二百三十六話 殺すべき敵を新たに作り上げる能力

「医者の友人に話したら、連れて来ても構わないと言ってくれた。さっそく役人も呼呼んでくれたから一安心だな」


 相浜(そうひん)の街、川に近いよくある閑静な路地裏。

 私たちが東海の人の応急処置を終えたタイミングで、籍(せき)先生が朗報を抱えて戻ってくれた。


「念のために聞いておくが、お前は不法に入国した連中や海賊どもの仲間ではないんだろうな」


 足が痛くてまだ立てない男の人に肩を貸し、翔霏(しょうひ)が尋ねる。

 ちゃんと治療をしてあげてから厳しい顔で尋問するというのが、なんだか翔霏らしくて面白かった。


「モラッタ、キョカ。ミナト、オヤクショ」


 そう言って彼は首から下げた紐の先にある、許可証兼認識タグのような真鍮板を見せた。

 州庁が滞在と労働を認める、との内容が端的に刻印されている。


「なら安心だ。せっかく治療した相手が明日に縛り首にでもなってしまってはつまらん」

「アナタ、ハナス、コワイ……」


 なぜ殺した!? って叫びたくなるやつだね。

 すっかり翔霏に委縮した東海の男性は、その後も大人しく籍先生のご友人に診察され、お役人に引き渡されることが決まった。

 彼が無事に役所まで移送されて行くのを見送った後。

 まだ少し日が落ちるまでには時間があるので、私と翔霏は籍先生の塾に足を運び、様々な穀物の種子を見せてもらっていた。


「これがきみたちに見せたかった『南伝(なんでん)大麦(おおむぎ)』の種だよ。干からびてはいるが、水で戻せばちゃんと発芽する。この状態でも生きているのだ」


 カラカラに固まった小指の爪ほどの大きさの、小豆色の粒。

 色は違うけれど、私はそれがかつて当たり前に食べていたものの仲間だと直感で気付き、思わず呟いた。


「トウモロコシだ……」

「麗央那の故郷でも食べていたのか?」


 翔霏の疑問に軽く頷いて、私はその懐かしい手触りにしばし浸る。

 秩父のおじいちゃんは戦後の物資不足の中で幼少期を過ごしたから、お米よりもイモやトウモロコシをたくさん食べたもんだ、と話していたな。

 おトイレしたときのうんちの中からトウモロコシの粒が消化されずに残っているのを見ると、無性に悲しく、情けなくなったんだそうだ。

 そんなこともあっておじいちゃんは、あまりトウモロコシを好きじゃなかった。

 けれど私は大好きで、夏場は茹でトウモロコシを、おやつ代わりに、受験勉強の合間に、モリモリと食べてたのを思い出す。

 けれど今、手元にあるのは少量の乾燥種子だけ。

 残念ながら在りし日のように、トウモロコシをわんわんと大鍋で茹でて、ネズミやウサギのようにボリボリボリボリッと一心不乱に齧ることはできない。

 船が来ていたら食べられたのか、ちくしょうめぇ。


「買いたいものは手に入らないし、つまらない喧嘩やいざこざは起こるし、事前に聞いてた話とはずいぶん違うなあ」


 様々な関係者各位の顔を頭に浮かべながら、私は愚痴る。


「南部の蹄州(ていしゅう)と腿州(たいしゅう)は豊かで穏やかな土地だから、一揆も起きたことがないのよ。物騒なことは心配せずに、しっかり学んでらっしゃい」


 後宮にいる兆(ちょう)博柚(はくゆう)佳妃殿下は、出発の日にそう言って私たちを安心させてくれたのだというのに。

 昂(こう)と号する涼氏(りょうし)の王朝が建立されておよそ三百年前後になる。

 その長い期間、実際にこの二つの州は凶作にも内戦にも、そして外国からの侵略にも縁が薄く、平和な地域であったらしい。

 籍先生も遠くなりつつある安寧の日々を懐かしむように、こう教えてくれた。


「私が役人をしている間は、南部の豊かさを指して『蹄腿(ていたい)熟すれば、すなわち天下の食は足る』と言われたものだ。この二州さえ豊作なら、他の六州が仮に凶作であっても国民が食って生きる分には困らない、という意味だね」


