないものが、見えた気が。
「あ~あ、せっかく作ってもらったのに、破れちまった……」
座り込んでいじけた声を出している、その人物。
手元になにか布きれのようなものを抱え、クヨクヨと消沈している、短髪の少年。
「軽螢ーーーーーーーッ! 生きとったんかワレェーーーーーーーーーッ!!」
私は叫ぶ。
気絶した泉癸さんの身を鶴灯くんに押し付けて、来たときと同じく全力のクロールで泳ぐ。
「わわわッ、麗央那! 上を着ろよ!!」
「うっさいバカーーーーーーーー! もうダメかと思ったじゃねーかよこんにゃろーーーーーー!!」
私は半裸で布ブラだけの上体のまま、浜に上がって軽螢に抱きついた。
「わあああああああン、良かった~~~~! 良かったよォ~~~~~~!! ねえなんで平気なのねえねえなんで!? 神さまのご加護!?」
鼻水と涙を押し付ける私。
泣き喚きながら、なんでなんでとけたたましく問い詰めるさまは、まるで子ども。
「鶴ちゃんの母さんに作ってもらった刺繍を、腹ン中に入れてたんだよ。麗央那が戻ってきたら、あげよっかなって思ってサ。でも、こんなことになっちまった……」
私の顔をむんずと押しのけて、軽螢が手に持つ布を見せた。
なにかの樹と、その傍らで草を食んでいる鹿の図が刺繍されている。
けれど鹿の体を斜めに切り裂く形で、布は破れていた。
「あは、あはは、私とお揃いだ~~~! ほらほら、私も突骨無(とごん)の野郎にばっさり斬られた傷あるし! こんなの直せるよ! 直して使うから! すっごい嬉しい!! ありがとね軽螢~~~~~!!」
喜ぶやら叫ぶやら大泣きするやら。
寒さ冷たさで体中をガタガタ震わせながら、私はもう一度、軽螢に抱きついた。
「まとわりつくなよ~~~。冷てぇんだわ~~~~」
嫌がる軽螢に、濡れた体をぐりぐりと押し付ける。
ありがとうね、軽螢。
生きていてくれて、本当にありがとう。
まだまだしばらく、死なせてなんかやらないからね!!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます