「石亭」関連史料考②
『三國志』に於ける「石亭の戦い」に関する問題として、これまで留保してきた滿寵傳の記述を見てみたい。
なお、『三國志』編纂時の滿寵の子孫については、孫の滿奮が元康末に尚書令・司隸校尉に至っているが、それ以前の経歴は不明である。また、滿奮の從兄弟である滿長武は高貴鄉公の事変の後に、「考死杖下」とされ、その父の滿偉(滿寵の子)も免官となり、庶人とされている。
この点では格別の配慮は必要無いかにも見えるが、「偉妹」、すなわち滿寵の女が司馬懿の子である司馬幹(司馬師・司馬昭の同母弟、後の平原王)に嫁いでおり、滿氏は司馬氏の外戚という事になる。
その意味ではある程度の配慮は必要であり、実際、滿長武に関する記述も『三國志』には見えず、『世語』(郭頒撰『魏晋世語』)に依っている。但し、郭頒も西晉の人(『隋書』經籍志「晉襄陽令郭頒撰」)と見られるので、これを配慮の結果とみるのは不適当かもしれない。
或いは、滿奮は趙王倫の簒奪に関わっているので、この事が影響しているのかもしれない。
さて、滿寵傳の「石亭の戦い」に係わる部分は以下の如くである。
太和二年、領豫州刺史。三年春、降人稱吳大嚴、揚聲欲詣江北獵、孫權欲自出。寵度其必襲西陽而爲之備、權聞之、退還。秋、使曹休從廬江南入合肥、令寵向夏口。寵上疏曰:「曹休雖明果而希用兵、今所從道、背湖旁江、易進難退、此兵之窪地也。若入無彊口、宜深爲之備。」寵表未報、休遂深入。賊果從無彊口斷夾石、要休還路。休戰不利、退走。會朱靈等從後來斷道、與賊相遇。賊驚走、休軍乃得還。是歲休薨、寵以前將軍代都督揚州諸軍事。汝南兵民戀慕、大小相率、奔隨道路、不可禁止。護軍表上、欲殺其爲首者。詔使寵將親兵千人自隨、其餘一無所問。四年、拜寵征東將軍。
既に触れた様に、最大の問題は「三年春」以降の部分である。
「降人稱」云々については措くとしても、「秋」以下、つまり、「曹休從廬江南入合肥」というのは、言うまでもなく、太和二年秋に行われた一連の戦役、乃ち「石亭の戦い」に関するものである。そして、「是歲休薨」というのも、明帝紀同年九月条に「庚子、大司馬曹休薨。」として見える。
従って、この「三年」は明らかな誤りという事になる。管見の限り、『三國志』にこうした明白な年次の誤りは少なく、稀有な例である。
では、この誤りはなぜ生じたのであろうか。最も単純な誤りは「三」を書き誤ったというものである。「二」が「三」になる、或いはその逆というのは頻出する。可能性は低いが、「四」が「三」になることもあり得なくはない。
これは陳壽の編纂時だけではなく、その後の伝写の際にも起こり得る事である。しかし、この部分では、直前に「太和二年」、後に「四年」とあり、その間違いは起こり得ない。
然らば、次に考えられるのは「三年」が衍字・竄入である、つまり、「春」以下は全て「太和二年」と見る事である。確かに、「秋」以下の部分、及び「(曹)休薨」は明帝紀から太和二年である事は明らかであり、「春」以下についても、周魴「書三」の「東主中營自掩石陽」に対応し、同年である可能性は高い。
但し、孫權が石陽を攻めた記録が残るのは、吳書(吳志)に見える黄武五年(黄初七年)秋のみである。しかし、ここでは孫權は滿寵の備えがあるのを聞いて軍を還しているので、実際には行われず、故に魏の側に記録が無いとも言える。
また、「三年春」に孫權は、「公卿百司皆勸權正尊號」による「即皇帝位」の準備を行っている筈で、「欲自出」する余裕・意欲は無いと思われる。従って、「春」以下の記述が太和二年と見做すのは妥当である。
ただ、この場合、問題となるのは、その直前の「領豫州刺史」である。集解も指摘しているが、太和二年の時点、少なくとも「秋」までの豫州刺史は賈逵である。であれば、少なくとも「春」以前の時点で滿寵が「領豫州刺史」と為る事はない筈である。