 若干の誇張はあるけれど、それくらい農業生産や海運による食物の輸入が順調だった、という意味だろう。

 けれどその話を聞いて、私はまず頭に浮かんだ疑問をぶつけた。


「それだけ収穫量が豊かな環境なのに、籍先生はお米に代わる別の作物を研究していたんですか?」

「ああ。最初は外来の植物に対する純粋な好奇心だった。私もかつては中書堂で学んだ身だからね。天下に資する碩学たらんと思っていたものだ。しかし十五年前から始まった、八州全土を襲った冷害と洪水を前にして、ただの趣味では終わらせられない、一生を懸けるべき仕事だという使命感を得たのだよ」

「そうか、あのときの……」


 翔霏が沈痛な面持ちを露わにした。

 過去に神台邑(じんだいむら)を襲った冷害は、もちろん一部地域だけでなく昂国全体に大きな傷跡を残した。

 翔霏は物心つくのが早い子だったという。

 みんなが苦しんで死んで逝った惨劇をありありと記憶しているからこそ、神台邑のために献身奉仕する気持ちが極めて強いのだ。

 籍先生も当然、痛ましい時代を潜り抜けた当事者であり、噛みしめるようにして言った。


「思えばあの飢饉があったからこそ、食糧難に喘ぐ領民を扇動して『尾州(びしゅう)大反乱』も起こったのだ。天下万民の腹を満たすことは、すなわち国を平和に安定させることだと信じ、私は作物の研究と、今のように後進の育成に務めているのさ。麗くんと紺くんが、無私の心で東海の男を助けていたのを見て、その初心を思い出したよ。まことにありがとう……」


 そう言って、倍以上も歳の違う小娘二人に、籍先生は軽く頭を下げた。

 いや、それはとてもイイ話で、私としても嬉しい限りではありますけれど。

 ちょっと今、聞き捨てならない話が出ましたね?


「飢饉と食糧難が一因で尾州の乱が起こったという話ですけど、それはいったいどういうことでしょうか?」


 私の問いに、あくまでかつての公人として、今は市井の学者としての顔を崩さず、客観的な経緯だけを籍先生は述べた。


「恒教(こうきょう)の説くところに依れば、飢饉などの天災が起きるのは、ときの皇帝陛下が天の意志に逆らい、天に見放されたからとされる。そこを尾州の旧王族、除葛氏(じょかつし)の本流に当たるものたちは突いて『冷害を招いた昂王朝を天意に従って打ち払う』という大義名分を掲げて挙兵し、領民をも『救世の戦い』だと煽ったのだ」

「くだらん。寒い日もあれば暑い日もあるのは当たり前だろう。陛下になんの咎(とが)があると言うのだ」


 翔霏が吐き捨てるように言った台詞に、籍先生も同意の首肯を返して続けた。


「紺くんの言う通り。まさに恒教読みの恒教知らずというものだ。災害が起こったときに、民をどのように救済するか、そのためにどれだけ腐心なさるかが、天が主上に課された真のお役目であられる。先代の福城帝(ふくじょうてい)は、直ちに国庫を大きく開放し、窮民の慰撫にあたられた。なればこそ、乱の首謀者たちは民心を得ることができずに、短い期間で平定紂滅されたのだ」


 結果は私たちがしばしば聞かされたとおり、数千人の貴族士族層の斬首である。

 懲役刑や財産没収の憂き目に遭った人は数万を超えると言うから、規模の大きさは想像を絶すると言って良い。

 小獅宮(しょうしきゅう)で出会った山泰(さんたい)くんのご親族も、そのときに殺されちゃったんだよね。

 籍先生の話を聞き、私は頭の中で一本の線が繋がったのを感じた。


「みんながお腹を空かせているときに、貴族が民衆の怒りを煽って反乱を起こした。その貴族はみんな、姜(きょう)さんに首を刎ねられた……」


 ぶつぶつ言っている私に不審がりながら、籍先生が問う。


「除葛姜を、あの首狩り魔人を、知っているのかね」

「多生の縁がごちゃごちゃとありましてね。嬉しくもないのですが」


 考え事に夢中になっている私に代わり、翔霏が答えてくれた。

 私の思考はもう一段階、深い層へと潜っていく。


 食料の不足。

 貴族の反乱。

 皇帝陛下の裁可を得る前に行われた、有力者への厳罰。


 それが導き出す、あくまでも私なりの、仮定と推論とは。

 私が知る、除葛姜という男の心中に、きっとそのとき、確実にあったはずの動機とはなにか。


「……姜さんは威張ってるだけで財産を溜め込んでいた偉い連中を、文字通り『クビ』にしたんだ。内戦を理由にして、貴族たちが山ほど築いた富の蓄積を、そいつらを殺すことで他の人に配り直したんだ」

