②-8 気を吐く旋律、その先へ①

 グリットの目の前の少年は、食堂のテーブルよりも背が低く、まだ至る所に痣が目立つ。少年はグリットを見上げたまま、表情を変えることなく佇んでいる。見覚えのある瞳は深淵に煌めきを放ち、深い群青は驚くほど澄んでおり、噂に違わぬ宝玉の煌めきそのものだ。肌は眠っていた時より青白く感じるものの、血色はよく見える。


「あの」


 少年はグリットに声をかけたが、グリットは表情を変えることなく立ち尽くしたまま少年を見つめていた。


「あの……」


 少年は一度目線を横に逸らすと、恥ずかしそうに遠慮がちにもう一度声をかけてきた。


「あ」


 漸く反応を返したものの、言葉が出ずに結局立ち尽くしてしまった。少年は目を逸らしたまま、椅子を見つめた。


「あの、座りませんか。ぼく、まだずっと立っていられなくて」

「あ」


 気の抜けた反応だけを返し、男は少年を見下ろした。少年はおぼつかない足取りで、椅子に戻ろうとしている。左足に遠慮しているように見える。


「わっ、と……おおお」


 少年は躓きかけ、椅子の背もたれを掴んだが、椅子ごと倒れかけた。


「大丈夫か!」

「あ、はい。びっくりした……」


 少年はすぐにバランスを保つと椅子の向きを直した。そのままゆっくり椅子に座ると、何事も無かったかのように食事に戻った。思い付いたような表情を浮かべたかと思えば、楽しそうに粉砂糖がたっぷりかかったパンに蜂蜜をかけ始めた。


「僕、このブロートヒェン好きなんです。あとこのアイントプフ。あと、このピーマンとね……」


 ブロートヒェン、パンに蜂蜜を掛けながら、年相応の笑顔で瞳を輝かせている。


「これ、絶対美味しいと思って、最後に食べようと思って、残していたんです」

「……サンドが、まだ食べ終わってないんじゃないか」


 少年は手前の皿にあるかじりかけのサンドを見つめた。小さな少年の口で食べるのは大変だろう。


「あ、はい。これはこれから食べます」


 そういうと、少年は蜂蜜をたっぷりと掛けたパンを皿ごと送ってきた。


「え?」

「ぜったい、おいしいですよ!」


 眼を輝かせ、無邪気に笑う。

 好きで食べずに最後まで取っておくと言っていたパンを皿ごと送られ、先ほどのタウ族とのやり取り以上に困惑していると、少年は更に付け加えた。


「でも、このサンドを食べたら、僕はもうお腹いっぱいです。でも、このサンド凄くおいしいんです、初めて食べました! 残せません!」


 そういうと、少年は小さな口を目一杯開けサンドに齧り付いた。一度の齧りで齧り切れず、もごもごした後にようやく口を離した。ベーコンの油やソースが少年の口から溢れている。目線を知り男を見上げると、口がいっぱいでしゃべれないと気づいたのか、慌てて飲み込もうとしていた。


「いや、そんな急いで食べなくていい。ゆっくり食べてくれ。食べ終わったらで、いいんだ。ちゃんとここにいるから、な」


 少年は三度頷くと、またサンドを頬張った。テーブルには他にも開いた皿が置かれており、少量ずつ盛られている。少年は一皿ずつ平らげていたった様子だが、さすがに量が多すぎる。


 病み上がりだというのに、こんな肉類や味の濃いものばかり食べて良いものか考えたが、少年が嬉しそうに頬張る姿を見ていると、その心配は無用のようだ。

 少年はカップにミルクを注ぐと、男の前に突き出してきた。


「ごくん。僕の飲んだカップですけど、もうミルクも飲めそうになくて、どうぞ! バックスも食べてください、勿体ないです」

「別に今急いで全部食べ切る必要はないぞ」

「え!?」


 少年は再び齧り付こうとした口を開けたまま声を上げた。口の周りにはソースが至る所についている。


「……作った大旦那も女将も、全部一気に食べきれるだなんて思っていない。食べきれなければ、後で食べたらいい。この…………バックスも、きっと美味しいだろうから、後でおやつにしたらいい」


 きょとんとしたまま固まる少年に対し、男は思わず笑ってしまった。

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