「石亭」余話①―賈充
最後に、「石亭の戦い」とは直接に係わりはないが、関連する幾つかの話題に触れておきたい。
先ず、「石亭の戦い」の結末に於いて、司馬懿と賈逵に遺恨があったとすると、その子である賈充が何故、晉の功臣となったのかという疑念が生じる。
これは単に、司馬氏の専権が確立していく流れの中で、大勢に逆らう事ができなかっただけ、と見る事ができる。しかし、賈充の積極さはそれだけでは説明できず、彼の為人が影響していると思われる。
『晉書』賈充傳(卷四十)には「充無公方之操、不能正身率下、專以諂媚取容。」とある。「公方(私心無く正しい)之操」が無く、「身を正す」能はず、専ら「諂媚」(媚び諂う)とある様に、自らの利益の為に節操が無いという人格が窺える。
この記述には、賈氏廢除後の批判的視点が介在していると思われ、割り引いて考える必要はあるが、賈充にはそう見做されるだけの言動があり、父の無念を意に介しない人物であったとも想像できる。
父についてはさて措き、賈充の家族に対する態度を窺わせる逸話を挙げれば、彼は最初、李豐の女(李氏)を妻としていたが、李豐が夏侯玄を司馬師に代えんとする密謀が発覚して殺されると、連座した妻が配流される儘にしている。
後に賈充は郭配の女を娶り、賈后等を儲けているが、更にその後、李氏は武帝(司馬炎)即位による大赦で帰還を許されている。その際、詔によって賈充には李氏・郭氏の「左右夫人」を置く事が認められているが、「自以宰相爲海内準則」を理由として、「築室於永年里而不往來」と、事実上、李氏の存在を無視する態度を取っており、李氏所生の二女が請うても「竟不往」であったと云う。
なお、賈充の後妻、郭氏の父である郭配の兄は郭淮であるが、その妻は王淩の妹であり、王淩の罪に連座する筈であった。しかし、郭淮は「五子哀母(『三國志』郭淮傳注『世語』)」を理由に宥免を請い、司馬懿に認めさせている。
二人の当時の立場(郭淮:車騎將軍・儀同三司・持節・都督雍・涼諸軍事;賈充:參大將軍軍事)や、司馬懿と司馬師の違い、或いは、所生が子・女という違いもあり、一概には言えないが、後の対応を見ても、親族への情愛の薄さは指摘できるだろう。
従って、父と妻女の違いもあるが、やはり、自身の為に、家族を顧慮しないという為人であったかに見える。
そもそも、賈充は最初から司馬氏の党与であったわけではない。賈充の初期の官歴は「拜尚書郎、典定科令、兼度支考課。辯章節度、事皆施用。累遷黃門侍郎・汲郡典農中郎將。參大將軍軍事、從景帝討毌丘儉・文欽於樂嘉。」というものであり、「參大將軍軍事」の「大將軍」は、直後に「從景帝」とあるように司馬師であり、これ以降、賈充は司馬氏の「腹心」となっていく。
司馬師が大將軍と為ったのは、司馬懿死後の嘉平四年(252)正月である。従って、司馬懿の存命中、賈逵は経歴に省略がなければ「汲郡典農中郎將」であったという事になる。
それ以前の「黃門侍郎」については、『三國志』鍾會傳注に引く何劭『王弼傳』に「于時何晏爲吏部尚書、……正始中、黃門侍郎累缺。晏既用賈充・裴秀・朱整、又議用弼。時丁謐與晏爭衡、致高邑王黎於曹爽、爽用黎。於是以弼補臺郎。……尋黎無幾時病亡、爽用王沈代黎、弼遂不得在門下、晏爲之歎恨。」と見え、「正始中」に何晏の挽きで就任している事が確認できる。
賈充は建安二十二年(217)生まれであるので、弱冠である青龍四年(236)頃、つまり明帝の末年から、主として「正始中」(240~249)、つまり、曹爽の輔政期に官途に就いた事になる。
「尚書郎」も当然、その期間に就任している筈である。そして、賈充を黄門侍郎に起用したのが曹爽の「腹心」である何晏である事から、当初は曹爽に近しい立場で任官した事が想定される。
これは前後して黄門侍郎に任用され、後に、共に司馬昭の「腹心之任」を担う事になる裴秀・王沈が、「爽乃辟爲掾、襲父爵清陽亭侯、遷黃門侍郎。爽誅、以故吏免。(『晉書』裴秀傳)」・「大將軍曹爽辟爲掾、累遷中書門下侍郎。及爽誅、以故吏免。(同王沈傳)」と、「爽誅」時に免官となっている事からも推定できる。
賈充には「辟爲掾」という過程が見えず、裴秀・王沈とは異なるとも言えるが、晉代には「尚書郎」は「辟公府」の後、縣令を経て就任するという流れが生じており、賈充の「尚書郎」がその早期の例である可能性もある。そして、その「公府」を曹爽の大將軍府と見做すのは妥当である。
従って、賈充も裴秀・王沈に比べ、関与が少ない可能性はあるが、当初は曹爽の党与として官歴を始め、正始十年の政変以降の過程の中で、司馬氏の党与に転じていったと見ることができるだろう。
なお、共に名が見える朱整の経歴は不明だが、最終的に廣興侯に封じられ、太康十年(289)に尚書右僕射で死去しており、賈充(太尉で死去)・裴秀(司空で死去)・王沈(驃騎將軍・錄尚書事で死去)等より地位は低いが、同様に司馬氏の党与に転じている。
これは、最初に述べた様に、司馬氏専権という大勢に逆らえなかったとも考えられるが、より積極的に、その党与となる事で、父の無念はさて措き、自己の栄達を望んだと見るのが妥当と思われる。
或いは、それ故にこそ、高貴鄉公殺害の一件に於いて、過剰とも言える司馬氏への忠誠を示そうとしたのではないか。
以上のように、賈充の親司馬氏の言動を以て、賈逵と司馬懿の遺恨を否定する事はできず、「石亭の戦い」の結末をめぐって、司馬懿と賈逵の間に何らかの確執が生じた事も否定はできない。つまり、同戦役に関する推論が成り立つと考える。
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