「石亭」推論①

 ここまで挙げてきた論点を元に、「石亭の戦い」の実態について推論を述べてみたい。但し、これは「推論」と言うように、根拠となる史料が不足しているため、推測に推測を重ねる、「論」とは言えないもので、また、結論と呼べる程のものではない。


 戦闘に至る経緯については新たに述べるような事は無い。だが、そこに至る前段階、出征前の事情についてはやや考慮の余地がある。つまり、太和二年「春」の蜀の北進、所謂諸葛亮の「北伐」と、曹休・司馬懿及び賈逵等を以てする「征吳」の関連である。言い換えれば、蜀撃退の余勢を駆って吳を攻撃しようとしたのか、逆に、蜀に連動した吳軍の動きに対応したのか、である。

 明帝紀では四月条に「論討亮功、封爵增邑各有差」とあり、この時点で蜀への対応は一区切りとなったと見做していいだろう。曹休の敗北は「秋」であるから、夏季を休息・準備に当て、秋を待って出征したとすれば、「余勢を駆って」は兎も角、蜀の策動、再侵攻が無いのを見極めて吳を討とうとした、と言える。


 一方で、吳主傳の「夏五月、鄱陽太守周魴偽叛、誘魏將曹休。」に従えば、軍を動かしたのはこれ以前であり、「春」の蜀軍に連動した吳軍に対応したものである可能性が高くなる。

 しかし、この場合、周魴の「偽叛」が五月でありながら、曹休の敗退は九月、吳書に従っても八月であり、二ヶ月から三ヶ月の間が生じる。この期間に、賈逵に「合進」の詔が下ったならば、彼が曹休に合流しなかった理由がいっそう不分明になる。五月は周魴に命が下された時期と見るのが妥当だろう。

 そもそも、魏はほぼ隔年で「征吳」を行っており、諸葛亮の出撃がなければ、文帝崩御から二年を経たこの年にも吳攻撃が予定されていた可能性がある。その「征吳」は結末から言えば、曹休が主導していたとも思えるが、司馬懿や豫州勢なども動員されている事を考えれば、魏全体として企図されたものであろう。

 ともあれ、司馬懿や賈逵の言を見ても、吳の攻勢に対応する為と言うより、積極的な意図の下、行われたものと考えられる。ただ、曹休はこの戦役に最も積極的な人物であったとは言えるだろう。


 さて、その戦役であるが、経緯についてはこれまで見てきた通りである。結末についても、基本的には曹休が敗れ、賈逵が退路を確保したことで、帰還を果たした。この線は動かない。しかし、そこに至る各軍の連動について齟齬があり、殊に賈逵については、想定される行軍と、実際の行動が一致しない。

 そこで、この齟齬の主因がどこにあったのかについて、考えてみたい。


 先ず、主因が朝廷(洛陽)にあった場合である。つまり、指示(詔)が実態を反映しておらず、実行不可能なものであった為に、現場(前線)が混乱した可能性である。混乱は言い過ぎにしても、実際に賈逵は「合進」を果たしておらず、司馬懿の「駐軍」は結果的に吳の西(荊州)への備えを不要にしており、曹休を孤立化させている。

 朝廷の命令が不当であったとしても、その責任者を批難する意図でもなければ、記録は残されないと思われ、『三國志』や『魏書』・『魏略』などの編纂時点で既に記録には不備があり、戦役の実態が把握できない理由となる。しかし、これには幾つか疑問が残る。


 一つは、齟齬を来した一因は曹休、或いは賈逵の位置に関する誤認にあると思われるが、上表に当たって、曹休が自らの位置、以後の行動について、直接乃至間接的に言及しなかったとは考え難い。

 また、賈逵についても、詔は至っているのだから、少なくとも使者はその位置を把握していた事になる。つまり、位置を誤認していたとは考え難い。

 いま一つは、曹休の「逵進遲(『魏略』)」・「後期罪(『魏書』)」という認識である。つまり、曹休は詔に従って、賈逵が合流するのを当然と考えている。これは詔の内容が不当でないという事である。この賈逵の「後期」は曹休の捏造、つまり、賈逵に罪を帰す為に、「進遲」だと主張したとする事もできる。

 この場合、曹休の人格も疑われるが、『魏略』・『魏書』がわざわざ、賈逵が遅れた事を云う必要が無い。そもそも、『三國志』本文では賈逵が遅れたとは述べておらず、それで賈逵の擁護は為されている。『魏略』・『魏書』の前段が如何なる記述であったかは不明だが、裴松之が引用していないという事は、『三國志』と大同小異なのだろう。

