「石亭」関連史料考③
滿寵の「領豫州刺史」に係わる賈逵の豫州刺史離任は、どの時点と見るべきであろうか。
賈逵傳には「及夾石之敗、微逵、休軍幾無救也。」とした後、「會病篤、……薨、諡曰肅侯。」と賈逵の死を記す。後に「豫州吏民」によって、賈逵の祠が立てられている事、『晉書』賈充傳に「父逵、魏豫州刺史・陽里亭侯。」とある事から、賈逵が豫州刺史として、「在官」で死去したのは間違いはない。従って、離任時期は死去時か、「病篤」となった時点である。
問題はそれが何時か、であるが、不明とするしかない。ただ、賈充傳には「充少孤」とあり、「少孤」とは大略十歳前後で父を亡くした場合を云う。賈充は太康三年(282)四月に死去し、「時年六十六」とあるので、建安二十二年(217)生まれである。
つまり、賈充は太和二年に十二歳であり、「少孤」とあるからには、賈逵の死は同年から程からぬ時点とするのが妥当である。そして、それは滿寵の「以前將軍代都督揚州諸軍事」以前であり、「休薨」後である。
曹休の死は明帝紀に記載があり、太和二年九月条に「庚子、大司馬曹休薨。」とあるので、「九月庚子」という事になるが、九月に庚子は無い。従って、十月庚子(十四日)であろうという事になる。
『三國志』中に干支の誤りは二十例程あるが、月が脱落し前月に組み込まれていると思われる例は他にも八例あり、比較的多い。また、可能性としては十二月庚子(十五日)や、九月ならば甲子(八日)、丙子(二十日)、庚申(四日)、庚午(十四日)、庚辰(二十四日)の誤記という事も考えられるが、太和二年(228)以降という可能性は考え難い。
何れにせよ、曹休の死去は太和二年の「九月」以降であり、当然、滿寵が都督揚州諸軍事と為ったのもそれ以後である。揚州の戦略的位置・意義を考えれば、都督揚州諸軍事を長く不在としておくとは考え難く、滿寵の就任は早ければ十月中、遅くとも、三年初頭までには任命されたと思われる。
或いは、滿寵傳の「三年」というのは、本来、「寵以前將軍代都督揚州諸軍事」に繋っており、それ以前の部分、「休薨」までは状況説明として挿入されているとも考えられる。
従って、滿寵の都督揚州諸軍事就任は太和二年の年末前後であり、領豫州刺史と為ったのは、更にその以前という事になる。つまり、滿寵は「秋」の戦役終了後、程無く領豫州刺史と為っていなければならない。その場合、賈逵の病・死は兎も角、離任は「秋」から間を置かない時期であった筈である。
戦役直後といってもいい時期に、賈逵が豫州刺史から離れた理由は、病・死であったとも考えられるが、戦役の結果が無関係であったと考えるのはむしろ不自然ではないか。
そう考えた上で、賈逵の死についてみて見ると、時期を明示しない点、『三國志』が『魏略』などの記す戦後の事情(曹休の上表など)を記さない事に疑問が残る。
時期(年)については、同年中のことであれば省略した可能性もある。また、死去時の地位が刺史であれば、死去の記録が残っていない事も不審ではない。
ただ、賈逵と同卷(『三國志』卷十五)に立傳された劉馥・司馬朗・梁習・張既・溫恢の中で、卒年が明記されないのは溫恢のみで、その溫恢も「時年四十五」と、その享年は記されており、「遷涼州刺史、持節領護羌校尉。道病卒。」とあるので、本来は所伝があったとも思われる。
賈逵の場合は、『三國志』編纂当時、賈充・賈后の父祖であり、賈充の繼孫となった賈謐は祕書監と為り、「晉書限斷」を議させるなど、「史」に関心がある人物であるから、陳壽がそれ等に取材する手段が無かったとは考え難い。
また、王沈『魏書』では「逵時年五十五」とあり、享年が伝わっていながら、それにすら触れていないのは不審である。
陳壽が賈逵の死について明示しなかった、或いは、し得なかったのは、その背後に何らかの省略すべき事情があったから、と疑われる。そして、賈逵の死が曖昧になった結果、滿寵傳の記述に混乱が生じたのではないか。
余談だが、滿寵傳では「會朱靈等從後來斷道」と、吳軍撤退の契機となったのが、「朱靈等」の到来となっている。
この朱靈は曹操に於ける「時之良將、五子爲先」とされた張遼・樂進・于禁・張郃・徐晃の傳(魏書十七)に附して「後遂爲好將、名亞晃等」とされた人物であるが、独立した傳は立てられていない。同傳以外で「朱靈」の名が見えるのは11ヶ所、彼に比定される「朱横海」が1ヶ所と、記述が多いとは言えない。
『三國志』に於いては、蜀書(蜀志)で「名位常亞趙雲(楊戲傳「季漢輔臣贊」)」とされた陳到等が「失其行事、故不爲傳。」とされた様に、事績が詳らかでない故に傳が立てられていない人物は多い。蜀の場合は、「國不置史」という理由もあるが、魏や吳にも同様の人物はおり、朱靈がその一人であるのは不審ではないとも言える。
しかし、朱靈は彼が「
また、正始四年(243)には「太祖廟庭」に祀られており、曹操の功臣としての処遇を受けている。
なお、この時に祀られたのは、「大司馬曹眞・曹休・征南大將軍夏侯尚・太常桓階・司空陳羣・太傅鍾繇・車騎將軍張郃・左將軍徐晃・前將軍張遼・右將軍樂進・太尉華歆・司徒王朗・驃騎將軍曹洪・征西將軍夏侯淵・後將軍朱靈・文聘・執金吾臧霸・破虜將軍李典・立義將軍龐德・武猛校尉典韋」であり、朱靈以外は全員に傳が有る。
ついでに言えば、曹操の「佐命臣」とされたのは、この二十人に、青龍元年(233)に祀られた「大將軍夏侯惇・大司馬曹仁・車騎將軍程昱」、そして、翌正始五年(244)に祀られた「尚書令荀攸」、景元三年(262)の「軍祭酒郭嘉」を加えた二十五人及び、嘉平三年(251)の死去時に「配享魏太祖廟(干寶『晉紀』)」されたと見える司馬懿である。
司馬懿は別として、やはり、朱靈のみに傳が無い。朱靈には于禁傳に「太祖常恨朱靈、欲奪其營。」との記述もあり、傳が立てられなかった事には何らかの事情がある可能性もある。
ともあれ、滿寵傳の記述は朱靈の名が見える最後の記事であり、「石亭の戦い」に、間接的とは言え関与した具体が判明する数少ない事例である。それが禪代以降の事績と共に、附傳で全く触れられていないのは不審である。何らかの、触れがたい事情があったとも想像される。
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