二百三十二話 渡り蟹の結ぶ縁
帰り道に鶴灯(かくとう)くんから、カニをたくさんおすそ分けしてもらっちゃった。
幸せ~。
滞在している宿の比較的近所に鶴灯くんは住んでいたため、まだ街の地理に不案内な私たちを送ってくれるように、翔霏(しょうひ)が頼んだのだ。
「か、殻を剥ぐの、面倒かも、しれない、けど」
翔霏にカニを見せて、ここをこう割るといい、ここの肉が美味いと懇切丁寧に教える鶴灯くん。
ワタリガニを手早く解体するには若干のコツが要りますからね。
「いじっているうちになんとかなるから大丈夫だ。麗央那もカニは慣れてるみたいだしな」
「フフ、お任せあれ。私は汁物の出汁に使われている小さなカニの身まで箸と爪楊枝でほじくる女ですので」
中学の修学旅行で北海道に行ったときの昼食を思い出す。
函館の食堂で、お味噌汁にカニが入っていたのです。
私はそれを無我夢中でほじって食べていたのだけれど、クラスメイトの一人がこう言いました。
「……北原さん、それ、出汁だから、食べるためのカニじゃないよ」
私は間髪入れず、こう叫んだものです。
「私が食べたいから食べてるの! 好きなもの食べてなにか悪い!?」
以来、彼女は卒業まで、私に話しかけてくることはありませんでした。
はは、と麗央那の滑らない話を聞いた鶴灯くんは、軽快に笑う。
またお礼に行くからね、と言って私たちは別れ、宿に戻った。
「ウヒヒ、宿のお台所を借りて半分は塩茹でに、もう半分は鉄鍋で蒸し焼きにしよう。男どもに食わせるのが惜しいワ~~」
私は予期せぬカニに小躍りしたい気持ちで、宿の人に事情を話そうと中に入る。
「あ、麗央那と翔霏だ。お疲れさん」
「メェ~」
「お前さんたちも今戻ったところか、ってなんだその美味そうなカニの山は」
一階の待合で、先に帰った軽螢(けいけい)と椿珠(ちんじゅ)さんが、ヤギに草を食わせていた。
ちィッ、カニが全部でどれくらいあるのか、総量がバレてしまったぜ!
翔霏と私の分だけ、こっそり多めに確保しておこうと思ったのになあ。
ケチで悪いことを考えているとバチが当たるものだ。
極めて忸怩たる想いを抱え、私は台所へ。
「なるほど、これがエラで、ここが脚の付け根の筋肉で、ほうほうこの腱で脚を動かしているのか。単純なようでいてよくできているな」
さすがに動物の身体構造に詳しい翔霏だけあって、茹で上がったカニを少し観察しただけで合理的な捌き方をマスターしていた。
「この赤くてブヨブヨしてるの、なんだぁ? 怪我でもしたあとのカサブタかな?」
山育ちのため、大きなカニを見たことがない軽螢は、おっかなびっくりと言った手つきでモタモタとカニの殻を剥がしている。
ふ、素人め。
そんなに怖がらなくても、死んでるカニが指を挟んできたりしないっての。
「それ卵だよ。めっちゃ美味しいから。食ってみな、飛ぶよ」
と、優しく助言してあげる私が最初に引き当てたのもメスだった。
わぁいメスの子持ちワタリガニ、麗央那メスの子持ちワタリガニ大好き。
食べる前はいろいろ喋っていた私たちだけれど、食べ始めると途端に言葉がなくなってしまった。
しばしの間、一心不乱に殻を剥いて身をしゃぶる若者四人の光景を想像してください。
「いやあ美味かった。旅に出たならその土地の味を楽しまんとな。カニをくれた添(てん)って兄ちゃんにも、後で礼の挨拶に行かないと」
みんな揃って無言でカニをもっもっと貪った後の、まったりタイム。
さすがの椿珠さんも余計なウンチクを差し挟まないほどの、絶品の夕食だった。
カニはお喋りクソ野郎さえも黙らせる、神の食材……。
ぷりぷりのカニ身に全員が魅了され、幸せな余韻と静寂が食堂兼ロビーである一階の広間を包む。
「ややこしい下処理が要らずに食えるのが良いな。獲って来たものをただ茹でるだけでこんなに美味いとは。まさに私に食われるために存在するような生き物だ」
「随分と偉そうなこと言ってらあ。自分じゃ潜って獲れないくせに」
「うるさいっ」
「あんぎゃっ」
スケールの大きな翔霏の運命論と存在論に軽螢が呆れ、翔霏に腹パンチを喰らっていた。
けれど食後の雑談の中で椿珠さんが出した情報は、カニが美味しいのとは全く別方向で、決して明るいものではなかった。
「ところで、だ。海賊だのなんだのって話を少し街中で聞いてみたんだがな。どうやら東の海の向こうにある国の内戦が『治まった』から、海賊が増えたって理屈らしい」
「意味が分からん。どうして戦争が終わると海賊が出るんだ」
翔霏が怪訝な表情で訊くのに、同じく情報収集に当たっていた軽螢が答えた。
「戦(いくさ)が終わったことで、結構な数の兵士が仕事を失くしちまったんだってよ。でも向こうさんは畑を作る土地も少ない島国だから、足りない分を海に出て稼がなきゃならないってこったろうな」
「迷惑な話過ぎる〜~真面目に働け~~」
「メェ~~~」
うんざりして吐いた私のコメントに、ヤギも激しく同意しています、きっと。
椿珠さんがその状況に、商人ならではの推論を続ける。