 となると、これ等の記述は賈逵を擁護する為ではなく、曹休を貶める為に言い立てたという事になってしまう。敢えて、そこまでする必然性があるとは思えず、であれば、賈逵の「進遲(後期)」という事自体は事実なのだろう。であれば、やはり、詔の指示は不当ではなかったという事になる。


 また、朝廷の指示が故意に齟齬を来すものであった可能性も一応考えられる。つまり、賈逵が間に合わず、司馬懿の夏口攻撃が無く、その結果、曹休が孤立する様に指示が為された、という可能性である。この場合も、当然、記録は残らない筈である。

 しかし、明帝等にとって、曹休の存在が煙たい、煩わしいものであったという可能性はあるが、戦後(死後)の曹休への扱いを見ても、排除を目論む程に深刻なものであったとは考え難い。まして、故意に孤立させるという、不確実な方法を採る必要があるとも思えない。従って、これは陰謀論とでも言うべきものだが、成り立ち難い。

 指示そのものについて言えば、「合進」は曹休軍、或いはその後背の増強という観点から妥当、と言うよりも、結果からすれば正当なものである。一方で、司馬懿への「駐軍」は、結果から見れば、吳にとって荊州方面からの脅威が軽減した事になり、不当であったとも言える。だが、攻撃自体を停止させたわけではなく、問題は諸軍の連動の点であった。つまり、齟齬の原因は朝廷には無いと考える。


 では、その諸軍、先ずは曹休に主因があった可能性を考える。主因と言うより、「石亭の戦い」の敗北自体は曹休に原因がある。敗因としては佯降であった事での、当人、或いは全軍の動揺、増援である賈逵等の不到着などがあり、兵数的にも優位ではなかった可能性がある。また、単純に將として、陸遜等の方が優れていたという事も考えられる。

 その点は別として、齟齬についてだけで考えると、曹休が独断専行(先行)していたならば、その原因となり得る。例えば、曹休が朝廷の想定とは異なる速度で進軍していたならば、指示が後追いとなり、実態を反映し得なかった事も起こり得るだろう。また、曹休が賈逵の合流を待たず、独断で戦端を開いたという可能性も無しとはできない。

 これならば、合流が果たされなかった事や、司馬懿の進軍が再開に至らなかった理由が説明できる。記録が為されなかったのも、大司馬である曹休を憚った、失態を糊塗する意図があるとも考えられる。

 しかし、記録を見る限り、相対的に賈逵が遅れた事や、曹休がそれを問題視した事は伝承されている。であれば、賈逵を擁護する流れの中で、曹休の行動に問題があったのなら、それが取り上げられなかったのは不可解である。


 また、曹休は「壯」と諡され、「太祖廟庭」に祀られ「佐命臣」の一人として扱われている。曹休を太祖廟に配祀した正始四年(243)は少帝(齊王)芳の治世であるが、幼年の故に、太傅司馬懿・大將軍曹爽が輔政している。

 曹爽が父である曹眞を称揚する一環で、同等の功績がある曹休を無視し得なかったとも考えられるが、逆に言えば、曹休の功績は「石亭」での敗北を以てしても、蔑ろにされるものではない、という事になる。

 戦略を無視して、独断で戦端を開き、敗北したとすれば罪は大きく、胡三省が云う「誅」は兎も角、不問とはされないであろう。

 なお、曹休の子曹肇は正始四年に先立つ景初三年(238)正月の明帝崩御時に、燕王宇(曹操子/曹丕弟)等とともに輔政に当たる筈であったが、衰弱した明帝が意を変え(変えさせられ)、官を免じられて「以侯歸第」している。

 その後、「正始中薨」とあるので、四年の時点では既に故人である可能性もある。少なくとも、公的な影響力は持ち得ておらず、「祀於太祖廟庭」に曹休の子孫による関与は無く、ある程度、客観的な評価であったと考えられる。


 従って、曹休に主因があるとするのは、魏朝の彼に対する取り扱いから見て、疑問が残る。逆に、そうした人物であればこそ、不名誉な記録が抹消されているとも言える。

 しかし、完全に事実を消去できるとも考え難く、『三國志』や『魏書』・『魏略』などが曹休を憚る必然性も低いと思われる事からすれば、触れていないのは不自然である。

 とすれば、曹休の罪は陸遜等に敗北した事のみであり、それは、これまでの功で相殺される程度のものであったという事になる。つまり、齟齬の要因となるものは曹休には無かったと考える。

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