「石亭」関連史料考⑤

 『三國志』には「石亭の戦い」をめぐって、司馬懿・賈逵等に対して擁護する傾向があると予想され、その記述は割り引いて、また、記述されなかった事実もあると見る必要がある。


 この傾向は必ずしも陳壽の作意のみによるのではなく、彼が依拠した原史料の段階で、既に盛り込まれていたと思われる。

 『三國志』本文以外で、「石亭の戦い」に関する記述があるのは、賈逵傳に附された裴松之の注に見える『魏略』(休怨逵進遲、乃呵責逵、遂使主者敕豫州刺史往拾棄仗。逵恃心直、謂休曰:「本爲國家作豫州刺史、不來相爲拾棄仗也。」乃引軍還。遂與休更相表奏、朝廷雖知逵直、猶以休爲宗室任重、兩無所非也。)と『魏書』(休猶挾前意、欲以後期罪逵、逵終無言、時人益以此多逵。)である。


 『魏略』は『舊唐書』經籍志に「魏略三十八卷魚豢撰」とあり、『隋書』經籍志には「典略八十九卷魏郎中魚豢撰」とある様に、「魏郎中魚豢」撰『典略』の一部と見られる。

 魚豢の経歴は不明だが、「魏郎中」とある事から、魏代に編纂されている。賈逵傳注『魏略』の「甘露二年、車駕東征、屯項、復入逵祠下、……」という記事が最も新しい記事と見られ、甘露年間(256~260)以降に成ったと思われる。

 甘露二年(257)と言えば、司馬懿が曹爽を滅ぼして、実権を握った嘉平元年(249)から八年、正元二年(255)の毌丘儉・文欽の乱を経て、諸葛誕が壽春に兵を挙げた年である。

 賈逵傳に引用される記事は魏志六月甲子の詔に「今車駕駐項、大將軍恭行天罰、前臨淮浦。昔相國大司馬征討、皆與尚書倶行、今宜如舊。」、『晉書』文帝紀では七月条に「奉天子及皇太后東征、徵兵青・徐・荊・豫、分取關中遊軍、皆會淮北。師次于項、假廷尉何楨節、使淮南、宣慰將士、申明逆順、示以誅賞。」として見える記事に当たる。


 司馬氏の権威が確立しつつある時期であり、賈充も司馬師の參大將軍軍事、司馬昭の大將軍司馬から右長史として、「腹心之任」を担う過程にある頃である。反司馬氏の動きに抗する為にも、その威信を損なうような記事は避けられたと思われる。但し、司馬懿に関しては兎も角、賈逵について憚るべき事由があるかには疑問もある。

 しかし、『魏略』の同年の記事が「(賈)逵祠」に関わるものであり、『晉書』賈充傳に諸葛誕の挙兵前、彼に面談した賈充が、「天下皆願禪代、君以爲如何」と司馬氏への禪譲を諷したのに対して、諸葛誕が「卿非賈豫州子乎、世受魏恩、豈可欲以社稷輸人乎。若洛中有難、吾當死之」と応えている様に、賈逵を称揚する流れがこの時期に生じているかに見える。

 この印象が正しいのか、またその理由が何に由るのかを判断するには材料が不足しているが、その可能性だけを指摘しておく。


 いま一つの『魏書』は『隋書』經籍志に「魏書四十八卷晉司空王沈撰」、『舊唐書』經籍志に「魏書四十四卷王沈撰」とある王沈の撰になるものである。王沈は『晉書』に傳があり、同傳には「與荀顗・阮籍共撰魏書」とあるので、阮籍の死去した「景元四年冬」以前には成っていた筈である。

 景元四年(263)と言えば、「伐蜀」の役が行われた年であり、同年中に蜀は滅び、翌々年の咸熙二年(265)に魏から晉への禪譲が行われている。司馬氏の権威が最高潮に達したと言える年であり、そこに至る時期に成った『魏書』が司馬氏に配慮すること大であろう事は予想できる。

 まして、王沈は晉建國後、驃騎將軍・博陵公と為る功臣の一人であり、晉室を擁護する立場にある。実際、その書は『晉書』王沈傳が「多爲時諱、未若陳壽之實錄也。」、『三國志』魏書皇妃傳で裴松之が「難以實論」と評するように、「實」を以て記したとは言い難いものとされている。


 従って、その記述は晉室を称揚する方向でなされている、逆に言えば、不名誉な事は排除される傾向があるという事になる。当然、その対象の一人に司馬懿が含まれる。賈逵に関しては、直接にその対象とはならないであろうが、賈充の父として、準ずる対象になり得る。

