第三十章 ねじれて泳ぎ、いずれは渦に
二百五十一話 想われるということ
農業留学生、なぜか海に出る。
そのことを決めた私と翔霏は、重ね重ね籍(せき)先生に頭を下げて、勉強中断の説明をした。
「と言う事情で、断腸の思いですけど受講をしばらくの間、休ませていただきたいんです。せっかく私たちのために予定を空けてくれた籍先生には、本当に申し訳ないと思っています」
私の釈明に、はーあと感心するのか、呆れたのかわからない吐息を伴って、籍先生は返した。
「ただの女学生ではないなと、私も薄々思ってはいたが。除葛(じょかつ)軍師に対抗するために、自分から大海原に出ようとはね……」
私に倣い、翔霏(しょうひ)も頭を下げた。
「籍先生、私からも深く陳謝させていただきたい。麗央那はしたいことができないと、死ぬ病にかかっているんです。一度言い出したら聞かないのです」
なんだか私の名誉を傷付けられる発言が出てる気がするので、しっかり反駁しておく。
「ちょっと翔霏ぃ、なんで私だけのせいみたいなことになってんのさ。みんなで決めたことでしょ」
「麗央那がそう思っているなら、それでいいんじゃないか」
なんだか、小獅宮(しょうしきゅう)から帰って来て以来、翔霏の私への対応が前より雑になった気が、しますね。
おかしい、文字通り血を分け合って、心の友から心身両面のズッ友にクラスチェンジしたはずなのに。
緊張感のない私たちに比べ、籍先生は沈痛な心配の表情を浮かべ、こう言った。
「私のような隠居老人が、若者のやることに口を出すのはお角違いだとわかっている。しかし敢えて長く生きた人間の意見を一つ、述べさせてもらおう」
「はい、謹んで聞かせていただきます」
真面目な態度に移り、私たちは背筋を伸ばして先生の声を待つ。
「命を賭けの場に放り出すようなことだけは、してはならないよ。きみたちは、いや誰であっても、命以上の宝はないのだ。命を賭けなければならないことなど、そうそう天の下にあるはずもないのだから。神も主上も、あたら若く輝く命をそこまで粗末に扱わなければいけない世界など、造ってなどいないのだ」
私も翔霏も、その言葉に黙って頷くしか、いや、俯くしかできなかった。
きっと、いや確実に私たちは。
もうとっくに、手遅れなのだから。
「籍先生は、当たり前のことを言っただけなのだろうが、あれは少し堪えたな……」
中州から街に戻る途上、翔霏が苦笑して言った。
「そうだね。私たち結局、覇聖鳳(はせお)みたいなことやってるんだ。自分の命をサイコロみたいに鉄火場の中に放り投げて、そのときたまたま出た目でなんとかしようって考えちゃってる」
今にも雨の降りそうな曇天を見上げて、私も自嘲するように漏らした。
翔霏も前より弱くなってしまい、対する敵は魔人と呼ばれる、おそらくはこの国で最強の戦争屋さんである。
姜さんの思い、考え次第で、私たちの命は文字通り、葛の葉のように容易く刈り取られてしまうのだ。
白髪部(はくはつぶ)の大統(だいとう)である突骨無(とごん)さんが、いつか覇聖鳳を評したように。
命を賭場に投げ込むやつは、遅かれ早かれ自滅するしかない。
毎度毎度そんなことが上手く行く道理など、ありはしないのだ。
けれど、それでも。
努めてスッキリした顔を作り、翔霏が力強く言う。
「心配してくれる人がいるんだ。これはどうあっても死んでやるわけにはいかないな」
「うん、勉強もまだまだ中途半端だからね。元気にこの街に戻って来て、春も夏も腿州(たいしゅう)の美味しいものをたらふく食べなくちゃ」
社交辞令だとしても、一般論でしかなかったとしても。
籍先生が私たちの身を案じてくれるのが、素直に嬉しかった。
ただの若い学生なんだと、まだまだ花も実も熟していない田舎の小娘たちなんだと。
そのように私たちを扱ってくれたことが、心から嬉しかったんだ。
今まで私たちの周りの大人って、そう言う「普通の心配」をしてくれる人が少なかったんだよね。
異常な環境と言えるかもしれない。
強いて言えば玄霧(げんむ)さんくらいだけれど、彼だって保護者としての責任感から、私たちに問題を起こしてほしくないという態度がありありだった。
いや、干渉が少ないお陰でずいぶんと、自由に好き勝手やらせていただいたんで、恨み言とかはありません。
なんて新鮮な気持ちを翔霏と話ながら、鶴灯くんの家に到着。
シャチ姐と一緒に私と翔霏は海に出て、男子チームは街、陸地側からサポートに回ってくれる段取りになっているのだけれど。
「や、やっぱり、俺、一緒に、い、行くよ。う、海のこと、紺(こん)たち、わ、わからない、だろ?」
お母さんが心配そうにする中、鶴灯くんがそう言い出したのだ。
けれど私たちがなにか言う前に、軽螢(けいけい)が厳しい顔で反論した。
「絶対ダメだ。父ちゃんに先立たれて、次は一人息子の鶴ちゃんまでなにかあったら、おっかさんどうすンだよ。麗央那と翔霏が相手にしようとしてるのは、そこらの怪魔なんてまるでメじゃない、正真正銘のバケモンなんだぜ?」
意外、でもないか。
軽螢は普段、なにも考えていないようでいて、こういうことは誰よりも真剣に心を配る男なのだ。
その証拠に、軽螢が厳しく否定したことで、お母さんの表情が一気に和らいだ。
気が気じゃないに決まってるからね、ヤクザみたいな外国人の船に乗り込むなんて。
