二百四十二話 まず椿より始めよ
新しく友だちになった異国の三人と、近いうちの再会を約束し、私と翔霏(しょうひ)は籍(せき)先生の中州へ戻った。
泉癸(せんき)さんへのお土産は台無しになっちゃったけれど、最初から存在しなかったものと思うことにしよう。
まだ彼女は来ていないみたいだし、大事な話をするなら今を置いて他にはないな。
「よう、どこをほっつき歩いてたんだ、勉強を放り出してよ」
椿珠(ちんじゅ)さんもちょうどその場に居合わせていて、籍先生にお酒を勧めていた。
軽螢(けいけい)と鶴灯(かくとう)くんは小屋作りの作業を切り上げて、帰るタイミングを窺っているようにソワソワしていた。
椿珠さんが酒を飲み始めてしまったので、その間を外しちゃったのだな。
「飲んどる場合かーーーッ! 商売の話の時間だオルァッ!!」
私は椿珠さんの手にある杯を奪ってそれを一気に飲み干し、景気を付けると同時に喉の滑りを良くする。
呆気に取られる男衆を尻目に私は、椿珠さんと籍先生に向かい合う形で座り、こう切り出した。
「籍先生、先日に入手した鯨の胃石のことを、椿珠さんに教えてあげてくれませんか」
「う、うむ? それくらいはお安い御用だが……」
先生は意図が掴めず首をひねりながらも、棚から龍涎香(りゅうぜんこう)と呼ばれる、鯨由来の香り石を持って来てくれた。
掌にそれを受け取った椿珠さんは、最初はなにかわからずに手触りや色、形をしげしげと確認していたけれど。
「なんだ、不思議な匂いがしやがるな。馥郁とも刺激とも言い難い、なんとも玄妙な香りだ。木や鉱石じゃあないみたいだが……」
さすがの鋭さを発揮して、それが持つ独特の個性にあっと言う間に気付いた。
「ある種の鯨の胃腸の中に溜まって形成される、貴重な香料の一種だよ。内陸の人にはまだほとんど知られていないだろうね」
籍先生の説明になるほどという顔を示す椿珠さん。
私の思惑通りにすっかり龍涎香に興味を惹かれ、しきりにくんかくんかと嗅覚を働かせ、香りを分析していた。
「妹は俺より鼻が利くんだ。あいつに渡せばどんな個性がある香料なのか、もっと細かく、巧い言葉で言い表してくれるだろう。とにかく大変なお宝なのには間違いなさそうだな。先生、もっと手に入らないんですかい? これじゃあまりにも小粒すぎる」
山っ気を出した椿珠さんに、籍先生は軽く苦笑いして首を振る。
「浜辺に運良く打ち上げられた場合しか、入手の機会はないのだよ。それもたいていは他のゴミ屑や石に紛れてしまって、素人ではまず見つけることは無理だね」
「鯨の胃から採れるということがわかっているのなら、その鯨を捕まえて腹を掻っ捌くわけにはいかないのか? 浜辺をちんたら探し回るよりも確実で早いだろうさ」
なおも食い下がる椿珠さん。
完全にこの胃石を「投資価値のある、美味しい商売」だと認識してくれたようだ。
しかしそれが容易ではない理由を、籍先生は丁寧に説明してくれた。
「昂国(こうこく)の漁師に、沖合で鯨を捕獲する習慣はないのだよ。だからそのための技術を持った人材もいなければ、適切な設備の船もほとんど存在しない。離れた島に住むごくわずかの民だけは、その習慣があるにはあるのだが……」
籍先生の説明に、鶴灯くんが言葉を重ねて補足する。
「し、島の人たち、今は、海賊が、怖くて、捕鯨を、ほ、ほとんど、できない。市場でも、く、鯨の肉、すごく、た、高く、なってる」
そう、海賊騒ぎが解決しない以上は、ただでさえ貴重な香石を入手するのが、ますます容易ではなくなったのだ。
「かぁーっ、そうそう美味い話は転がってねえなあ。まずなにより海の安全があってこそか」
悔しそうに頭の毛をかきむしって椿珠さんが唸る。
私はここで、鯨に関連するけれど、少しばかり方向の違う話題を差し挟む。
「籍先生は、鯨のひげについてもご存じですか? この街ではどれくらい活用されていますか?」
博学才英、博覧強記の籍先生は、予想通り私の問いにもすんなりと返す。
「もちろん知ってはいるよ。適度に硬くて細工にも向く、骨とも皮とも言い難いあの部材だろう。工芸品や楽器、からくり細工の一部に昔から少量ほど使われているが、まあなにせ手に入りにくい。珍品の類ではあるな」
