「石亭」関連史料考①

 「石亭の戦い」に至る魏の戦略に於いて、曹休・司馬懿・賈逵の諸軍の間に認識の齟齬があり、諸軍と洛陽の朝廷との間にもそれは存在しているかに見える。

 この原因が何によるものであったのか、或いは、齟齬に見えるものが実際には存在しないのかを判別する材料は史料の限界から、見出す事ができない。そこで、史料そのものの問題点を見ていきたい。


 「石亭の戦い」について、基本史料となるのは、当然ながら、当該時期の「正史」である『三國志』である。


 『三國志』の撰者は陳壽。巴西安漢の人、つまり、「三國」の一つである蜀の生まれで、同郡の譙周に師事し、蜀に仕えて觀閣令史であったと云う。蜀の滅亡後は、晉に仕えて、著作郎、治書侍御史などと為り、元康七年(297)に死去している。

 彼が『三國志』を撰したのは、明示されていないが、「三國」志である以上、吳滅亡(280)以降、死去(297)以前の期間である。無論、それ以前から史料収集などは行われていたであろうが、蜀滅亡(264)以前に遡ることはないであろう。

 従って、『三國志』編纂の時期は、概ね晉の太康(280~289)年間から、元康(291~299)年間の前半となる。これ以上の詳細な時期の特定は必要ないが、『晉書』陳壽傳(卷八十二)には「魏書」を著していた夏侯湛が陳壽の作を見て、「壞己書而罷」た事が記されている。夏侯湛はその傳(『晉書』卷五十五)に「元康初、卒」とあり、『文選』潘岳「夏侯常侍誄」によれば「元康元年夏五月壬辰」とあるので、少なくとも、魏書に関しては元康以前にある程度のものが完成していたと見られる。

 なお、『華陽國志』に依れば、陳壽の死は、永康元年(300)以降となるが、この説には問題もあり、『三國志』が編纂された時期にも大きな影響は無いと考える。


 さて、この『三國志』は陳壽自身が「三國」の一、蜀に仕えていた様に、編纂当時の人々にとって、その一部は現代史であり、それ以前の部分も、自身に直接繋がる人物に係わる歴史である。

 従って、その記述には諸々の憚りへの配慮が必要となる。陳壽には諸葛亮や「丁氏」に関わる曲筆説も言われるが反論もあり、概ね「質直」(范頵)、「審正」(裴松之)といった評価がなされている。一方で、何事も憚る事無く、直筆に徹しているというわけでもなく、差し障りのある事については直接触れていない場合もある。


 その一例が、甘露五年(260)に「五月己丑、高貴鄉公卒、年二十。」とのみ記される高貴鄉公(曹髦)の死である。

 彼の死については、直後に挙げられる「皇太后令」に、郭太后(文德郭皇后)がその「情性暴戾」なるを憂えて、「大將軍」こと司馬昭に「不可不廢之」と語った事に怒った曹髦が「直欲因際會舉兵入西宮殺吾」・「躬自拔刃、與左右雜衛共入兵陳間、爲前鋒所害。」、兵を挙げて郭太后を殺害しようとして、「前鋒」の害する所となったとする。

 そして、その直接の死因については後日、「大將軍文王上言」、乃ち司馬昭が「懼兵刃相接、即敕將士不得有所傷害、違令以軍法從事。騎督成倅弟太子舍人濟、橫入兵陳傷公、遂至隕命。」と、曹髦を傷つけない様に命じていたにも拘わらず、太子舍人成濟が殺害したと述べ、成濟は「凶戾悖逆」により誅に伏したと云う。

 司馬昭に曹髦殺害の意図はなく、郭太后にも「以其尚幼、謂當改心爲善」と彼を擁護していたとする。つまり、曹髦の死は飽く迄も不慮の事態であり、成濟の暴走であったというのが『三國志』の、当時の魏、司馬氏としての見解という事になる。


 しかし、裴松之が高貴鄉公(廢帝)紀に注した諸書では異なる様相が見える。先ず、裴松之が事の「次第」が述べられているとする習鑿齒『漢晉春秋』には、曹髦が召し寄せた侍中王沈・尚書王經・散騎常侍王業を前に、「司馬昭之心、路人所知也。吾不能坐受廢辱、今日當與卿等自出討之」と述べており、明白に司馬昭が兵を挙げる標的だとしている。

 ただ、それ以上に、決定的に異なるのは、以下の如く、迎撃に当たった賈充が成濟に対して、曹髦の殺害を命じている点である。


 中護軍賈充又逆帝戰於南闕下、帝自用劍。眾欲退、太子舍人成濟問充曰:「事急矣。當云何。」充曰:「畜養汝等、正謂今日。今日之事、無所問也。」濟卽前刺帝、刃出於背。文王聞、大驚、自投于地曰:「天下其謂我何。」太傅孚奔往、枕帝股而哭、哀甚、曰:「殺陛下者、臣之罪也。」


 この事は、習鑿齒以前の干寶『晉紀』や撰者不明の『魏末傳』にもほぼ同種の話が見え、『晉書』賈充傳も、『晉紀』とほぼ同文で載録されている。


 成濟問賈充曰:「事急矣。若之何。」充曰:「公畜養汝等、爲今日之事也。夫何疑。」濟曰:「然。」乃抽戈犯蹕。(『晉紀』)