 王沈と賈充について、個人的な関係を示すものは残っていないが、政治的には王沈傳に「以創業之事、羊祜・荀勖・裴秀・賈充等、皆與沈諮謀」、賈充傳に「與裴秀・王沈・羊祜・荀勖同受腹心之任」とあるように近しい関係にあったと見ていい。

 また、王沈は豫州刺史であった時に、「探尋善政、案賈逵以來法制禁令、諸所施行」している。この「賈逵」は豫州に於ける以上、賈逵当人と見てよく、彼を称揚する傾向を見る事ができる。


 以上のみを以て、『魏略』・『魏書』の性格を断定するのは憶断であるかもしれない。特に、『魏略』については劉知幾の「魚豢・姚察著魏・梁二史、巨細畢載、蕪累甚多、而俱榜之以略、考名責實、奚其爽歟(『史通』題目篇)」という評もあり、なお詳細な検討が必要だろう。

 だが、「巨細 ことごとく載せ」るとしても、憚ることなく、何事をも「載」せたわけではないと思われる。両書共に、司馬氏の影響力が増大する中で編纂されており、司馬懿や賈逵に関する記述には『三國志』と共通する傾向があると見ていい。

 その上で、賈逵傳に引かれた部分に関しては、陳壽がその記述を採用しなかった事にも留意する必要がある。


 ところで、司馬懿については晉室の始祖であれば、『三國志』に傳は無く、基本史料とすべきは唐代に編纂された『晉書』となる。その『晉書』宣帝紀に太和二年の記述は、前年(元年)末からの孟達の反に関する事のみで、それに次ぐ記年記事は四年に飛んでいる。但し、四年条に先立ち、「時」にとして、先に見た、「二虜宜討、何者爲先」という問いに対する発言が見える。

 この「時」は当然ながら、太和二年正月の「宣王攻破新城、斬達、傳其首。」以降、同四年二月の「驃騎將軍司馬宣王爲大將軍」(魏志明帝紀)の期間に入る。そして、その内容から、「石亭の戦い」以前とするのが妥当だろう。従って、本来であれば、その後に戦役に関する記述が入る筈であるが、それは見られない。


 これもまた、司馬懿にとって芳しからぬ記述を避けた結果と考えられる。ただ、唐代に司馬懿の為に避けるべき事由は想定し難く、これは『晉書』が依拠した原史料、先行する諸『晉書』などで行われたものだろう。更には、それ等の原史料、『三國志』などを含む魏末晉初の記録の段階で行われていたと思われる。

 因みに、諸傳も含めた『三國志』及び『晉書』中で、魏代に於ける司馬懿の動静が全く見えないのは、太和三年(229)と同六年(232)のみ、強いて言えば景初元年(237)の三ヶ年のみである。

 最後の景初元年は宣帝紀に年次こそ見えないが、遼東の公孫淵が「燕王」を称した年(七月)であり、司馬懿は明帝に対策を問われ、その方策を述べており、翌景初二年(238)正月に「詔太尉司馬宣王帥眾討遼東」と出征しているので、対話は前年末、元年であった筈である。

 太和六年については『通典』卷五十五(禮十五)に「明帝太和六年、征西大將軍臣懿等言」云々という「告禮」に関する議が載録されている。司馬懿は征西大將軍ではなく、大將軍だが、実態として、当時「征西」を任としており、他に「臣懿」に比定し得る人物はいないので、これは司馬懿と見られる。つまり、太和三年は司馬懿の動静が不明な、ほぼ唯一の年である。

 勿論、偶々記載するに足る事跡が全く無かったという可能性はある。だが、曹休亡き後、その後繼体制を構築する必要がある時期に、軍事面で曹眞に次ぐ地位に在る人物の動静が不明であるというのは不自然である。前年の「石亭の戦い」への言及が無い事も考え合わせると、むしろ、何らかの関連があったと見る方が自然ではないか。


 なお、こうした記述の傾向が残存した、逆に言えば司馬懿等に不利な記録が残らなかった理由として、晉が百五十年以上という比較的長期に亘って存続した事、永嘉の乱以降の「五胡」による華北の混乱などが挙げられよう。また、そもそも、敗北であれば、魏としても詳しい記録を残そうとはしなかったとも考えられる。

 一方で、賈充の高貴鄉公殺害への関与が残ったのは、賈氏が族滅されたのが、甘露五年(260)から四十年後の永康元年(300)、当事者の一部が存命であった時期であった事が関係していると思われる。


 以上からも、『三國志』を中心とした、「石亭の戦い」をめぐる諸史料には、主に司馬懿・賈逵に関して一定程度の偏向・操作がある可能性を考慮に入れる必要があると考える。

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