二百五十二話 今、船出が近付くこのときに

「そもそも、あんなにデカい船がなんで水に浮くんだろな。重いもんは沈むはずじゃねえの?」

「メェ、メェ」


 私たちの出航を港まで見送りに来た軽螢(けいけい)が、最悪のタイミングで最悪の疑問を、微塵の悪気もなく口にした。

 私たちが乗り込むシャチ姐の船は、たくさんの人や荷物を乗せられる造りをしていて、かなり大きめなのである。

 船団なので、脇には中小の船もいくつか並んでいる。


「……ど、どうしてなんだ、麗央那?」


 ほらぁ、翔霏(しょうひ)がすっかり怯えちゃってるじゃないのさぁー。

 これから大変な作戦に身を投じないといけないんだから、余計な厄介ごとを増やさないで欲しい。


「いくら大きくて重くても、中にスカスカの空間があるものは実質、空気みたいなものだから、水に浮くんだよ」

「そ、そうなのか」


 まだ翔霏が硬い顔をしているので、私は手慰みに持っていた紙風船を膨らませ、波止場からぽいと海に投げ入れる。

 海面にゆらゆらと揺蕩(たゆた)う風船を指し示しながら、さらに詳しく説明する。


「風船は大きさの割に中身がスカスカだから、水にもフワフワ浮くの。船も中身は家とか風船みたいにスカスカの空間ばっかりで、木の板があるのは外側だけだから、水にも浮きやすいんだよ。そもそも木だって水に浮くからね」


 浮力の秘密を解き明かしたアルキメデス先生なら、どのように説明するだろうか。

 などと思いつつ、私は波に打ち付けられる紙風船を見つめる。

 物体を水に放り込んだとき、物体は押しのけた水の体積に比した重量分の浮力を得る、とか言っても翔霏たちには伝わらないよね。

 一番簡単な解釈としては、船の体積すべてが同じ体積の水より軽いなら、浮くのだ。


「なるほどねえ。船全体で見ると水より軽いわけか。軽いものが浮くってだけの話ならわかりやすい。実際に水は結構、重いからな」


 椿珠(ちんじゅ)さんが感心して納得してくれたけれど、あんたは海に出ないから他人事ですよね。

 商人である彼は「対比」と言う概念を体の奥底で理解しているので、その辺の理解は早いのだろう。

 自分が払うお金と、欲しい商品の価値の「比較」こそが、商売人の根本であり、同時に到達点なのだからね。

 あとは物理的に、樽に入ったお酒とかの重量物がどれほど運ぶのに困難か、その中身がカラになったときにどれだけ軽いかを、仕事を通して痛いくらいに思い知っているからかな。


「れ、麗は、頭が、良くて、も、物知り、なんだな」


 鶴灯(かくとう)くんの真っ直ぐすぎる称賛に、顔から火が出そう。

 南の地方は、物言いや態度に屈託がない人が多いのかなあ?


「本が好きだから、どうでもいいことばっかり知ってるだけだよ。人生において大切なことはなに一つとして知りません」


 男女の心の機微とかね!

 なんかさっきからチラチラ、翔霏と鶴灯くんが目を合せたり逸らせたりしている気がするけれど、私にはなんの意味のある行為なのか、さっぱりわからぬ!

 私たちがそのように和気藹々していると、いつの間にかシャチ姐とお伴のお兄さんが輪の中に入って来た。


「船は浮くように造っているから浮くのであります。わざわざ沈むような船を作るバカは、過去にみんな海に放り投げられて死んだのでこの世にはもういないのであります。船が浮く理由なんてそれだけのことでありますよ」


 哲学的なことを最初に言って、私たちの顔をぐるりとシャチ姐は見渡した。


「ワタシは海に出てしまえば、アナタたちのことにいちいち気を遣っているヒマなどなくなるのでありますが、どうやら頼りになる世話人を確保したのでありますね」


 東海の大物から純粋に褒められた鶴灯くんは、にへっと可愛らしい笑みを浮かべて照れるように首の後ろを抑えた。

 なぜか翔霏も一緒になって照れ臭そうにしているけれど、気にしないでおくのが優しさだと思います。

 人と諸々の準備が揃っていることを確認したシャチ姐は、私たちに向けて改めて言った。


「海に出てまず真っ先に鯨そのものか、もしくは胃石の龍涎香(りゅうぜんこう)を入手するであります。それを急いで角州(かくしゅう)の港に運び、州公立ち合いの下で正式に荷揚げするのでありますね」