有用性は一部で知られているけれど、大々的に日用されているわけではない、という答えだった。
クジラのひげはプラスチックに似た弾力と強度を持っているので、便利さが知られれば大きく商業利用される可能性があるはずだ。
けれど広く認知されていない以上、その価値も伝わりにくいだろう。
私は籍先生と椿珠さんを相手に、熱っぽく弁を振るう。
「鯨は余すところがないくらいに利用価値の高い動物だということは、私の故郷でも常識でした。骨も皮も、肉も脂も、希少価値のあるひげや胃石も、とにかく全身が良い商材になるはずです。一頭の鯨が生み出す最終的な利益と付加価値は、計り知れないものになると思います」
「そうは言ってもお前さん、その鯨を安定的に獲ってくれる漁師がいないんじゃあ、話にならんのだぜ。売るものがない商人なんざ、畑を持ってない百姓よりも役に立たねえんだからな」
「ぷぷっ」
椿珠さんの自虐的な発言が面白くてつい笑ってしまった。
農家の人は自分の畑がなくても他人の畑を手伝って働く体力と技術がある。
対して、なにも売るものがない商人は不貞腐れてやけ酒を飲むくらいしかできないという、自分の現状を嘆いた表現だ。
けれどね、椿珠さん。
あなたはちゃんと、売るものがない段階でも、自分から仕掛けられることがあると知っているはずだよ。
私はそのことを思い出させて促すために、こう提案した。
「商品を大々的に売る前から、みんなの評判を先に高めて期待値を煽るのも有効だって、椿珠さんが前に言ってたじゃないですか。僅かでも手に入る鯨の珍商品を玉楊(ぎょくよう)さんや翠(すい)さまのところへ送って、角州(かくしゅう)や皇都の河旭(かきょく)、椿珠さんの実家の環家(かんけ)を通じて前評判だけでも加熱させておきましょうよ」
まだ手元に売るものはないけれど、いつか売るのでみんな期待して待っててください、という作戦である。
なりふり構わずコネと伝手を総動員させれば、北部の内陸で「どうやら鯨の珍品は素晴らしいものらしい。良い儲けになるらしい」という噂と市場価値を高めることができる。
要するに椿珠さんのプロデュースで、市場経済の中に鯨バブルを仕掛けるということだ。
私の意図を的確に受け取った椿珠さんは、最初は驚いて明るい顔を浮かべたけれど。
すぐに不安と戸惑いの面持ちに変わって、こう返してきた。
「お、お前さん、自分の言ってることがわかってるのか? 商品は手元にないんだぞ? それなのに巷(ちまた)の評判だけ煽るに煽って、期待ばかり膨らませて、実際にモノが手に入らないと知られたときに俺たちの信用がどれだけどん底まで下がるか、理解してるのか?」
そう、商売というのは信用が第一なのだ。
期待した商品が手元に届かないというだけでも、お客を落胆させるのには十分だ。
それだけでなく、もしも事前契約でお金を集めちゃったりしたら、返還だ賠償だ、得られるはずだった利益に対する訴訟問題だと、拗れまくるに決まっている。
どんな商品がこの先受けるか、その商売の基本は、徹頭徹尾ギャンブルである。
けれど、ギャンブル要素を可能な限り減らすために、危ない橋を渡らないために、商人は誰よりも慎重にリスク管理をするもので、椿珠さんもしっかり弁えているのだね。
だからこそ、不安要素を取り払うために、椿珠さんに動いてもらう必要があるんだよ。
私が次に発した言葉。
麗央那乾坤一擲の、ナイスアイデアが炸裂する。
「鯨の捕獲は、東の海をうろうろしている外国の人たちにやってもらいます。彼らは外洋航海の技術があるはずですから、慣れれば鯨もたくさん獲ってくれるでしょう」
椿珠さんも籍先生も、仰天して目を真ん丸にした。
東海の人たちに同情的な鶴灯くんですら、驚きを隠していない顔だった。
「メェ?」
「難しい話だな、俺にはよくわかんねえや。そもそも海のこと知らんし」
ヤギと軽螢だけは、いつもの調子だった。
彼らにもわかるように、私は平易で丁寧な言葉で説明する。
