「石亭」推論③

 諸軍の齟齬の原因に賈逵の行軍があると推定したが、蔣濟などを含めたその認識から、いま一人の当事者とも言える司馬懿の動向が不分明である事も指摘できる。


 司馬懿については記録上、戦役への関与が薄く、齟齬の要因となるものがあるかは不明である。強いて挙げれば、陸遜の不在など荊州の情勢変化に対応していない事、張郃との合流後の夏口攻撃が行われなかった事に不審がある。

 前者については、張郃との合流を優先した事や、江陵の朱然の存在があり、全体の推移に与える影響は少なかったとも言える。後者についても、合流に時間を要する事までは、想定内であり、全体の推移、曹休の敗退によって中止されたと推測される。

 ただ、攻撃中止の理由が「會冬水淺、大船不得行(張郃傳)」とされ、曹休敗績が述べられていない事に疑問が残る。曹休の敗北に触れてはならない、逆に言えば、敗北に司馬懿、又は張郃の行為が関与しているとも受け取れる。

 この場合、張郃に憚るべき事由があるとも思えないので、司馬懿の為に記述を避けたという事になる。また、そもそも、記録の欠如そのものが、何かを憚った結果とも受け取れる。


 更に言えば、ここまで賈逵は独立した軍として見てきたが、賈逵は豫州刺史であり、司馬懿は「督荊・豫二州諸軍事(『晉書』宣帝紀)」である。徐州の東莞太守胡質も加わっているが、汝南太守の滿寵も含め、賈逵等の軍は、本来、司馬懿の統制下にあるべき軍である。

 刺史と督(都督)に直接的な統屬関係があるかについては明確でない。しかし、後年、揚州刺史文欽は「都督楊州」毌丘儉と共に反司馬氏の兵を挙げ、揚州刺史樂綝は逆に反司馬氏の兵を挙げようとした「都督楊州」諸葛誕に殺されている。

 これ等は刺史が都督の指揮下にある例とは言えないが、少なくとも、軍事的に行を共にすることがある事例とは言える。また、後年の滿寵と王淩に、軍事に関する事例が見える。


 其明年、吳將孫布遣人詣揚州求降、辭云:「道遠不能自致、乞兵見迎。」刺史王淩騰布書、請兵馬迎之。寵以爲必詐、不與兵、而爲淩作報書曰:「知識邪正、欲避禍就順、去暴歸道、甚相嘉尚。今欲遣兵相迎、然計兵少則不足相衛、多則事必遠聞。且先密計以成本志、臨時節度其宜。」寵會被書當入朝、敕留府長史:「若淩欲往迎、勿與兵也。」淩於後索兵不得、乃單遣一督將步騎七百人往迎之。布夜掩擊、督將迸走、死傷過半。初、寵與淩共事不平、淩支黨毀寵疲老悖謬、故明帝召之。既至、體氣康彊、見而遣還。(滿寵傳)


 太和五年(231)の事だが、吳將孫布が「降を求」めた事に対し、揚州刺史の王淩は「兵馬を請うて之を迎えん」とするも、都督の滿寵が「必ず詐」あらんとして、兵を与えず、王淩は滿寵の不在に乗じて、「一督將步騎七百人」を派遣したが、孫布に撃破され、「死傷過半」に及んだと云う。

 ここで、王淩は出兵の可否は兎も角、「兵馬」を滿寵に求めており、少なくとも兵の動員という面では都督の隷下にある。

 刺史が単独で軍事を行っている例も多く、一概には言えないが、都督(諸州)諸軍事の存在意義からしても、刺史は軍事的に都督の統制下にある。従って、「石亭の戦い」に於いても、賈逵は司馬懿の統制下に、具体的な指示・命令は受けないにせよ、少なくとも影響下にあったと言える。


 そもそも、西陽と宛・襄陽間は合肥・皖間に比して近距離にあり、連絡が容易である。従って、賈逵が司馬懿からの指示・伝達によって行動を決していた可能性はある。

 つまり、賈逵の不可解な迂回、或いは遅滞は司馬懿に原因があった可能性も指摘できる。例えば、賈逵が司馬懿による夏口攻撃、早期にそれが行われる事は無いという情報を得ていれば、それを前提にして、「賊無東關之備、必并軍於皖」という認識を抱いたとも考えられる。

 具体的な指示などは無かったとしても、賈逵の行動範囲は最終段階の廬江郡を除けば、基本的に豫州であり、司馬懿の管轄下にある。その点では、賈逵の行動に対する責任の一端は司馬懿に帰されるとも言える。つまり、諸軍の齟齬の要因が司馬懿にあるかは別にしても、その結果には司馬懿にも責があったと見做される。


 司馬懿に敗北の責(の一端)があったならば、これまで見てきた様に、『三國志』にそれが記される事はないであろう。また、諸『晉書』などの司馬懿に関する記述が、太和二年から三年に掛けて沈黙しているのも、そこに理由が求められるだろう。

 当時に於いては、曹休・曹眞に次ぐ輔政者であれば、主原因が司馬懿にあるのでなければ、記述を避けるという事も考えられる。


 以上から、「石亭の戦い」に於ける諸軍の齟齬は、賈逵の行動に原因がある事、そこには司馬懿の影響がある事、何れも推測だが、その二点の可能性が指摘できる。そして、『三國志』などの編纂時における司馬懿・賈逵の取り扱いを考えれば、その記録が残されていない事に不審はない。


 では、当時に於いては、この事実はどのように扱われたのであろうか。司馬懿に関しては曹休が敗北の責を問われていない事を思えば、仮に責があるとしても、不問に附された事は想像に難くない。まして、曹休の死後に司馬懿をも排除すれば、輔政、殊に軍事を担うのが曹眞独りとなる。それは軍事面から、そして、曹眞の存在が突出する事を避けるという面からも好ましくなかったであろう。

 或いは、曹休への「禮賜益隆」という措置も三者の均衡を崩さないようにする為の措置であったかもしれない。曹休・曹眞・司馬懿の関係についての考察は、憶測にしかならないのでこれ以上は触れない。


 次いで、賈逵については、記録上では彼も罪を問われてはいない。しかし、死の時期が不分明な事、諡が当時のものであるかについての疑念は、既に述べた通りである。

 これ等と上記の検討結果を鑑みると、賈逵の豫州刺史離任は免官ではないにせよ、責を負っての一種の「勇退」に近いものであったのではないか。そうして見ると、賈逵は死去時に「受國厚恩、恨不斬孫權以下見先帝。喪事一不得有所脩作」という言葉を残しているが、殊更に無念を言い立てているようにも聞こえる。

 その無念であるが、齟齬が賈逵に原因がなければ、純粋に征吳(「斬孫權」)を果たせなかった事への念い、或いは、曹休との確執を踏まえた言と受け取れるが、司馬懿の関与があったものとして考えると、その関与によって責を負わされた事への恨みとも取れる。

 その点では、司馬懿が王淩と賈逵の「癘(祟)」によって憂死したと云う、王淩傳などの記述は示唆的である。


 以上、推論ではあるが、司馬懿の関与によって、魏軍全体、殊に賈逵の行軍には齟齬が生じ、それが直接の原因ではないが、曹休の敗退という結果に繋がり、その責は基本的に不問とされたものの、実質的には賈逵に負わされたのではないか、という結論となる。

 これは飽く迄も、根拠の薄い推論であるが、諸々の不審を解消し、記録の不備も説明できると考える。

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