②-9 気を吐く旋律、その先へ②

「大丈夫だ。別に残したって、誰も何も言わないぞ」

「……………………」


 少年は表情を曇らせるとすぐに目線を逸らした。半分以上残ったサンドを皿に戻すと、下をうつむいたまま一度だけ短く頷いた。男はポケットからハンカチを取り出し少年に向けた。


「一回、口を拭いた方がいい。それだと服につく」

「え、あ……。ありがとうございます」


 少年はハンカチを受け取ると、なぜか顔を覆ってしまった。小刻みに両肩が震えている。


「……大丈夫だ。大丈夫だから、な」

「……う…………」


 男は少年が驚かないように、ゆっくりとした動作で立ち上がると、ゆっくりと移動し、足音を立てつつ、少年の座る前にひざまずいた。そして、ハンカチを受け取ると、少年の口を拭っていった。


 少年が力を入れ、力んでいるのは、泣かないように必死でこらえているからだろう。瞳からは涙が溢れそうだ。


 グリットは、上着の右ポケットから銀に輝くそれを取り出し、少年の膝の上に置いた。


「黙って、持っていって悪かった。……大事なものだろう。これがなくて、不安だっただろ」


 少年は上半身全体を動かすように、首を横に振った。まだ肩が震えている。その仕草によって、ついに涙があふれてしまった。


「…………怖かっただろう」

「う……………………」



 少年の肩が大きく揺れ、嗚咽が漏れだした。


「痛かっただろう。傷も、目の見えるところに幾つも出来て」


 グリットはもう一枚のハンカチ少年に手渡すと、少年は抑えきれなくなった雫を拭っていった。落ちないように、右手で銀時計をしっかりと握っている。


「これは無事だ。どこも壊れてない。ほら、触って見てみろ」


 こくんと大きく頷いたものの、少年はハンカチを抑えたままだ。


「泣きたくてどうしようも無いなら、無理に笑ったり、元気そうにしなくたっていい。それでも泣き続けてしまうなら、それはそれで心配するぞ。でも、それはそれで別にあるだけだ。ちゃんと一度は自分の気持ちを受け取って、当たり前に泣いたらいい。一人で、溜め込まなくたっていいんだ」

「う、ん…………」



 少年は自然と泣き止み、深く呼吸をつき、落ち着かせているようだった。 グリットは少年の頭を撫でようとしたが、銀時計越しの小さな手に触れたため、銀時計越しに少年の手を優しく握った。

 そのあまりの手の小ささに、グリットは胸の痛みを感じながら、優しく包み込んだ。その手には、青いアザが見て取れる。


「……なあ、これがなんなのか。お前は知っているのか」


 男には長い間に感じたが、少年は一瞬で小さく頷き、嗚咽混じりで答えた。


「すこし。きいただけ」

「そうか。少しだけか」

「…………ごめんなさ………………」


 謝罪の言葉を言い終える前に、少年はついに泣くことをやめた。ハンカチから顔をあげ、男を見つめた。ハンカチを握る指に力が加わり、結局は涙が雫となりポタポタと落ちてゆく。

 男はひざまずいたままであり、改めて目線は重なった。


「どうして謝るんだ。別に、悪い事はしていないだろう」

「…………う、……わ、わかんないの」

「何がわからないんだ」

「お、おにいさん……ぼくの、おにいさん。あったことないの。ほんとうにわかんないの、なにもしらないの…………」

「うん。仕方がない、会ったことがないんだ。それは当たり前だろ」

「………………」


 少年はうなだれたまま、膝の上に上げられた銀時計を見つめた。グリットはためらいながら、少年のもう片方の手を優しく掴むと、銀時計の上に置いた。


「大丈夫だ。これは、お前のだから、な。お前がもっているんだ、な。これを持って、お兄さんを探せって言われたんだろ?」


 グリットは少年の手を両手で優しく包み込み、銀時計を握らせた。少年は右手で両目を拭いながらしっかりを頷いた。


「うん。今は食べれるだけ食べて、残ったのは皿に集めて、部屋に持って行こう。開いた皿は重ねて、俺がカウンターまで持ってってやるから、な」

「うん」

「うん。もう、いっぱいか?」

「……うん」

「うん。胸がいっぱいでも、お腹が空いてたって、入らないもんなんだ。サンドと、パンは持って行こう。ミルクはもういいか? 後は残していこう」


 少年は返事ではなく、大きく頷いた。もう涙は止まっているようだった。銀時計を大切そうに持ち上げ、大切そうに抱きしめた。グリットは空いた皿とカップをカウンターに運ぶと、少年の方を振り返った。


 少年は目を閉じ、愛おしそうに銀時計を胸に抱きしめている。窓からの光が差し込み、銀時計は輝きを増した。


 グリットはそれを邪魔しないよう、二つのパンを一皿にまとめると、片手に持った。そしてもう片方の手を少年に差し出した。


 少年はグリットを見ており、少し驚いたように目を丸くすると、その手を掴んで立ち上がった。


 多少よろけているものの、しっかりとした足取りで階段の手すりにつかまった。グリットは手を離し、少年を手すりにつかませると、少年の後に続いて階段を上がっていった。

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