 私は頷いて、段取りの次第に答える。


「はい。まっとうな手続きで角州公が受け入れた船を、いくら除葛(じょかつ)軍師であっても攻撃はできないはずですから」


 拙速であっても、収穫が少なくても。

 まずなにより、シャチ姐の船団と角州の港が公的に商業の取り決めを結び、大手を振って商売ができる「大義」を用意するのが肝要なのだ。


「寄港する前、海上で除葛の軍が襲って来ても、アナタたちが面(おもて)に立てば食い止められるという話でありましたね。その言葉に嘘偽りがありますれば、アナタたちはたちまち細切れにされてサメのエサであります。そこは理解しているでありますか?」


 相変わらず日常的な表情で怖いことを言っちゃうお姐さんだ。

 けれど翔霏は不敵に笑い、誇らしげに返した。


「相手が聞き分けんようなら、何発だってかましてやるさ。私が連中を泣かしている間に、姐御どのは悠々と港に入ればいい」


 もしも、両者の間に衝突、戦闘が発生してしまったとしても。

 翔霏は姜(きょう)さんや蛉斬(れいざん)の乗る船に自分から飛び移って、白兵戦であいつらをぶちのめすつもりなのだ。

 そんなことができるのかどうか、なにせはじめての「海の旅」にあってはわからないけれど。

 飛べると信じて本当に空を飛んじゃった翔霏なら、きっとそれができるに違いない。

 私はなんの不安も持たず、自慢の友の肩に手を置いてシャチ姐に言った。


「任せてください。東の海に、極寒の地獄吹雪を発生させてやりますから」

「……まあ、あの覇聖鳳(はせお)のクソガキを殺したような子たちでありますから、ひょっとすると上手く行くのでありましょうかね」


 納得しているのかどうか、わからない顔で。

 シャチ姐は思いがけない名前を、その口に登らせた。


「姐御、覇聖鳳を知っているのか? それに俺たちの仕業だってのもお見通しとは、さすがの情報通だな」


 椿珠さんが仰天して尋ねるのに、シャチ姐は軽く頷いて。

 停泊する船を眺めながら、懐かしむように、けれどそれ以上に憎たらしげに述懐した。


「十年近く前になるでありますか。ワタシたちにあのガキは、人手と食料を手配してくれと注文したことがありますので。しかし調べてみると東北の極地には、まともに船を停める岸も浜もない有様でありました」


 確かに旧名の青牙部(せいがぶ)、今では蒼心部(そうしんぶ)と呼ばれる土地の沿岸部は、海の仕事がしにくいような岩礁と断崖絶壁が多いと地図にはある。

 だから角州公の得(とく)さんと、蒼心部の首領である斗羅畏(とらい)さんは、共同で港や道路を整備するための話し合いをしているはずだ。


「じゃあ、商売は上手く行かなかったンか」


 軽螢の言葉にシャチ姐は溜息を吐いて続けた。


「あのガキは『儲けたら返すから、あんたらの金で船着き場を造ってくれ』とほざきやがったのであります。どこの世界にゼニの支払いもできない客の港を整備してやる船乗りがいるのでありますか」

「あいつ、一から十まで行き当たりばったりだなあ……」


 むしろ私は感嘆してしまった。

 覇聖鳳らしいや、ってね。

 若い頃から、あのまんまだったんだな、きっと。


「そんなんで交渉は物別れに終わったのでありますが、あのクソガキ、このワタシに向かってバカだのアホだのブスだのケチだのヨワムシクソババアだの、捨て台詞で散々に言いやがったのでありますよ。ヤツが死んだと聞かされたときは仲間と大いに酒盛りしたものであります。天誅は下るのであります」


 シャチ姐と覇聖鳳の間に、まさかそんな因縁があったとは。

 クックと笑った翔霏が、いたずらっぽく言った。


「止めを刺したのは麗央那だ。私がやりたかったんだが、間が悪くて奪われてしまった」


 シャチ姐は私をきょろりと剥いた瞳で見つめて、静かに聴いた。


「あのガキ、最期はなにか言っていたでありますか?」


 忘れられない人生のシーンなので、私はノータイムで返答できる。


「寒いから、鍋が食べたいって言って、死にましたね」


 ぽかーんと驚いたように口を空け。

 首を振って、しみじみとシャチ姐は呟いた。


「やはりあのガキと商売をしなかったワタシの勘は、正しかったようであります。おかしなやつに付き合っていると、きっとコチラの頭もおかしくなってしまうでありましょう」


 私も仲間たちも、揃って頷いた。

 よく分かっていない顔の鶴灯くんには、船の上でゆっくりと聞かせてあげるとしよう。

 これからは街の喧騒を離れ、静かな海の上。

 船酔いさえしなければ、お話をする時間はたっぷりあるさ。

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