 賈充呼帳下督成濟謂曰:「司馬家事若敗、汝等豈復有種乎。何不出擊。」倅兄弟二人乃帥帳下人出、顧曰:「當殺邪。執邪。」充曰:「殺之。」兵交、帝曰:「放仗。」大將軍士皆放仗。濟兄弟因前刺帝、帝倒車下。(『魏末傳』)


 轉中護軍、高貴鄉公之攻相府也、充率眾距戰於南闕。軍將敗、騎督成倅弟太子舍人濟謂充曰:「今日之事如何。」充曰:「公等養汝、正擬今日、復何疑。」濟於是抽戈犯蹕。(『晉書』卷四十賈充傳)


 曹髦の標的が司馬昭であるというのは『三國志』の記述からでも窺い知る事が出来るが、賈充の関与については『三國志』からは全く見えない。

 だが、その経緯はともあれ、天子(皇帝)を死に至らしめたというのは重罪であり、陳泰傳(魏書二十二陳羣傳附)引く『晉紀』では司馬昭に対処を問われた尚書僕射陳泰が「惟腰斬賈充、微以謝天下」、賈充を斬るべしと主張している。それ程の重大事が『三國志』では触れられていない。

 賈充は「帝甚信重充、與裴秀・王沈・羊祜・荀勖同受腹心之任。」と、司馬昭の信任を受けており、この後、魏から晉への禪譲が行われると、佐命功臣の一人として魯郡公に封じられ、その死後には「武」と諡され、廟庭に配饗されるという栄誉を与えられている。

 また、彼の女は武帝(司馬炎)の皇太子衷(後の惠帝)の妃となり、その即位によって皇后に立てられている。この皇后賈氏、賈后は「不慧」なる夫、惠帝に代わって「專制天下、威服內外」しており、その外甥にして、賈充の繼嗣となった賈謐が「恃貴驕縱」・「權過人主」とされる如く、その一族も権を専らにしている。


 つまり、『三國志』が編纂された太康年間から元康年間に掛けては、賈氏は賈充こそ太康三年(282)に薨じているが、佐命功臣、晉室の外戚として、殊に元康初以降は帝室(司馬氏)に次いで、最大限の配慮が必要な家系であったと言える。

 それが、曹髦の死に対する賈充の関与を記述しない、削除させた理由であろう。従って、陳壽は曲筆とまでは言えないが、帝室司馬氏や、当時の権門賈氏に対する直筆を避けたと言える。

 なお、『晉紀』や『漢晉春秋』に賈充の言動が記述されているのは、その撰者である干寶・習鑿齒が東晉の人であり、撰者不明の『魏末傳』も含め、所謂「八王の乱」の中で、賈氏が族滅された以降に編纂された故と考えられる。「八王の乱」以後の西晉崩潰の元凶の一つが賈氏であると目され、言わば、その旧悪が暴かれている。


 この賈充の父、賈后の祖父こそが賈逵であり、『三國志』編纂当時の皇帝、武帝(司馬炎)・惠帝(司馬衷)の祖父・曾祖父である司馬懿と共に記述に最大限の配慮が必要な人物と言える。

 その『三國志』の体裁として、「司馬懿傳」は立てられておらず、「石亭の戦い」に関する記事は曹休傳を除けば、賈逵傳と滿寵傳のみにまとまった記述がある。

 この他、魏書(魏志)、魏に於いて、「石亭の戦い」に関する記事があるのは、「深入」に対する危惧を述べた蔣濟・孫禮傳以外では、王淩傳(魏書二十八)の「後從曹休征吳、與賊遇於夾石、休軍失利、淩力戰決圍、休得免難。」のみで、張郃傳については、時期や「石亭」との係わりを直接には記していない。

 これ等の傳主に賈逵傳の胡質、滿寵傳の朱靈が、記録にある限り、魏に於ける「石亭の戦い」に係わる人物の総てという事になる。


 この中で、滿寵については措き、蔣濟・孫禮・胡質は晉代に子孫が確認できるが、概ね刺史に終わっている胡質の子孫以外は傳も無く、子孫が不明の張郃・朱靈も含め、格別な配慮が必要な家系とは言えない。

 また、関与の度合いが不明な胡質・朱靈・張郃は別にして、「深入」に消極的、懸念・危惧を抱いていたとされる滿寵・蔣濟・孫禮に対して、王淩のみが「力戰決圍」と、やや積極的な関与が見える。

 その王淩は嘉平三年(251)に楚王彪(曹操子)を擁した反司馬氏(司馬懿)の密謀が露見して自殺し、「相連者悉夷三族」となっている。

 なお、曹休の子孫は曾孫である曹攄が元康年間後半に洛陽令と為っているが、前朝の宗室の裔でもあり、やはり、格別な配慮が必要な家系とは言えない。


 『三國志』(魏志)は「石亭の戦い」を、敗戦であれば当然だが、否定的に扱い、戦役への積極的な関与も不名誉な事とされたであろう。戦役に否定的であった人物の言動が残る一方で、関与した人物が少数しか残っていないのも、この扱いと無関係ではないだろう。

 そして、唯一、積極的な関与が見える王淩が明白に反司馬氏の行動を起こした人物であるのも示唆的である。

 従って、『三國志』、陳壽の「石亭の戦い」に関する記述は、司馬懿の関与はなるべく限定的に、賈逵については擁護的にする方向で記事の取捨が行われた可能性がある。

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2024年9月22日 21:00
2024年9月26日 21:00
2024年9月29日 21:00

「石亭」疑案 灰人 @Hainto

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