「一口に海賊って言ったって、昂国に対して極めて攻撃的な勢力と、そうでもない『武装して自衛しているだけの、穏健派の船乗りたち』とがいるはずです。そう言う中立的な人たちと交渉して、鯨をたくさん捕獲してもらいます。集まった商品は一旦は椿珠さんが窓口として一手に引き受けて、肉や脂は近隣の街が消費する用に、珍品を皇都や北部のお金持ち用に流通させれば、すべて上手く行くんじゃないでしょうか」
椿珠さんの商人としてのアドバンテージ、最大の強みは「安定した販路、太い客のアテがある」という点だ。
質の高いものを安定的に入手できれば、それを捌く取引先を昂国でも、戌族(じゅつぞく)の暮らす北方でも、いくらでも見つけることができる。
むしろ現段階で地域の利権や政治的しがらみに縛られず、自由に遊撃的にその商売を差配できるのは、おそらく椿珠さん以外に誰もいないのではないか。
私の言葉を聞いて椿珠さんは、うーんうーんとしばらく腕を組んで考えに呻き。
一つの重大な問題、懸念事項に気付いて、問いを投げて来た。
「お前さんの話、大まかなところは理解したよ。しかし今この状況で、鯨を狩る技術と規模を持った東海の集団と、俺たちが交渉できる余地があるのか? まずそんな都合の良い相手を見つけることすら難しいんだぞ?」
相浜の街だけでなく腿州(たいしゅう)一帯は、東海の外国人たちに対する排斥、敵対感情が渦巻いている。
その環境で、昂国の民である私たちとまともな話し合いの場を持ってくれる東海の実力者が見つかるのかどうか、ということだ。
けれど私は一筋の、確証ではないけれどすがるしかない蜘蛛の糸を、見つけたばかり。
今まで黙って話を聞いていた翔霏が、私の意を汲んで言ってくれた。
「麗央那が助けた東海の連中か。あいつらに立場と力のある別の人間を紹介してもらうという考えだな」
「そう、あの人たちは海賊ではない真面目な人たちだけれど、その知り合いには『海賊なのか、武装して自衛している航海士なのか、判断が難しい人たち』がきっといるはず。直接は知り合いじゃなくても、間接的な繋がりを辿って行けば必ずそういう人たちに会うことはできるはずだよ」
世界中に存在するすべての人間は、知り合いの知り合いを七回辿れば全員が繋がっているという統計論がある。
適格な実行力を持った人、勢力にコンタクトを取ることができれば、そこから本格的に椿珠さんの見せ所だ。
「……要するに、俺にその半グレの海賊モドキたちを、鯨をせっせと獲るように口説き落とせ、ってことかよ」
自分のやるべきことが見えた椿珠さんが、重々しく言った。
知らない人を紹介してもらい、その人たちと利益について話し合うのだから、それなりの手間と時間、そして資金が必要になって来る。
椿珠さんの説得が失敗すれば、その投資と労力はすべて水泡に帰すのだ。
文字通り、泡を掴むような話だ。
けれど私たちが為そうとしていることは、まさに鯨を使って泡沫(うたかた)の夢を、昂国全土に広げ、その上前をはねるだけはねることなのである。
バブルが、弾けてしまう前にね。
みんなが黙って見つめる中、熟考に熟考を重ねた椿珠さんがやっと口を開く。
「ここが勝負どころなら、ケチケチ張ってもつまらんな。もし失敗したら西方に逃げて、坊主にでもなるか……」
手酌で蒸留酒を呷り、晴れ晴れとした顔で宣言した。
「岩山の街で妾の腹に生まれた俺が、鯨の儲けでお大尽になるなんて、そりゃあ面白い話になるだろうな」
「うんうん、面白いことが一番、大事だよ」
若い頃からずっと、いつも鬱々として退屈と戦っていた椿珠さんだからこそ。
これからは自分の手で、自分を面白おかしくして行かないとね!
豚もおだてれば樹に登るように。
岩山の拗ねた美男子も、調子づかせれば大海に躍り出て行くのさ!
「これが私の第一手目だ。頭のよろしいあんたはどう反応する?」
東の海で、海賊相手に忙しく戦う魔人の軍師さんよ。
私たちは、あんたの逆を行く!
海賊稼業より儲かる商売があるって、東の海の荒くれものたちに教えてやる。
あんたが夢中になってる慣れない海上での戦いを、無意味な泡と化して消し飛ばしてやるさ!!
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