二百六十八話 さあ、海に置き忘れた決着を
角州(かくしゅう)の司午(しご)屋敷でゆっくりしたいのはやまやまだけれど、後ろ髪にかかる引力をなんとか振り払う。
私たちは再び南部、腿州(たいしゅう)へと戻らなければならないからだ。
「向こうの冬、寒さはいかがでござるか」
街はずれまで見送りに出てくれた巌力(がんりき)さんから、他愛のない質問を貰った。
椿珠(ちんじゅ)さんとシャチ姐たちは州庁府で商売の手続きをしているので、この場にはいない。
誰もかれも忙しいのは、去年の冬と同じだな。
「思ったよりはひんやりしてますけど、晴れた日は上着なしで外を歩けちゃうくらいですねえ」
「それは結構ですな。奴才(ぬさい)は暑さに弱いゆえ、涼しいうちに一度は遊びに行かねば。玉楊(ぎょくよう)さまはどう思われます」
同じく見送りしてくれている玉楊さんに、巌力さんは南部旅行の水を向ける。
「ぜひ行ってみたいわ。でもせっかく南へ行くなら、どれだけ暑くなるものか確かめないとつまらないんじゃないかしら」
ふふふ、と可愛らしく笑い、巌力さんが少しだけ苦い顔をした。
太陽真っ盛りの南部、玉楊さんが海辺や河原で水遊びなんてしようものなら、集まったギャラリーがトチ狂って犯罪が起きるな。
汗だくの仁王立ちで群がる男たちを押しとどめる巌力さんの姿を想像すると、とても楽しい。
「お、俺も、また、船の、仕事で、角州に、来たい。タコが、う、美味かった」
鶴灯(かくとう)くんも斜羅(しゃら)の街を気に入ったようだ。
昨日の夕食にタコの丸ごと塩茹でが出たけれど、確かに絶品だった。
こういうのでいいんだよ、こういうので。
「椿珠の仕事にくっついていれば、その機会はあるんじゃないか」
翔霏(しょうひ)が言う通り、東南の海からこの街の港にせっせと珍品を運ぶ仕事が軌道に乗れば、鶴灯くんにもお手伝いのお鉢が回って来るだろう。
目が回るくらいに忙しくなるかもしれないし、ひょっとすると上手く行かないかもしれない。
わからなくても、歩きはじめなければ。
いつまでも司午のお屋敷や後宮にいたい、けれどそれはできないように。
みんな、新しい明日のために、進み続けなければいけないんだ。
「紺(こん)女史、少し待たれよ」
出発しようとした私たち、中でも翔霏を名指しして、巌力さんが引き留めた。
「どうかしました。忘れ物はなかったはずだが」
「もし次に柴(さい)将軍に会うことがあれば、これを渡して下さらぬか。毛州(もうしゅう)の牛からだと」
巌力さんが翔霏に持たせたのは、彫刻が施された小さな石の板だった。
中央にはガニ股で足を屈めた人間らしき像が彫られている。
蛉斬(れいざん)になにか関係のある物品なのだろうか。
「なんです、これ?」
「相撲の神の、お守りでござる。次に勝負がつくまで柴将軍に預けておこうと思いましてな」
私の問いに答えた巌力さんは、彼にしては本当に珍しく、はにかむように微笑んだ。
なんだかんだ言って、男子なんですねえ。
「ふふ、わかった。あいつは目立つからな、すぐに見つけて渡せるだろう」
翔霏も爽やかに笑い、丁重に相撲の神さまを内ポケットに仕舞い込んだ。
「頼み申した。道中、くれぐれもお気をつけて」
「お手紙を書きますね。近いうちに遊びに行くかも」
巌力さんと玉楊さんが手を振る中、私たちは馬車に乗り込み、南へと向かう。
騎馬でない理由は、鶴灯くんも私も馬を駆るのが不得手だから。
それならついでに荷物も運べという理由で、玄霧(げんむ)さんが馬車を手配してくれたのだ。
幸いにも八州の大きな街同士を結ぶ経路には、しっかりと整えられた道路が存在する。
馬車移動でもかなりのスピードを出せるわけね。
数千年前の伝説上の王さまが、草木を払い、土を突き固め、石畳を敷いた馳道(ちどう)と言う「自分専用の道路」を八州に這わせた。
と、泰学(たいがく)の注釈書で読んだことがある。
今は私たちでも普通に通ることのできる、一般主要国道のような扱いである。
余談ですけれど私の実家は、国道16号沿いにあります。
「ど、どうして、椿珠兄さんの、い、妹さんは、家に、帰らず、あそこに、いるんだ?」
「それは多少、のっぴきならない事情がありましてねえ」
鶴灯くんの素朴な疑問に苦笑いしたりなど。
実は皇帝陛下の「元」奥さまだって知ったら、どんな顔するのかな。
などと愉快にお話ししながら、私たちは腿州へと戻って行った。
ちなみに玉楊さんが司午家を離れない理由は、単に居心地が良いからだろうともっぱらの噂。
彼女も今まで苦労しましたからね、のんびりしてもらわなきゃ。
「ようお前たち! 思ったより早く戻ったな!」
北部と南部を分ける境界の大河を渡ると、蛉斬がいた。
「なんでいきなりいるんだよコイツ。いつかは会うつもりだったけどさ」
このタイミングじゃねーわ、とげんなりする私。
対照的にいつもと同じ、太陽の笑顔を輝かせる蛉斬。
私たちが川を渡ろうとしたタイミングで、なんらかの手段によりそれを知って待ち伏せしてたのかな。
鶴灯くんはオロオロして、翔霏は興味なさげにあくびをかいている。
三者三様の私たちを前に、蛉斬は持ち前の大声を張り上げた。