シャチ姐に好印象を持っているのは私たちの個人的な感情なので、それを他の人と共有できるわけもないのだ。
「ひょっとして軽螢、鶴灯くんを仲間に入れるのに最初は反対してたの? それで宿屋で椿珠さんと喧嘩したとか?」
私は記憶の片隅にあった光景を引っ張り出して尋ねた。
「いいンだよ、今さらそんなこと。でもこれからの話ってことなら、鶴ちゃんが船で出て行くのは俺は反対だからな」
「メェ……」
軽螢の言う通りか。
ヤクザな立ち回りを繰り返していることにかけては、そもそも私たちだってシャチ姐に負けていない。
自慢にはならないけれどね。
そんな中に鶴灯くんを巻き込んでしまっては、お母さんも心配するし、鶴灯くんの街での評判にも悪影響があるだろう。
軽螢は早いうちからそのことを見越して、だからもっと「雑に扱っても平気な、都合の良い助手」を雇いたかったのか。
今に言っても始まらないので、これから先は、これ以上の危険を鶴灯くんに背負わせてはいけないと、軽螢なりの責任感から言ってるんだな。
けれどそんな軽螢の思案をよそに、鶴灯くんはこう言い放った。
「ゆ、揺れる船、長く乗るの、陸(おか)の、人には、き、厳しい。な、慣れてる、やつが、ついて、ないと」
「それなんだよな……」
賛成と反対を決めかねていた椿珠さんが、唸るようにごちた。
彼の脳内天秤は、鶴灯くんが私たちについてくれることの利点と、それによってもたらされる危険とが激しくグラグラして、まだ定まらないのだろう。
私は翔霏と目を合せる。
鶴灯くんも今、私たちに合わせて「自分の命」をバクチの真ん中に放り投げようとしているのではないか。
それを「手遅れ」になってしまっている私たちに、止める資格があるのだろうか。
優しく素敵なお母さんの目の前で、よくできた息子さんを狂った宴の場に連れて行っていいのだろうか。
わからない、私にはなにも答えられない。
こんなの習ってないし、こんな問題に今まで向き合ったこともなかったから。
「私がこんなことを言っても、お母さまの安心材料になるかどうかはわからないが」
今まで無言を保っていた翔霏が口を開く。
翔霏だって元々、照れなのか鶴灯くんに対する警戒なのか、彼が仲間入りすることに抵抗がある様子だった。
そんな翔霏がなにを言うのかと、私たちが注目する中、こう続けた。
「鶴灯が私たちに、海のことを教えてくれるなら、その代わりに私は、鶴灯を必ず守ると約束できる。私の目の届くところにいるのなら、なにが起こっても鶴灯を危険に巻き込みはしない。絶対にだ」
思いがけず助け舟を出された形になり、鶴灯くんが一番驚いた顔を見せた。
別方向で困惑するお母さんが、震える声で訊ねる。
「あ、あなたみたいな可愛らしいお嬢さんが約束してくれたって、それがなんになるの? 悪魔みたいな男が率いる荒くれものの兵隊たちや、あの蛉斬(れいざん)将軍の前で、いったいどれほどの力になるって言うのよ?」
問われて翔霏は。
いつも通りの、微笑と無表情の中間的なドヤ顔で、堂々と返答した。
「私は、翼州(よくしゅう)生まれの『地獄吹雪の紺』です。いくら慣れない海の上であろうと、切った張った、殴った蹴ったで私に勝てる人間はこの世にはいない。モヤシの妖怪軍師や、勢いだけのバカ大男など、指先一つで昏倒させてやります」
「え!? あ、あの『北方無双』があなたなの!? 戌族(じゅつぞく)一万人の頭を叩き割ったっていう、生きる伝説の!?」
お母さんが叫び、一同、唖然。
いやさすがに一万人は盛り過ぎだろオイィ!?
それよりも、今までは恥ずかしがって、必死にはぐらかしていた自分の正体を、翔霏は実に爽やかな顔で鶴灯くんたちに明かした。
尾州の魔人も南川の槍聖も、なにするものかと。
我こそは天下無双、地獄吹雪の紺翔霏であるぞと、自信満々に言ってのけたのだ。
「翔霏、お前……」
「メェ?」
その様子を、口を半開きにして戸惑うような面持ちの軽螢が見つめる。
私も同様に驚いている。
負けず嫌いの翔霏だけれど、こんな風にことさらに自分の武勇を他人にひけらかすようなことは、むしろ頑なに拒んでいたはずだ。
自分はあくまでも喧嘩に負けたことのない邑娘というだけであって、それ以上でもそれ以下でもないという冷静な現実主義的視点が翔霏の基本スタンスのはずなのだ。
それが今、お母さんを説得するために。
いや、そうじゃない。
鶴灯くんに、一緒に船に乗ってもらいたい、その気持ちに従って、慣れない見栄まで張っている。
「こ、紺、俺……」
「フヌケたツラをするな。やはり怖気づいたというのなら置いて行くぞ。私は一向に構わん」
鶴灯くんにぶっきらぼうに言って、そっぽを向いた翔霏。
ほんのりと、耳の先まで赤くしていた。
きっと翔霏の心が自由に導いて、思い描いたのは。
一緒の方が、楽しいのだろうという光景だったんだね。
「女の子にここまで言わせちゃったら、もう止められないじゃない、母親なんて……」
鶴灯くんのお母さんは、嬉しいような、けれど今にも寂しくて泣いてしまいそうな顔をしていた。
切なくてたまらないけれど、いつか私たちもその気持ちを味わうのかなあと思うと。
哀しいだけじゃない、なんだか幸せな気分にもなるのだった。
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