「おそらくは連中も、いきなり内戦が終わって平和になっちまったもんだから、他の商売を知らんのだろうな。ある程度の時間が経って場数を踏めば、そんなやり方が最終的には上手く行かないことを思い知るんだろうが……」
現時点で昂国(こうこく)は海賊への対処が間に合っておらず、後手後手に回っている。
けれど被害が大きくなれば本格的な海賊退治の軍隊が組織されるはずだ。
そうなれば人口で負けている東のならずものたちは、昂国の大規模に編成された討伐軍には勝てない。
結局のところ、戦いとは数の問題なのだと椿珠さんは言っているわけね。
その前提を理解したうえで、私は一つの懸念材料を挙げた。
「北の戌族(じゅつぞく)を警戒するのに人員や資源を注ぎ過ぎてたら、海賊退治が後回しになっちゃうこともあるかな?」
私の疑問に同意と異論の半々で椿珠さんは答えた。
「可能性としてはもちろんあるだろ。しかしその心配がなるべく少なくて済むように、ここと同じく沿岸の土地である角州(かくしゅう)の公爵さまたちは斗羅畏(とらい)の蒼心部(そうしんぶ)と仲良くしようとしているわけだし、司午家(しごけ)が白髪部(はくはつぶ)と友誼を結んでいるわけだ。お国の方針ではそろそろ大規模な海賊狩りの軍が出動してもおかしくはないな」
「そっか、北の人たちと和平状態にあるのも、こういうときに活きて来るんだ」
政治に関わる人はほんと、いろんなことを考えなきゃならないんだなー、と改めて感心する。
私たちの視点を超えた難しい話は退屈なのか、軽螢が話題の次元を一つ下げて、まず現状目の前の問題点に移した。
「なんかこの街も物騒みたいだからさ。麗央那と翔霏が勉強する先生の家の近くに、宿を変えた方がいいんじゃねーかな。宿がなければ空き家とか借りてさ。予算を超えてはみ出す分のゼニは、椿珠兄ちゃんが出してくれるって言ってるし」
昨夜未明の殺人事件もだけれど、やはり雰囲気の良くない外国人たちが繁華街をうろついているらしく、軽螢はそこが心配らしい。
私と翔霏が勉強漬けの日々を始めてしまうと、軽螢と椿珠さんはただでさえ土地勘のない街を無防備のままフラフラと歩き回る羽目になるからね。
怖いからって宿の中に引き籠ってたら、はるばるこっちまで来た意味がそもそもなくなっちゃうし。
男子サイドも、私たちとは別方向からこの街でなにかしらの収穫を得たいと思っているわけだから。
納得したように翔霏が頷く。
「わかった。籍(せき)先生が暮らしている中洲の近くは閑静な住宅街だ。確かに治安はそっちの方が格段に良いだろう。ゼニカネに問題がないなら、そちらに移るのは私も賛成だ。塾に通うのにも楽だしな」
麗央那も異議なーし。
と、大事なことが満場一致で決まったのに加えて、椿珠さんはまだなにかあるらしい。
「住処の問題は片付いたとして、もう一つ俺から提案したいのは、相浜(そうひん)の街に詳しい案内役を一人、雇いたいと思うんだ。少し歩き回って痛感したが、ここは橋のない川や小島が多すぎる。余所者の俺たちが移動しようと思っても、どこからどう行けば川や水路を通行できるのか、地図を見ただけじゃあさっぱりわからん」
今日一日歩いて情報収集した軽螢も同じ不便を感じたのか、しきりに首肯して言う。
「翔霏が一緒にいれば、多少道に迷っても怖いことなんかねェけどさ。そうじゃないときに俺と椿珠兄ちゃんだけじゃ、やっぱ心許ないんだよ。案内もできて多少の用心棒にもなるようなやつを探さないとな」
「メエ、メエェ!?」
俺がいるじゃないか、水臭いぜ相棒? と激しく自己主張しているヤギは無視するとして。
「私もそれは良いと思う。やっぱ土地勘のある人と一緒に動いたほうが、街のことも詳しくわかるだろうし」
彼らの言うことはもっともなので、反論する材料はない。
全員の了解が取れた椿珠さんが、追加の条件を口にした。
「決まりだな。元気のある若いモンで、街の地理に詳しいこと。贅沢を言えば、小さい舟くらいなら自分で動かせるやつが良い。川沿いに住居を移すなら、俺たちも小舟くらい自前で用意する必要があるかもしれん。あとは最低限、信頼できそうな人柄ってところだ」
「そんなやつが、都合よくヒマしてるとは思えねえけどな。州庁で仕事を探してそうな連中を、根気強く当たってみるかァ」
あれ?
男子二人が挙げた条件に、完璧に合致する人がいる、気が、しますね。
私と無言で見つめ合った翔霏が、はあーと大きい溜息を吐いて、言った。
「……カニをくれた添という男が、まさにその条件をすべて満たしているよ」
どうやら私たちと鶴灯くんは、出会うべくして出会った運命の下にあるらしかった。
さっそく私たちは次の日に、鶴灯くんのお宅をお邪魔して次第を話し合うことに決めたのでした。
「なんか翔霏、嬉しそうじゃん」
「この顔のどこを見てそう言っているんだ!?」
私のちょっかいは、翔霏を怒らせるだけなのでありましたとさ。
このツンデレめ、私の目は誤魔化せんぞ。
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