「石亭」関連史料考⑥

 「石亭の戦い」をめぐる諸史料には、主に司馬懿・賈逵に関して偏向・操作がある事を踏まえた上で着目すると、王淩傳の裴注に奇妙な記事がある。


 干寶晉紀曰:淩到項、見賈逵祠在水側、淩呼曰:「賈梁道、王淩固忠于魏之社稷者、唯爾有神、知之。」其年八月、太傅有疾、、甚惡之、遂薨。


 問題は末尾、「太傅」、乃ち司馬懿が夢に「(王)淩・(賈)逵」が「たたり」を為すのを見て、死去したと云うのである。これは『晉書』にも採られており、嘉平三年(251)条に「六月、帝寢疾、夢賈逵・王淩爲祟、甚惡之。」とある。前段についても、四月条に以下の如くあり、『晉書』が『晉紀』の記事に依拠している事が解る。


 道經賈逵廟、淩呼曰:「賈梁道、王淩是大魏之忠臣、惟爾有神知之。」至項、仰鴆而死。


 王淩は同年の五月に、「廢帝、立楚王彪」という陰謀が露見して自殺した人物である。「廢帝」と言えば明白な謀反であり、王淩は逆臣という事になるが、実際に廢せんとしたのは、「帝」(曹芳)ではなく、その許で実権を握る太傅司馬懿である。

 弱年(二十)の、それ故に権臣の存在を許す曹芳を廢して、傍流とは言え、当時存命の皇族で最高齢(五十七)である楚王曹彪を担ごうというのだから、単なる奪権のみが目的とは言い難い。

 その意味では王淩が「固忠于魏之社稷者(大魏之忠臣)」であるというのは、ある程度客観性を持った事実と言える。その王淩が司馬懿に「癘(祟)たた」るというのは、直近の事件の当事者でもあり、説話として妥当性がある。


 一方で、賈逵は司馬懿の兄である司馬朗と共に、王淩と「友善」であったとされ、王淩が「賈逵祠」に呼び掛けているのは、それが前提となっているのだろうが、やや唐突である。

 死に際しての「受國厚恩、恨不斬孫權以下見先帝」という発言などから、賈逵が「魏之忠臣」とは言えるにせよ、それを代表して司馬懿に「癘」るという程の存在ではない。

 つまり、この話が出てくるには、賈逵が司馬懿に祟るべき理由があった、逆に言えば、司馬懿には賈逵を気に病む理由があったという事が必要である。


 司馬懿と賈逵の接点は、司馬朗と賈逵の「友善」、賈充と司馬氏の関係という間接的なものを除けば、確認できない。

 曹操の末年に賈逵は「丞相主簿」から「諫議大夫」と為り、曹操の死去時に「典喪事」とある。同時期、司馬懿は「議郎・丞相東曹屬」から「(丞相)主簿」、曹丕の「太子中庶子」を経て、「(丞相)軍司馬」であり、やはり、曹操の死去時には「綱紀喪事」とある。

 共に「喪事」を掌り、「奉梓宮還鄴」とあるので、接点がある可能性は高いが、遺恨が生じる状況とは考え難い。すると残る接点は太和二年の時点のみであり、石亭の戦いの結末が無関係ではないだろう。


 一方で、西晉代に賈充・賈后の父祖が晉室の始祖司馬懿に祟ったという話が流布していたとは考え難い。『晉紀』の撰者である干寶は東晉、賈氏が族滅された後の人であり、東晉の帝室も賈氏と縁のある司馬昭の系統とは異なり、その弟伷(琅邪王)の子孫である。

 また、賈后は「虐后」と呼ばれ、西晉滅亡の元凶とも目されている存在であれば、賈氏(賈逵)に関わる憚りも東晉代には不要であり、「淩・逵爲癘」という話が『晉紀』に載録されたのであろう。

 賈充に高貴郷公殺害の責を問う陳泰の言も陳泰傳(魏書二十二陳羣傳附)の裴注に引かれた同書にあり、賈氏への遠慮が消失しているのが確認できる。


 ただ、脈絡無く、賈逵が司馬懿に「癘」るという話が出てきたとも、或いは、賈氏(賈后)を誹謗する流れから創られたとも考え難い。従って、基となる話はそれ以前、司馬懿の死後から、底流として存在していたと思われる。

 干寶は「古今神祇靈異人物變化」を記した『捜神記』の撰者でもあり、「志怪」の一種として「癘」を記したとも言える。だが、『晉紀』自体は「簡略、直而能婉、咸稱良史」と評されており、その記述は「良史」とされるだけのものである筈である。

 であれば、「癘」についても、単なる「志怪」ではなく、「直而能婉」した記述の一種と言えるのではないか。つまり、司馬懿には賈逵に怨まれるべき事由があった事を、婉曲に王淩に事寄せて表現したのだろう。


 なお、『捜神記』には賈充に関する以下の話が見える。


 賈充伐吳時、常屯項城、軍中忽失充所在。充帳下都督周勤、時晝寢、夢見百餘人録充、引入一徑。勤驚覺、聞失充、乃出尋索、忽睹所夢之道、遂往求之、果見充。行至一府舍、侍衛甚盛、府公南面坐、聲色甚厲、謂充曰「將亂吾家事者、必爾與荀勗。既惑吾子、又亂吾孫。間使任愷黜汝而不去、又使庾純詈汝而不改、今吳寇當平、汝方表斬張華、汝之暗戇、皆此類也。若不悛慎、當旦夕加誅。」充因叩頭流血。府公曰「汝所以延日月而名器若此者、是衛府之勳耳。終當使係嗣死於鍾虡之間、大子斃於金酒之中、小子困於枯木之下。荀勗亦宜同。然其先德小濃、故在汝後。數世之外、國嗣亦替。」言畢命去。充忽然得還營、顔色憔悴、性理昏錯、經日乃復。至後、謐死於鍾下、賈后服金酒而死、賈午考竟、用大杖終。皆如所言。


 賈充が項で「府公」に「吾が家事を亂した」を責められ、その因果で子孫(賈后・賈午・賈謐)が非業の死を遂げるというものである。

 この「府公」は「既に吾子を惑わし、又た吾が孫を亂す」という言葉から司馬懿、或いは司馬昭と思われる。また、舞台となっている項は王淩が訴えた「賈逵祠」のある地でもある。従って、賈充は父の霊前で叱正されている事になる。

 この話は賈氏への憚りがないという点では「癘」と同様だが、西晉崩壊の原因となった賈充(賈氏)への非難が前面に出ている。これは東晉人士の賈氏へ向ける視座が表れていると言え、逆に西晉代のそれが異なるものであった事を窺わせる。

 この変化は「八王の乱」・「永嘉の乱」を経てのものとも言えるが、その契機となった賈后等ではなく、賈充が対象となっている事から、それ以前から伏流として賈氏への批判があり、それが乱と賈氏の湮滅が契機となって表出したと言える。


 ともあれ、賈氏への批判的な傾向の中、賈逵が司馬懿に祟るという話が出てきているのだから、賈逵を魏の忠臣として称揚するというより、晉室に仇為す者、その行き掛かりが在る者と見做していると思われる。

 そして、その行き掛かりは「石亭の戦い」の結末にかかわる事だったのではないか。

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