「石亭」推論②
曹休に諸軍の連動へ齟齬を来す要因が無かったとするならば、次いで考慮すべきは賈逵である。
既に見てきた様に、その行軍経路は不明朗であり、想定される経路と、実際の位置が一致しない。再確認すれば、賈逵は「東關」(鄂)に向かっていた蓋然性が高いが、曹休と合流するのが困難である。にも拘わらず、合流の命令は為されている。一方で、東關(東興)に向かっていたとすると、合流が可能である筈が、果たしていない。
この事態を説明するには、二つの想定が考えられる。まず後者について、詔を受けた地点が朝廷の想定より後方であった可能性が考えられる。つまり、朝廷は、「五將山」より皖(夾石)に接近した地点に賈逵が在るものとして、「合進」の指令を発したが、賈逵はその地点に達していなかったので、予定の時点までに合流を果たす事ができなかった、という事になる。
予測された地点より後方に賈逵が位置していたのだから、詔(勅使)は多少予定より早かったにせよ、至る事ができる。一方で、想定より後方に位置していれば、当然、合流には想定以上の時間を要する事になる。曹休の許には、朝廷の想定が伝えられたであろうから、賈逵が遅れたという認識になる。
但し、この想定では、詔を受けるまで、賈逵が後方で何をしていたのかが全く不明になる。しかも、遅滞に正当な理由があれば兎も角、明らかに賈逵の過失であり、記録上にせよ彼の罪が問われなかった理由が説明できない。
そこで、いま一つ考えられるのは、前者について、詔を受けた後の経路が朝廷の想定と異なっていた、という可能性である。つまり、朝廷は合流が可能な(つもりの)命令をしていたが、賈逵がそれとは異なる経路を採った為に合流不可能となった、という事になる。
これも賈逵が命令に違背しているという点では同様だが、理由如何によっては正当化、容認される事もあったのではないか。
では、如何なる経路を辿れば合流が可能であっただろうか。その候補となるのは、先に側背に攻撃を受ける事などを理由に排除した、大別山脈の南麓を行軍する経路である。この経路を賈逵が辿ったとは考え難いが、この想定の場合は、実際には異なる経路、北麓を経由したと考えるので、問題はない。
また、攻撃を受ける可能性については、周魴の「書三」に「江邊諸將無復在者、才留三千所兵守武昌耳。」とあり、武昌(鄂)を守る「三千」以外に「江邊諸將」はいないとされている。
朝廷がそれを鵜呑みにはしていないだろうが、賈逵が「賊無東關之備、必并軍於皖」と認識しているのと同様に、吳軍が曹休に集中していると見做せば、賈逵が攻撃を受ける可能性は低いと見る事もあるだろう。
因みに、『元豐九域志』に依れば、賈逵が経由した西陽(弋陽郡)の南、蘄春郡(蘄州)は「西北至本州界二百五十里、自界首至光州三百里。」であり、「東至本州界一百五十五里、自界首至舒州一百五十里。」と云うので、約450(宋)里で舒州(皖)に至る。
壽春・皖間が475(宋)里程であるから、賈逵が西陽(光州)から既に「東關」方面へ南下していたなら、曹休が皖に至るまでに、充分に到達できる距離に見える。また、蘄春からは「東」する事にもなる。
従って、或いは、だが、朝廷が想定し、曹休が認識していた賈逵の経路は、この大別山脈の南麓を行軍して、皖に向かうものであったのではないか。しかし、賈逵は引き返して北麓を行軍し、予定より遅れて夾石に至った。これが互いの認識に齟齬をもたらしたと考えられる。
ただ、この場合、前方とも言うべき西から現れる筈の賈逵が、後方(北東)の夾石に現れた事を、曹休が「進遲(後期)」と認識するか、である。
曹休は賈逵の到着を待っており、仮に到着予定の前に戦端を開いたとしても、程無く合流すると思っていた筈で、それが現れなかったのであれば、「進遲(後期)」という認識を抱くのではないか。
また、「進遲(後期)」と記すのは『魏略』・『魏書』であり、『三國志』では曹休が何を問題としたのかは不明である。従って、本来は合流を果たさなかった事を問題にしていたが、それを両書が「遲(後)」という問題にしている可能性もある。
また、賈逵が何故命令と異なる経路を採ったかも不明である。理由としては、伝達の不備や、攻撃を受ける危険性を重視した事などが考えられる。この推測を是とすれば、齟齬の原因は賈逵にあった事になるが、『三國志』などは賈逵の不利を記さないであろうから、触れないのは当然とも言える。