「いや、結果としては確かにそうなったかもしれないがね。尾州で乱が起きるということを、さすがの除葛も予測などできはしまいよ。なにせ彼の故郷だ。そんなことが起きて欲しいと微塵も思うまい」


 あくまで慎重で冷静な籍先生の言葉に、私は断固たる思いで首を横に振る。

 私の知る除葛姜という男なら。

 必要なときに、必要なことを。

 最小の手間で行い、最大の成果を上げるはずだから。

 答えは、こうに違いないのだ。


「尾州で旧王族が反乱を起こすように、最初の火種をきっと姜さんが用意したんです。調子に乗った連中を、皇軍を率いて皆殺しにしても許される条件と環境を、姜さんは自分で作り出したんです。すべて自分で仕組んでいたからこそ、彼の行動は電光石火の速さでいつだって進むんです」

「そ、そんな突拍子もない話が……」


 呆れて籍先生が言葉を失った、ちょうどそのとき。

 奥さんが勉強部屋に入って来て、こう告げた。


「夜の生徒さんがいらっしゃいましたよ。今日はこれが最後の筏なので、庵に泊まって行くそうです。麗さんたちも帰るなら今ですよ」


 籍先生が受け持っている別の学生さんが来たので、きな臭い話はここで打ち切られた。

 来たのは私たちより少しくらい年上っぽい、顔色の悪いお姉さんで。


「何度も何度も役所を通じて照会しましたけど、やはり私は今年も州試験の段階で落ちているそうです……籍先生、また一年、どうかよろしくお願いします」


 いつだかにお役所の庁舎で「私は中書堂の試験に受かっているはずだ」とゴネにゴネまくっていた、あの人だった。


「きみが頑張っていたのは私もよく知っている。しかし州試験を通ることがそもそも狭き門なのも確かだ。気を落とさずに、また一緒に取り組もう」


 居住まいを正し直した籍先生は、青ざめた顔の浪人お姉さんに向き合い、優しく励ましの言葉をかけた。

 お姉さんは私たちにも軽く目礼し。

 世間話ついでに、こんなことを言ったのだった。


「東南海の海賊騒ぎですが、とうとう『南川(なんせん)無双』の柴(さい)蛉斬(れいざん)と、彼の率いる『蹄湖(ていこ)四鬼将(よんきしょう)』が、本格的に海戦の訓練を始めて、討伐に当たるそうです。上手く行ってくれれば少しは落ち着いて学問に集中できますね」


 うわ、また出たよ蛉斬の名前が。

 彼も州公に委託されて治安維持を任されている立場なので、海賊退治に乗り出すのは自然なことだけれどね。

 川と海の違いはあるけれど、ちゃんと訓練すれば大丈夫だろう。

 ところでなんだよ、蹄湖四鬼将って。

 そんな強キャラっぽいやつらが、まだ蛉斬の手下には控えてるのかよ。

 カッコいいかもって思っちゃったじゃねーか、悔しいのう、ギギギ。


「せいぜい気合を入れてもらいたいものだな。船の荷がちゃんと届くようになるのは良いことだ」


 特に興味もなさそうに軽く言った翔霏に、浪人姉さんは複雑な笑みを浮かべて。

 まさかの情報を、付け足した。


「きっと万事上手く運ぶでしょう。彼ら海賊討伐の軍を統率するのは、なにをあろうあの尾州の魔人、除葛姜なのですから」


 私も、翔霏も、そして籍先生も。

 その名が今このタイミングで出て来たことに、驚いて絶句せざるを得ないのだった。

 あのモヤシ野郎。

 今度はいったい、なにを企んで動き出してやがる!?

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