「お前たちに礼を言っておかなければと思ってな! あのとき忠告してくれたおかげで、俺っちの家族に嫌がらせしようとするやつを取り押さえることができたんだ! 本当に助かった!」
「え」
私はぽかんと口を開ける。
海の上で、蛉斬を追っ払いたいがために吐いた私のデタラメな脅迫。
「早く陸に戻らないと、家族がひどい目に遭うかも」
出たとこ勝負のハッタリでしかなかったはずのそれは、まさに嘘から出た真で、現実に彼の家族を襲ったのだ。
私たちのおかげで前もって対処することができ、被害が出ずに済んだのだと。
「でも素直に『良かったね』とは言いにくい話だなあ。実際に悪いやつらはいたんでしょ?」
「ああ、お前たちの予想通りにな! 家に火付けをしようとしてたやつらと、移動中の母ちゃんの馬車を襲おうとしたやつらをとっ捕まえた! 空き巣に入ろうとした連中もいたっけな! 俺っちが哀しいのは、中に昂国(こうこく)の、南部の連中も混ざってたことだ!」
少しは哀しい顔をしろ、お前は。
「良くも悪くも目立つやつは狙われる、と言うことか」
おそらくは妥当であろう見解を翔霏が述べた。
治安活動、要するに警察と軍人の中間的な仕事をしている蛉斬にとって、敵は外国人の海賊だけではない。
人種国籍問わずいろんな犯罪者から今までたくさん、恨みを買って来たのだ。
それが爆発するタイミングがたまたま、今だったというだけのことだろう。
「せ、正義を、貫く、のは、きっと、大変な、ことだから」
沈痛な顔の鶴灯くんの言葉に、私も思う。
正義という言葉に実態があるのなら、きっと蛉斬の姿かたちにそっくりだろうと。
犯罪者を相手に治安の仕事なんてしてる以上、きっと嫌なものだってたくさん見てきたはずだ。
それだというのにこの人はこんなにまっすぐで明るく強く、なによりも善良で正しい。
私たちに文句の一つも言っていいはずなのに、それを脇に置いて笑顔でお礼を言いに来たくらいなのだから。
こんな私にだって正義や善を希求する強い気持ちは心の底に確かにある。
けれど、彼のようには到底、できっこないだろう。
蛉斬に対して私の中に若干の苦手意識があるのは、こう生きたいのにこうなれなかった自己嫌悪や嫉妬からかもしれないな。
「俺っちが陸(おか)にいる間にお前たちが戻って来てくれて良かった! どうしてもあの海の上で、言いそびれていたことがあったからな!」
「こっちはもう話すことなどない。礼は受け取ったからさっさと帰れ」
冷たく言い放つ翔霏だけれど、あなた巌力さんから、渡すものを預かってましたよね。
気に入ったからって勝手にポッケナイナイしちゃダメですよー。
そんな塩対応の翔霏を見て、蛉斬はさらに声のボリュームを上げた。
「その顔だ! 紺、お前のそのつまらなさそうな顔を俺っちは変えたいんだ! もう一度勝負して、俺っちが戦うこと、強くなることの楽しさをお前に思い出させてやる!」
勝手なことを言ってのける蛉斬に、信じられないアホを見る顔で翔霏が返す。
「要らん。余計なお世話だ。そもそも私は、思い出す記憶があるほど蹴った殴ったで楽しい気になったことはない」
「それは違うぞ、紺! お前にも幼い日があったはずだ! 邑の誰よりも速く走れて、嬉しくなった日がきっとあっただろ!? 故郷の小僧どもと喧嘩をしても、不思議と負けない自分を誇らしく思っただろう!? 厄介な怪魔を自分の手ではじめて退治したとき、邑のみんなは笑顔でお前を祝福してくれたんじゃないのか!?」
むぐ、と翔霏が言葉を詰まらせた。
きっと「べらぼうに喧嘩が強い人あるある」の幸せな思い出を、蛉斬と翔霏はそっくり共有しているのだな。
勝つことが当たり前になった翔霏が、いつしか勝利に無感動になってしまったとしても。
きっと原体験では、強い自分を「嬉しい」と思っていた日があった。
自分の得た強さがもたらす勝利を「楽しい」と、素直に感じていた時期があったのだ。
蛉斬の口説き文句は勢いを停めずに続く。
「そんなに強いお前が、そんなに美しく戦うお前が、戦いに喜びを感じられないなんて、俺っちはとてつもなく『可哀想だ』と思っちまったんだ! 紺、強いということはそれだけで、他の誰かを笑顔にできることなんだ! なのに肝心のお前自身がそれを楽しまないでどうする!」
蛉斬は腰を落とし、安定した力強い姿勢で構えた。
「さあ来い、紺! お前がどんなに強いのか、お前の強さがどれだけ素晴しいものなのか、俺っちが教えてやる! 今度はお前に有利な陸の上でだ! 船上では決着がつかなかったが、ここで負けたら言い訳できないぞ!!」
挑発しているのか、上から目線で褒めているのか。
まったくわからない蛉斬の横暴に、はーぁと諦めたように翔霏は溜息を吐いた。
「すでに今、ちっとも楽しくないんだが。うるさいやつを黙らせるから、二人ともちょっと待っててくれるか」
ついに翔霏も折れて臨戦態勢に入り、柔道選手のように両手を顔の前に構え、重心を低く沈めた。
けれど、口ではそう言っていた翔霏なのに。
「行くぞっ、地獄吹雪!」
「来い、大バカ!」
立ち合いの瞬間、笑っているようにしか見えなかった。
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