②-6 モルフォの羽化②

 まだ薄暗い広場に人はおらず、恒例の朝の井戸列もまだない。広場の中央にはシンボルである噴水がある。噴水の周囲には花壇が置かれ、魔力操作された噴水が自動で花壇に水の霧を吹きかける。初めて町を訪れた際に噴水を見つけたときは感動したものだ。庭園によくあった光景であり、懐かしくないわけがない。


 あれからの天候は緩やかに穏やかであった。急激な変化があるわけでもなく、体が慣れるのと同時に暖かみを感じられる春だ。空は澄み渡り、山脈から降り注ぐ風は大地を浄化するようであり、土壌の改善も進んでいた。最も、セシュール、そして獣人たちの国フェルドのプロフェッショナルによる尽力が大きいのは誰もが判っていた。


「この町はもう十分復興できるだろう。主人が何より喜ぶ、何よりの土産話だ。それだけを伝えるため。ルゼリア領の情報も、期待なんてしてはいなかった…………」


 焦茶髪からは僅かに癖毛が遊び、グリットの風体を結論付ける役目を果たす。誰もいない広場で、幻影を見つめるかのように、ただただ噴水を見つめていた。少年がここで立ち止まっていたときに声をかけていれば、少年が暴行を受けることも、痛く怖い思いをする事もなかった。


「俺はまた、出遅れたんだ……。あれだけ後悔をしたというのに」


 いきなり知らない男が話しかけ、普通は困惑して戸惑うだろうが、周囲には見知った町民や復興事業者もいたのだ。不審がられるわけでもない。


「どちらかといえば、少年の方が目立っていたんだ。世話好きなセシュールの民、フェルドの獣人たちしかいない。放っておいても、誰かが声を掛けただろう。現に女が声をかけてたんだ。だから、なんだというんだ…………」



 それでも、グリットは少年に声をかけることが出来なかった。少年が銀時計を持つ少年であるということは、すぐにわかったのだ。大旦那も女将も、だからこそそれ以上に声をかけられなかったのだ。


 少年は主人の少年時代によく似ているだけではない。違うのは髪の色くらいだ。主人が欲しいと懇願していた色を持つ少年を、主人はどう思うだろうか。


「あいつは、主人の弟で間違いない。だが、どうして……」


 少年の髪色は大旦那の言う通り、シュタイン将軍と同じであろう。だがあの髪は、魔力によって変色させられている。それが判るのは、グリット自身がその魔法をかけているからだ。その魔法の癖は、掛けたことのある本人にしかわからないだろう。主人は魔法をかける際、苦虫を噛み潰したような笑みを浮かべ、自虐していた。だからこそ、周囲は彼に気づくことはないだろう。


「あの子の瞳は魔法じゃない。そもそも、王族の印ともいえる深淵のサファイアブルーを魔法で再現することなど不可能だ。あれは、そういうたぐいのものじゃない。シュタイン家のヘーゼル瞳問題だって、出来るなら解決してたことだ」


 

 グリットはまだ噴水を眺めたまま、黄金に輝く水の吹き出し口を眺めていた。かつて、友人に言われた言葉を思い出した。


「後悔というものは、感傷に浸るためにある。反省して改善がしたいのであれば、記憶を遡って冷静に分析をすべき。そして、それよりも優先すべき事案は…………」


 町の家々から人々が町へ繰り出し始めた。桶やツボを持つ男女が、井戸列を形成していく。


 列に並ぶという事がわかっていながら、彼らは特に急いだりしない。

 そこで偶然前後に並ぶ彼らとおしゃべりをしながら、番を待つのだ。セシュールの穏かな意識は、フェルドの獣人たちと相まって穏かな町を作る。主人は、ここまでの状況を詠んでいたとでもいうのだろうか。


「優先すべきなのは、目の前にある出来ることからやるということ。そして、出来ることなら楽しくやる。でなければ損、か……」


 友人の教えは、気が付けば現れた別の友人が口にし、いつかの母がそれを伝えようとし、父親がそれを口にした。わかっていても、それが出来るかどうかは心の問題なのだ。


 グリットは噴水や列の並びから離れ、食堂のある宿屋へ戻るのだった。

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