二百三十八話 大鯨

 街が海賊退治の話題で浮かれていても、私たちのやるべきことは変わらない。

 もちろん、お勉強である。

 そのためにお国に費用を出してもらい、南部まで留学に来ているのだからね。


「この図を見ればわかるように、南東から来る荷物も、さらにその向こう、海の遠い遠い果てからもたらされている場合があるわけで……」


 地図を広げて参照しながら、籍(せき)先生の講義を聞く。

 日本に例えるなら、台湾や東南アジアは比較的に近いけれど、それらの国を通じてオーストラリアや南アメリカ、インドやアフリカの作物を買っている場合がある、ということだ。

 海は広くて大きいので、私たちが認識できないくらいにはるか遠方の地域、国々とも、商売などを通じて繋がっているということなのだな。


「先日に見せてもらった南伝大麦も、もともとはどこの国の産物か、わからないということですか」


 地図を見ながら自分の知らない国々に思いを馳せ、翔霏が尋ねる。

 赤みがかったトウモロコシのことだね。

 植物の専門家である籍先生も、素直にわからないという意味でその問いに答えた。


「いかにも。古書を読み解いた限りでは、陸地からの通商であの南伝大麦がこの地にもたらされた記録は、いまだかつて一度もないのだ。ならば近年になって海上輸送で遠い地域から伝来したに違いない、としか言えないのだよ。おそらくは昂(こう)王朝が始まって以降の話だろう」


 さすがに中書堂で学んだ経歴もある籍先生だけあって、古来の歴史記録にもしっかり目を通しているようだ。

 ほうほうと興味深くそんな話を聞き、講義に一区切りついてお茶の合間。

 

「お疲れさまです、みなさん。ちょっと市馬で面白いものを見つけたので、おすそ分け」


 私たちとは別に籍先生の講座を受けている、浪人学生のお姉さんが顔を出した。

 名前は泉癸(せんき)さんと言い、翔霏と同い年、私の一つ上らしい。

 相浜(そうひん)の街に勉強のために下宿しに来たそうで、ご出身はもう少し内陸に行ったところだそうだ。

 顔色が悪いからか、失礼ながらもう少し老けて見えるのは内緒だ。

 彼女が持ち寄った、なにやら石のような謎物質。

 受け取った籍先生はじっくり観察したのちに、その香りを嗅ぐ。


「ほお、鯨の胃石か。高かったのではないかね?」


 一発で正体を見破った籍先生に泉癸さんは少し驚いて、いえいえ、と首を振った。


「売っていた屋台の人も、これがなんなのか分かっていない様子で、単に珍しい石として並べていました。さすがは都で学んだ籍先生ですね。鯨の胃石が香料として極上の品であることもご存知だったとは、恐れ入ります」


