②-10 気を吐く旋律、その先へ③
少年は部屋の扉を開けると、振り返って頷いた。表情は落ち着いており、やっと男も安心できた。
「部屋を閉め切って怖いと思うなら、ドアは開けておくが……。後、窓ももし開けたければ」
「大丈夫です。今はどちらも、閉めておきます」
「わかった」
グリットは皿をテーブルに置くと、椅子に腰かけた。少年はドアを閉めると、グリットの前の床に座った。
「え」
「え?」
「いや、そうじゃなくて……」
やはりというべきか、その様子にグリットは主人の幼いころの姿を重ねた。
「まだ病み上がりなんだ。せめて椅子かベッドに座るか、横になってもいいんだ、な?」
グリットは椅子から立ち上がると、再び少年に手を貸した。少年はやはり驚いた様子で手を取り、ゆっくりとベッドに腰かけた。カーテンも窓も閉め切っているものの、外からは労働が始まったであろう人々からの音が響いている。
「そうだな、まずは……。お前、名前は?」
「あ。ごめんなさい。僕はティトー、です」
「そうか、ティトー。俺もまだ名乗ってなかったんだから大丈夫だ。俺は、……グリットという」
「グリット、さん」
「ああ。ティトー、よろしくな」
「はい。よろしくお願いします」
照れくさそうに微笑む少年、ティトーの表情は柔らかくなったものの、やはり頬のアザはそのままだ。腰かけてわかったものの、特に足のアザが酷かったようであり、特に靴から見える範囲での内出血が痛々しい色をしている。
「もうわかったと思うが、銀時計を知る者だ」
「はい」
「ティトー、体で痛いところはあるか?」
「痛いところ……」
「そうだな、動こうとして痛みがある、とか」
「最初は、足が一番痛かったです。でも、もう大丈夫です」
ティトーは足に触れたが、やはり引きずっていた方の足首だった。足に触れなかった方の手には、銀時計が大切に握られている。
「痛みがあれば、無理はせずに言ってほしい。悪いが、医者は呼ばなかったんだ」
「はい。そうだったんじゃないかなって思いました。ありがとうございます」
「ティトー」
「はい」
「お前、俺が怖いか」
「……え?」
ティトーは今までで一番驚いた様子で目を丸くすると、そのままグリットを見つめていた。グリットはなんとか堪え、少年から視線を外さないように、直視しないように見つめた。
「……俺が憎く、怒りで溢れかえるとか、怨みに支配されるとか、その……恐ろしい、か?」
「え……」
耐え切れずに目線を外した男を見つめたまま、ティトーは少し考え事をしていた。そして、ゆっくりと横のチェストに手をかけ、ベッドから立ち上がった。椅子に座るグリットの前にしゃがみこみ、再び床に座った。そして、グリットの手に銀時計を押し当てた。
「あの、それは……グリットさんが、そうなんですよね」
「え、……え、俺? いや…………」
「………………僕、グリットさんのこと、怖くないよ」
ティトーは澄んだ瞳のまま、両者の目線の間に銀時計を持ってくる。自然に目線を銀時計向け、白銀の光の向こうに輝く光を見ていた。
「グリットさんは、これ、すごく大切そうに持ってたじゃないですか」
「………………」
「僕なんかより、ずっと大切そうにされてた。そう見えました」
「………………………………」
ティトーは目を銀時計に向けると、懐かしそうに語った。
「当主様よりも、もっと、ずっとずっと大切そうにされてました。僕の知ってるおねえさんが、ペンダントを持っていて、凄く大切にしてるの。それに似てたの」
ティトーは瞳の煌めきをより一層増すと、嬉しそうに微笑んで見せた。
「おねえさん言ってたよ。大切なものは、大切にしていきたいねって。いつも言ってた。おねえさんは優しいです。グリットさんと同じです」
グリットに銀時計を手渡すように、優しく手のひらに乗せると、人懐っこい笑顔で笑って見せた。
「この時計、グリットさんのなんじゃないの?」
「……どうして、そう思うんだ」
「………………笑わない?」
ティトーは恥ずかしそうにグリットを見上げた。
「いや、内容によっては笑ってしまうかもしれない」
「えーー」
ティトーは戯けている様子とは違い、すぐに大笑いした。初めて砕けて笑いだす少年に、グリットは初めて安堵した。
「笑わないように挑むよ。それでも笑ってしまったら、それは俺が悪いから。それに、嘲笑う様なことはしない、それは約束する」
「うん……」
ティトーは言いにくそうに躊躇いを見せていたが、決心したようで、再びグリットを見上げた。
「僕ね、声、……聞こえるの」
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