この賈逵の行動が当時に於いて、「不問」とされているのは、曹休の窮地を救った事と相殺された、或いは、伝達の不備など賈逵のみに落度があったわけではない、などの理由が考えられる。
ところで、この想定では、賈逵は「無東關之備」と認識し、鄂(「東關」)に迫りながら、転進した事になる。これは命令に従ったという事もあろうが、鄂攻撃には江水を渉る必要があり、攻撃が困難な事、吳軍が引き返してきた場合に挟撃される恐れがある事を慮ってかと思われる。
但し、この賈逵の認識にはやはり、司馬懿の夏口攻撃の可能性が考慮されていない。
以上の如く想定した上で、改めて賈逵傳を見直せば、戦役の終局部分は以下の如くある。
逵據夾石、以兵糧給休、休軍乃振。初、逵與休不善。黃初中、文帝欲假逵節、休曰:「逵性剛、素侮易諸將、不可爲督。」帝乃止。及夾石之敗、微逵、休軍幾無救也。
「振」とあるのみで、「還」・「不沒」を言わないのは既に指摘したが、「振」には「すくう、助ける」の義もあるものの、ここは「休軍」が主語となっているので、「ふるう、ふるいたつ」であろう。
そして、やや唐突に曹休と賈逵の「不善」を云い、その「不善」な曹休を賈逵が救ったという文脈である。しかし、「逵
また、曹休の嘗ての賈逵評も、当否が判断し難いが、「侮易諸將」については兎も角、「性剛」は諡とも通じ、当を得ているとも言える。その点では、必ずしも曹休の悪意のみの言ではないと思われる。つまり、この部分で陳壽は中立的な記述をしている。
その上で、『魏略』・『魏書』の云う賈逵の「進遲(後期)」について触れず、「微逵、休軍幾無救」とのみ記すのは、「進遲(後期)」をめぐる争いは真実ではない、或いは、賈逵に理がなく、功は曹休の「無救」を無からしめた事のみ、と見做したからではないか。
つまり、賈逵の落度については触れないが、一方で、「進遲(後期)」について賈逵を擁護する事もなく、曹休軍を「救」った事のみを云うのが、陳壽の「審正」であったと考えられる。
なお、「進遲(後期)」について『魏略』は「遂與休更相表奏、朝廷雖知逵直、猶以休爲宗室任重、兩無所非也。」と曹休・賈逵が共に上表した事を云うが、『魏書』は「休猶挾前意、欲以後期罪逵、逵終無言、時人益以此多逵。」と賈逵は「無言」であったとし、賈逵の潔さを強調しているかに見える。
また、『魏略』が「逵直」としながらも、「兩無所非」と両者共に「非」は無かったとしている一方で、『魏書』は「多逵」と賈逵を称揚している。『魏書』に「猶」とあるので、「兩無所非」とされた後も、なお曹休が「挾前意」であったとも受け取れるが、曹休の死まで最大でも一ヶ月程度、賈逵も同程度で死去したと考えると話が冗長になる。『魏書』が賈逵の正当性を、より際立たせようとしているのだろう。
ところで、賈逵の罪とされる「後期」であるが、『三國志』本文に於いては他に見えない語で、注の『魏書』及び、毌丘儉傳注の『魏氏春秋』でしか使用されていないが、他書には散見する。
そして、その罪が認定された場合、刑は「斬」である。西漢武帝の対匈奴戦では、李廣が「失道後期」を以て自殺し、張騫などは爵によってその罪を贖っている。
また、この「後期」は純粋に「期に
(永建)二年、勇上請攻元孟、於是遣敦煌太守張朗將河西四郡兵三千人配勇。因發諸國兵四萬餘人、分騎爲兩道擊之。勇從南道、朗從北道、約期俱至焉耆。而朗先有罪、欲徼功自贖、遂先期至爵離關、遣司馬將兵前戰、首虜二千餘人。元孟懼誅、逆遣使乞降、張朗徑入焉耆受降而還。元孟竟不肯面縛、唯遣子詣闕貢獻。朗遂得免誅。勇以後期、徵下獄、免。(『後漢書』班超傳/班勇)
ここで、班勇は「約期」した張朗が「徼功自贖」する為に「先期」したにも拘らず、「後期」によって「徵下獄」され、「斬」こそ免れたものの、免官になっている。しかも、班勇の場合は「卒于家」とあるので、汚名返上の機会も与えられなかった事になる。
東漢代の例であり、この一例だけでどこまで普遍化できるかは不明だが、「後期」に対する認識の一端を知る事ができる。
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