 ただの石に見えたそれは、鯨の胃腸の中で生成される結石の一種であった。

 有名なのはマッコウクジラの胃石で、香料を生み出す鯨だからこそ「抹香鯨」という名前がつけられたのだ。

 別名で「龍涎香(りゅうぜんこう)」とか「アンバーグリス」とか呼ばれていて、香水の世界でも貴重な原料として有名。

 動物の胃石は香料や生薬として珍重されることが多く、価値のわかっている人にとってはそれこそべらぼうなお宝であり、高額で取引される。

 泉癸さんは運良くタダ同然の値段で、ほんの小さなその欠片をいくつか手に入れることができたようだ。


「畑のことだけではなく動物のことも詳しいのですね」


 感心した翔霏の言葉に、籍先生は気を良くして笑う。


「この街には長く住んでいるからね。海のことは嫌でも目や耳に入って来るさ。たまには鯨鍋も良いかなあ」


 すっかり夕食気分になっている籍先生をよそに、私と翔霏も胃石の香りを嗅がせてもらう。

 ぶっちゃけ、小さすぎるので私にはよくわからなかった。


「不快ではないが、なんだか落ち着かない匂いだな。慣れないからそう思うだけだろうが」


 私より鼻の良い翔霏は、評価するのも難しい、という態度を取った。

 媚薬にも使われることのある龍涎香、その魅力は私たちおぼこ娘には理解できないようでした、残念。


「ではまた明日も宜しくお願いします。ありがとうございました」 

「失礼します」


 私と翔霏は挨拶をして塾を退出する。

 近いうちにこの中州に小屋を建てて仮暮らしさせてもらう予定になっているけれど、まだ建築資材を揃えている最中だ。

 私たちと朝夕の入れ替わりで塾に通っている泉癸(せんき)さんは、夜の間に次年度に行われる中書堂の入試対策をしている。

 無試験で出入り自由を許されている私としては、少し申し訳ない気持ちになるのだった。


「おい、嬢ちゃんたち。あれを見ろよ。とうとう来たんだ。噂より、ずいぶん早いじゃねえか」


 帰りの筏に乗せてもらっているとき、渡し守のおじさんが川の上流を指差して、言った。


「なんだ?」


 夕暮れに染まった景色の中、翔霏に釣られて私も目を凝らす。

 視線の先から、大きな船の大群が迫る。

「謹」

 と大書きされた帆を風に膨らませて、静かに、しかし厳かに下って来たのだ。


「あ、あれが海賊討伐の水軍……」


 その偉容を前に、私は言葉少なに呆然とするしかない。

 いつだか蛉斬(れいざん)が乗っていた木造の中小型船ではない。

 船の一つ一つはそれよりも大きく、そして船腹が鉄板で補強されていた。

 織田信長や豊臣秀吉が西国攻めの際に作ったと言われる、鉄甲船のようなものだ。

 甲板には投石器がずらっと並んで固定されていて、おそらくは石だけでなく爆弾なども敵船にぶち込むように運用されるのだろう。

 船首は体当たり攻撃に最適化され、やはり鋼鉄製の尖ったツノが伸びている。


「あんな大がかりな船を大量に用意する時間が、どこにあったんだ?」


 翔霏も生まれて初めて目にする「戦闘するためだけの船の群れ」を見て、素直な疑問を持った。

 山の中で暮らしている人が、鯨の大きさを想像できないように。

 神台邑(じんだいむら)で生まれ育った翔霏にとって、その光景はまさしく未知の衝撃だったのだろう。

 まさに目を奪われるという表現しかできないほど、水の流れに従って進む船団を翔霏は食い入るように、身を乗り出して見つめていた。


「……きっと、姜(きょう)さんは都で謹慎させられてる間に、この日が来ることを見越して船を作らせてたんだ。自分は翠(すい)さまを眠らせた陰謀の角で尋問されてるってのに、気持ちと思考はすでに東南の海に向いてたんだよ」


 自分で口にして。

 私は、その想定がおそらく正しいのだという確信に、自分で慄然してしまった。

 いったい、あの男は。

 昂国(こうこく)の中のことも、北の国境を超えた先に住む戌族(じゅつぞく)のことも、東の海の果てにいる夷賊のことも。

 どれだけ、どこまで、見て、聞いて、知って、考えているんだ!?


「……先頭の船に、蛉斬が乗っているな。会ったときと変わらず、楽しそうに笑っているぞ。いい気なものだ」


 震える私の横で、目の良い翔霏が教えてくれた。

 私の目には点や線にしか見えない遠くの人影。

 一番高くひょろ長い線が、おそらく南川無双、柴(さい)蛉斬だろう。

 その手には長槍が握られているようにも見える。

 きっと彼は「槍聖」と言う二つ名の通りの、闘いの神もかくやという活躍をして、人々に喝采されるほどの武功を挙げるに違いない。

 戦場を、そして完璧な勝利をお膳立てをするための最高の参謀が、同じ船に乗っているはずなのだから。


「モヤシの姿は……見えんな」


 翔霏の視力でも見つからないのだから、船室に控えているのだろう。

 私はふと、思い出す。

 覇聖鳳(はせお)と姜さんが向かい合った、一年前の後宮の北の塀。

 姜さんは、戦いの極意と勝敗の道理を覇聖鳳に問われて、こう答えたのだ。


「兵は知見を以て貴しと為す。その知らざる見えざるは、すなわち戦わざるべきなり」


 知らない、見えない敵とは戦うな。

 当たり前の、しかし最も大事な金言。

 敵を知らなければ、見えてさえいなければ、そもそも戦いにすらならないのだと。


「私はまだ、姜さんの真意が見えない、わからない……」


 悠々と過ぎ去る船団を遠目に、私は一人、歯噛みして呟く。

 あいつがなにを考えているのか、今の私には知ることができない。

 もしそんな状況で、姜さんが私たちの前に立ちはだかったら?

 私たちのやりたいことと、姜さんのやりたいことが、どうしようもなくぶつかってしまったら?

 姜さんがもしも、私たちにとっての大事な人へ、危害を加えるような手段を取ったとしたら?


「わからない、私には、どうしたらいいのか、わからないよ」


 諦めにも似た言葉が、意図せずとも口から漏れる。

 どうか、どうかそうなりませんようにと。

 小さく無知な私は、筏の上で祈り続けるしか、できない。

 こんなことなら、中書堂に姜さんがいたときに、もっと彼のことを詳しく知っておくんだったよ。

 後悔先に立たずとは、よく言ったものである。


「よう、お疲れさん。あの船を見たか?」


 筏を降りると、桟橋まで椿珠さん、軽螢、ヤギが迎えに来てくれていた。


「すっごかったな! あれが沖に出て海賊と戦うんか? 見に行けねえのかなあ~」

「メェ~ッ!」


 軽螢とヤギは珍しいものを見られて、純粋に興奮していて楽しそう。

 近くにある手頃な長屋に空き部屋があるということで、下見に来た帰りのようだ。


「見たけど、まあ、とりあえずどうでもいいかな。私たちには実際あんまり関係ないと思うし」


 自分を誤魔化して問題から目を逸らすためか。

 それとも、仲間たちの明るい顔を見て心が軽くなったからか。

 私はそれすらも曖昧な状態で、顔だけは笑って帰路に着く。

 わからないのは、自分のことも、同じだ。

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