二百四十話 大海を前にした蛙

 籍(せき)先生の知り合いに、街で評判のお医者さんがいる。


「彼に柴(さい)将軍の見舞いに行ってもらうように頼むとしよう。そのときに『街の若者から預かった、応援の声』という名目で、麗くんの書いた手紙を渡してもらうのはどうだろうか?」


 私たちの話を傍で聞いていた籍先生が、そう申し出てくれた。

 巻き込む形になるのは心苦しいけれど、そのやり方なら素性も分からないし、私たちの仕掛けだと追うことも難しいだろう。


「ぜひお願いできますか。すぐに書いちゃいますので」


 ご厚意に甘えて、私は早速に手紙の作成にかかる。

 けれど書く内容は、慎重を期さなければいけないな。


「除葛(じょかつ)を信用し過ぎると、必ずいつか痛い目に遭う」


 なんてバカ正直に書いてしまったら、もし姜さんに知られたとき警戒される上に、送り主が私だと確実にバレてしまうからね。


「私たちとあのバカ大男の間でしか通じない話を書くべきだろうな」


 横で見守ってくれている翔霏(しょうひ)が、ナイスな意見をくれた。

 そうだよね、私たちもたった一回とは言え、蛉斬(れいざん)と実際に会っているのだから、そこを使わない手はない。

 私は筆を執りすぅーと呼吸して、一気に、一文だけを書き記した。


「このまま進めば、腕が痺れるだけでは済みませんよ」


 差出人の名前もないこのメッセージから、蛉斬がなにかしらを受け取ってくれることを期待して。

 そして彼の性格上、巷(ちまた)のいちファンから送られてきた応援メールの内容に関して、わざわざ姜(きょう)さんに詳しく相談したりしないだろうという期待を込めてもいる。

 親書、いわゆる大事なお手紙は、当事者だけが内容を知るべきだし、そうでないと今回、ちょっと困る。

 快男子の蛉斬ならきっとその辺りは弁えてくれるだろう。

 ほんの少しだけでいい。

 姜さんがやろうとしていることに、傍らで戦う蛉斬がわずかながらでも疑心暗鬼になってくれればいいのだ。

 籍先生に手紙を預けて、私と翔霏は鶴灯くんに送られて宿に戻った。


「明日から、塾の隣に小屋を建てに行くかんな」

「メェッ!」


 食堂で待っていた軽螢(けいけい)が言う。

 椿珠(ちんじゅ)さんは飲み過ぎたのか、卓上に突っ伏してムニャムニャ言っている。

 こいつ、人が一生懸命、勉強している間によォ……!?

 ま、建築資材の手配とかに駆けずり回ってくれていただろうことは想像に難くないので、感謝していますけれどね。


「あの大男が、刺されただか斬りつけられただかという噂は聞いたか?」


 翔霏の質問に、軽螢はうんざりした顔で答える。


「誰も彼もその話しかしてねえよォ。いい加減鬱陶しいからなにか他に面白いこと言ってくれって感じだわ」


 そう言われて、黙っていられるこの麗央那ではないのであった。


「じゃあ私がとっておきの面白い話をしてあげよう。ヒツジとかヤギって、上の前歯がないんだよ? どうしてかって言うと、歯茎が歯みたいに硬くなるからなんだって。は、歯茎が、歯と同じくらい、固いんだって……! ぶ、っぶっぶぶっふぅひっぐぅ」


 一人で話して一人で受けて、こらえきれずに噴き出す私。

 この動物ウンチクをはじめて知ったとき私、笑いすぎてジュースが喉に詰まって死にそうになったんだよね。


「ガキの頃から知ってるよ、ンなこと……」

「メェァ……」


 物心ついたときから、半野良半家畜のヤギと戯れていた軽螢にとって、なに一つ新鮮さも驚きもない情報だったようだ。

 くそう、やはり出し惜しみせずにサメトークをブチ込むべきだったか。

 サメはなんたって、シックスセンスを持っていますからね。

 そんな風にいつもより少ししょっぱくて冴えない夜を越し、翌日からもまた私と翔霏は勉学に励む。

 数日を経て、軽螢、鶴灯くん、私、翔霏の四人で籍先生の中州に仮小屋を設営しているときのこと。


「麗くん、少しいいかね」


 壁や柱をああでもないこうでもないと組み付けていたら、籍先生が私を手招きした。


「はい、なんでしょうか」

「まったく申し訳ない話なのだが、私の友人に頼んだ、柴(さい)将軍への文書、どうやら受け取ってもらえなかったらしいのだ」

「ええ? 本当ですか? そりゃまたどうして?」


 意外な結果に転んでしまい、私は驚きを隠せない。

 あの蛉斬が、町民からの熱烈なファンレターを断るわけがないと思い込んでいたからだ。

 プライベートでは意外と気難しいタイプなのかしら?


「詳しいことはわからないのだがね、友人の話によると、その日に集まっていた野次馬の誰も、除葛や柴将軍の姿を見ていないそうだ。港に停泊していたはずの船も少し減っているようだと」


 私は驚いて叫ぶ。


「それってもう姜さんや蛉斬の部隊は出航しちゃってて、海賊討伐を始めちゃったってことじゃないんですか!?」


 少し身を引いてびっくりした様子を見せ、籍先生はいやいやと否定するように首を振った。


「街の噂を聞く限り、水軍の訓練はまだ総仕上げが終わっていないそうだよ。船がいくつか足りないのも、近海でなにかの訓練をするために出て行っただけではないかね」

「みんながそう思い込んでいるからこそ、そして蛉斬も毒で今は休んでいると思われているからこそ、姜さんはその意表を突いて動くはずです。敵を騙すまえに、あの人はまず味方をも油断させるようなやり口を好んでいますから」