では、この一文をどう解釈すべきであろうか。まず、もっとも単純な解決は、「領豫州刺史」を竄入と見なし、削除するというものである。つまり、「太和二年」が直接「春」以下に繋がり、文章としては整合性がとれる。しかし、竄入の原因への考慮が必要であり、濫りに文を添削するのは好ましくない。
また、後文に付された注の『世語』に「寵爲汝南太守・豫州刺史二十餘年、有勳方岳。」とあり、少なくとも滿寵が豫州刺史と為っているのは事実である。但し、この文は太和五年(231)時点での給事中郭謀の言だが、汝南太守については二十年前の建安十六年(211)以前に就任しているとしても、三年未満の任期である筈の豫州刺史を併称する程の「勳」があったのか疑問が残る。
ともあれ、「領豫州刺史」を削除するのは適当ではない。では、「領豫州刺史」は事実であり、「豫州刺史」賈逵と「領豫州刺史」滿寵が並存していたと見做す事は可能であろうか。
「領」は他官にあるものが兼任、この場合は、前將軍・汝南太守である滿寵が兼ねるという事になるが、現に豫州刺史賈逵が存在する以上、他者が「領」するとは考え難い。また、そうした例も確認できない。
ならば、賈逵が既に豫州刺史ではない、という可能性はあるであろうか。賈逵傳では延康元年(220)正月の「文帝即王位」後の同年七月に「至譙」った文帝によって豫州刺史に任じられた後、黄初三年(222)の「破呂範於洞浦」によって「加建威將軍」とあるのみで、太和二年(228)時点での賈逵の官職は明記がない。
しかし、『魏略』で、夾石で救われた後に曹休が「豫州刺史」に「往拾棄仗」を命じ、これに対して賈逵が「本爲國家作豫州刺史、不來相爲拾棄仗也」と応えている。この「豫州刺史」は明らかに賈逵であり、少なくともこの時点までは賈逵が豫州刺史であった事になる。
従って、滿寵が「領豫州刺史」と為る事ができるのは、「秋」の「休軍乃得還」後となる。つまり、「三年」を削除するだけでは問題は解消せず、「領豫州刺史」を「秋」以降に移す必要がある。となると、問題は単なる筆写の誤りではないという事になる。
そこで考えられるのは、編纂時に「太和二年、領豫州刺史。」と「二年春、……」という二系統の記録が存在し、これが安易に接合されてしまったという可能性ではないか。或いは後者が既に「三年」と誤っていた可能性もある。
この誤りは陳壽らしからぬ、とも言える。そこで、憶測に過ぎないが「二年春」以下は本来は裴松之の注であり、「(魏略・魏書など)曰、二年春、……」とあったものが、誤って本文に挿入され、その際に「三年」との書き換えが起こった、とは考えられないか。
また、「是歲休薨」以下は、「休薨」からすれば、後者の一部ということになるが、或いは、本来は「是歲、曹休薨」として、前者の一部であったが、接合時に「曹」が脱落したという可能性もある。
この様に解釈すると、「太和二年、領豫州刺史。是歲、曹休薨、寵以前將軍代都督揚州諸軍事。」と『三國志』本文は事実のみを記し、他書が「二年春、降人稱吳大嚴、揚聲欲詣江北獵、孫權欲自出。寵度其必襲西陽而爲之備、權聞之、退還。秋、使曹休從廬江南入合肥、令寵向夏口。寵上疏曰:…(中略)…寵表未報、休遂深入。賊果從無彊口斷夾石、要休還路。休戰不利、退走。會朱靈等從後來斷道、與賊相遇。賊驚走、休軍乃得還。」と詳しい経過を記していた事になり、整合性が取れる。
この想定は根拠が無く、徒に原文を改変し過ぎている。また、本文が簡素に過ぎるとも言える。ただ、何れにせよ、滿寵傳のこの一文は編纂時の何らかの誤りにより、事実と一致しない文となっている。
その原因は「豫州刺史」、乃ち賈逵に係わるものであると推定できる。つまり、賈逵に関する所伝、この場合は彼の豫州刺史の離任時期を省略した事で、滿寵の「領豫州刺史」の時期が不分明となり、それが記事の混乱に及んだと考える。
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