②-5 モルフォの羽化①

 食堂に人の姿はなく、椅子はテーブルに上げられたまま薄暗い空間を孤独にしていた。すると食堂に光が差し込み、食器のぶつかる音が響いた。見覚えのある女性が、屈みながらテンポよく室内を掃除している。



(あの人、食堂の女将さんだ)




「おい、ミランダ」

「はい」


 呼びかけられた女性は、箒を動かす手を止めず、声の主も見ずに返事だけを返した。声の主は男であり、咄嗟に殴打の痛みが少年を襲った。


「悪い、朝食のメニューを変更したいんだが」

「もう、そういう話はもっと早く言ってよ」


 少年は痛みに耐えると、慌てて体制を低くして身構えた。女性へ呼びかける声の主の男性が食堂へ入ってきたのだ。女性はそれでも掃除の手を休めることなく、箒で軽やかに掃き掃除を続けていた。


「悪い。材料は変わらない、というか変えないから」

「はいはい。掃除が終わったらすぐに行きますよ」

「悪いな」


 短い会話を終えると、声の主である男が振り返ったため、少年はのぞき込もうとした体を再度隠した。男の素性を見ることはかなわなかったが、声には聞き覚えがある気がしたのだ。


「……ねぇ」

「どうした?」


 ミランダと呼ばれた女将は掃除を終えたのか、椅子をテーブルから降ろし始めた。恐る恐る少年が見たときには、男の方も椅子降ろしを手伝っていた所だった。


「明日には発つって聞いてるけれど」

「ああ」

「てっきり、あの子が起きるのを待っているんだと思ってたから」


 少年は息を飲み硬直してしまった。もしかしなくても、会話のあの子とは自身のことだろう。腕の傷が痛んだのち、胸の痛みが遅い、胸倉を撫でた。


「昨晩、主に手紙を出すって言ってたから、もう合流日が迫っているんだろう。返答は判るから、不要だって書いてたみたいだぞ」

「そう。……そうね、元の予定からは三日過ぎてるわけだし。合流して、ここまで戻ってくるつもりなのかしら」

「それは難しいだろうな。この町は国境から一番近いんだ。あいつがこの町に来たのだって、本来なら絶対にありえない話なんだ」


 少年は会話の半分も理解できないが、額の圧迫感と胸の痛みを感じていた。男の顔を見ようとするものの、男は背を向けたままだ。


「ところで、変更するっていうメニューはなに?」

「ああ、それはな」




 男は少年に背を向けたまま、愛する妻を見つめ、両腰に手を当てて大きな声を出した。


「まずはシナモン効かせて粉砂糖をかけた、ブロートヒェン」


「贅沢に中にクルミを練り込んで……、そうだな。蜂蜜を添えてやろう」


「それから」


「子牛肉をブロックにして、長時間かけて柔らかく煮込んで、人参、トマト、豆を加えてさらに煮込んだグラーシュ」


「手間が増すが、お手製クロースを添えてやろう。俺の作るじゃがいも団子は絶品だぞ。素材の味を生かす素朴な味だ。一人二個つけよう」


「後は」


「うん、ザワークラウト。これは欠かせないな。ヴルストも二本つけよう。マチャンゲルベーレンを忘れるな」


「最後にプファンクーヘン。お前が作ってたラズベリージャムがあるだろう。あれをたっぷり中に入れてやれ。それを俺が油で揚げてやろう。おい、間違ってもマスタードは入れるなよ。俺がジャムドーナツにされる。そんでもって、俺はジャムドーナツですって誤訳したことにされるだろう。まあ知らないだろうけどな」


「ちなみに、だ」




「今言ったメニューは、病み上がりの坊主にだけの特別メニューだ。常人の病み上がりには食わせられないが、坊主には食えるだろう。そうだな、パプリカの肉詰めを、今日だけ特別サービスだ。苦々しいピーマンで出してやろう。それから、アイントプフ。ごった煮だ。」


 大旦那による怒涛の演説が展開されてゆき、徐々に女将ミランダの瞳が潤んでいった。大旦那は少年を見ることなく、下をうつむいたまま、ミランダの肩を抱くとそのまま一言だけ付け足した。


「顔洗って、壁に掛けてある服に着替えてこい。腹、減っただろ」


 女将であるミランダと少年は視線が重なるが、女将ミランダは溢れ出た涙を拭うと、そのまま厨房へ向かった大旦那を追った。


 少年はすぐに踊り場を後にすると部屋へ戻り、いそいそと用意された服に袖を通したのだった。



 外はもうずいぶんと明るく、その喧騒が嫌でも耳に入る。

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