 これはきっと、姜さんが近隣にばら撒いたブラフ、情報戦の一つだ。

 蛉斬が毒牙に襲われて、少し休まなければならない。

 そのように人々が認識しているのを逆手に取ったんだ。

 姜さんは今が攻めどきとばかりに夜討ち朝駆け上等で、近隣の海賊を血祭りに上げに行ったに違いない。


「手紙が届かないのもそうだが、完全に機先を制されているな。海賊たちだけではなく、私たちも」


 横に控える翔霏が忌々しげに言った。

 その通り。

 私は、私たちは、この期に及んでも甘く見ていた。

 除葛姜という男の思考と行動の速さを、すっかり見くびっていたのだ。


「ちょっと私たち、街に出てくる。お土産買って来るから許して」


 仮小屋の設営を軽螢と鶴灯くんに任せて、私と翔霏は出掛ける。


「えぇ~? まあいいけどさ。カニが食いてぇよ」

「か、カニなら、俺が、その辺で、つ、捕まえて、やる」


 孤立している三角州から、港街の喧噪へ飛び込む。

 市場に集まる人々の声を。

 彼らが姜さんをどう思っているのか、その生の感想を、私自身が確かめなければならない。

 大通りに面したあるお店の若いお兄さんは、客を呼び込みながらこう言った。


「おおい、お嬢ちゃんたち、学生さんかい? うちの店はあの中書堂の魔人、除葛先生も唸ったほどの魚の練り揚げを売ってるんだよ! これを食べれば難しい試験も合格間違いなしさ!」


 魚を食べると頭が良くなる、と言いますからね。

 特に青魚。

 浪人お姉さんの泉癸(せんき)さんへのお土産も含めて、とりあえずいくつか買っておく。

 また別の店のおばさんは、手に持った草履を高らかに見せびらかし、こう叫ぶ。


「はいはいみんな寄っといで! あの尾州の麒麟、除葛将軍御用達の履物はこの店で扱ってるよ! 都のお洒落を知りたい紳士淑女はぜひ覗いてってくんな!」


 どう見てもイグサで編んだ簡素な草履で、首都の河旭(かきょく)では老人か肉体労働者しか履いてないような代物だった。

 少なくとも都では、お役人さんや書生さん、ちゃんとしたとこのお嬢さんはみんな、沓を履きますのでね。

 もう、いたるところ除葛カーニバルじゃねえかよ、これ。

 本当にこの店で姜さんが買い物をしたかどうかなんて、どうでもいいのだ。

 姜さんの名前は、それだけで付加価値があるという空気に、相浜(そうひん)の市場はすっかり染まってしまっていた。


「たちの悪い冗談のような光景だな……」


 どこもかしこも、除葛、除葛。

 軍師なのか将軍なのか大先生なのかも分かっていない市井の人々が、彼の名を熱に浮かされたように唱え続けている。

 そればっかり聞こえてくる状況に気分を著しく害されて、私たちは人の少ない路地に逃げてしまった。


「私が油断してた。姜さんは、本気になればここまでやってのけるやつだってわかってたはずなのに、心のどこかで『そこまで突拍子もないことはしないでしょ』って思い込んでたんだ」 


 自分の不見識と鈍感さを呪うように私は一人ごちた。

 まさに今、この街は姜さんの手によって「狂奔、錯乱、無分別」の状況に落とされてしまっている。

 今は海賊退治という、わかりやすくまっとうな敵に対する戦いだけれど。

 いつか姜さんが、まったく無関係な人を「あいつが敵や」と名指してしまったら?

 誰もがその道理と善悪を考慮することもなく、姜さんの指し示す敵を打ち倒すために剣を取り、財産を投じ、命すら懸けるのだろう。


「しかし、評判が回るにしても早すぎる。まだモヤシがこの街に来てから数日しか経っていないはずだ。どうしてこんなに、狂ったように多くの人が夢中になっているんだ?」


 翔霏が知らない家の塀に背中を預けて問う。

 

「姜さんが街に着く前から、噂をあちこちにばら撒いてたやつらがいるんだよ。きっと乙さんとか、その仲間たちが」


 細工は流々、というあれだ。

 姜さんは仕上げにちょっと出て来るだけで、他の仕事はすべて、その前段階で完成している。

 今、私たちは決して姜さんと干戈を交えて戦っているわけではないけれど。

 もしそのときが来ても、こっちはなにもできず、なにもさせてもらえずに雑草のように刈られるのだろう。

 葛の葉を除けるように、なんの爪痕も残すことができずに掃いて捨てられるのだろう。

 改めて、そのことを深く思い知らされた。

 そのことに考えが及ばず、いつか姜さんをぎゃふんと言わせてやりたいなどと息巻いていた過去の自分を、小一時間問い詰めたい。 

 お前ごとき小娘が、あの魔人に対してなにかできるとでも思っているのか? とね。

 そう遠くないうちに街では、緒戦を見事に勝ち抜いた姜さんたちの話題で持ちきりになるだろうな。


「麗央那。物思いに耽っているところ悪いが、通りの奥でなにやら揉めている声と音が聞こえるな。喧嘩かもしれんが、どうする?」


 私が憤懣やるかたない思いで地面を見つめていると、翔霏がそう報告した。


「行こう。なんかムシャクシャするから怒鳴り散らして八つ当たりしてやる。私のイラつきの矛先を無関係な知らん人に喰らわせてやる。私の機嫌が悪いときに、たまたま近くでアホなことしていた自分の不運と愚かさを後悔させてやるんだ」


 実に最低な自分勝手な事情で、私と翔霏は路地裏を潜って行く。

 私たちが戦うのは、いつだって。

 正義のためではなく、自分のためなのだ。

 他の綺麗ごとを理由に、この大事な怒りを使ってやるものかよ。

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