「石亭の戦い」始末

 互いに齟齬がある中、行われた「石亭の戦い」、その最終局面、曹休の会戦・敗退に至る経緯はどの様なものであったのであろうか。


 明帝紀に「曹休率諸軍至皖」とある様に、曹休は九月或いは、それ以前の段階で皖に到達している。それは「休果擧眾入皖。(陸遜傳)」、「休將步騎十萬至皖城以迎魴。(朱桓傳)」、「休果信魴、帥步騎十萬、輜重滿道、徑來入皖。(周魴傳)」といった記述からも裏付けられる。

 ただ、「入皖」とあるのは、是儀傳の「遣儀之皖就將軍劉邵」という記述からすれば、皖城に文字通り入城したという事ではなく、皖縣の領域に入ったという事を云うと思われる。


 実際の戦闘経過は「三道俱進、果衝休伏兵、因驅走之、追亡逐北、徑至夾石、斬獲萬餘、牛馬騾驢車乘萬兩、軍資器械略盡。(陸遜傳)」、「魴亦合眾、隨陸遜橫截休、休幅裂瓦解、斬獲萬計。(周魴傳)」と簡略に記されている。

 陸遜傳に依れば、吳軍は「三道」を以て進み、曹休の伏兵を突破して彼を敗走させ、夾石に至るまで追撃している。周魴傳に依れば、周魴は陸遜に従って曹休に横撃を加え分断し、その軍を瓦解させている。そして、共に戦果は「萬」であり、曹休は「牛馬騾驢車乘萬兩、軍資器械」を遺棄して敗走している。


 この経過から見ても、曹休は野天で会戦しており、そのまま敗走している事からも、やはり皖城に入城しているとは考え難い。また、吳軍は「三道」で進んでいる事から、全琮・朱桓の「左右翼」に加え、陸遜の「中部」もそれなりの兵力を有していた事が伺える。

 ところで、曹休傳では「戰不利、退還宿石亭」と、石亭が戦場ではなく「退還宿」した地になっている。戦場が石亭以外であると明帝紀・吳主傳の「於石亭」という記述に疑いが生じるだけでなく、敗走中に一旦石亭に「宿」り、「軍夜驚、士卒亂、棄甲兵輜重甚多」して、夾石まで追走された事になる。

 その可能性を否定するものではないが、状況がやや間延びしたものになる。これは曹休傳に、夾石を石亭とした誤記、或いは、目的地が尋陽となっている事による誤認があるのだろう。黄初七年の際との混同があるのかもしれない。


 この記述だけでは戦闘開始時の状況は知れないが、曹休は伏兵を配しており、切迫した状況での開戦ではない様に思われる。ところで、その「伏兵」であるが、兵を分ける余裕があるという見方もできるが、どちらかと言えば、優位な態勢にある側がとる策ではないだろう。

 従って、「自恃兵馬精多(陸遜傳)」・「自負眾盛(朱桓傳)」という心境ではなかったのではないか。この二傳の記述は「休既覺知、恥見欺誘、自恃兵馬精多、遂交戰。(陸遜傳)」、「休知見欺、當引軍還、自負眾盛、邀於一戰。(朱桓傳)」と構造が似ており、佯降の謀計が成功した事を喧伝するという同一の意図から出ていると見られる。

 つまり、推測だが、曹休が石亭周辺に留まっている事、伏兵を設けている事から、吳に包囲されて已む無く開戦したのではないが、不利とまでは考えていないにしても、自己の優位を確信していない、といった状況かと思われる。

 従って、賈逵の到着、或いは司馬懿の夏口攻撃によって、状況が変化する事をある程度は想定しての開戦ではなかったか。


 後に曹休は「逵進遲」・「後期罪」と、賈逵が合流して然るべきを遅れたと認識している。これは、開戦前、曹休が賈逵を早期に合流できる位置にいると認識していた可能性を示している。

 また、曹休に司馬懿の夏口攻撃の予定が伝わっていれば、自軍に「引權東下」させる役割もあることは認識していた筈である。となると、曹休が軽々に決戦に及ぶとは考え難く、少なくとも早期に賈逵が参陣することを前提に戦端を開いたと思われる。

 無論、吳軍の攻勢に已むを得ず戦闘に及んだ可能性もある。また、曹休の気性は、下辯をめぐる戦いでの発言や、洞浦口に及んでの上表などから、果断にして、攻勢を好む傾向があるように見えるので、彼が賈逵傳に「逵與休不善」、不仲であると云う賈逵や、競争相手となり得る司馬懿の意図を無視して、戦端を開いた可能性もある。

 とは言え、両名の存在を全く無視して戦端を開いた可能性は低いだろう。


 「石亭の戦い」は曹休の敗走、そして、夾石からの吳軍の撤退を以て終わる。この終局に関する各傳の記述を見ると以下の如くである。


 賊將偽降、休深入、戰不利、退還宿石亭。軍夜驚、士卒亂、棄甲兵輜重甚多。休上書謝罪、帝遣屯騎校尉楊暨慰諭、禮賜益隆。休因此癰發背薨、諡曰壯侯。(曹休傳)


 乃兼道進軍、多設旗鼓爲疑兵、賊見逵軍、遂退。逵據夾石、以兵糧給休、休軍乃振。初、逵與休不善。黃初中、文帝欲假逵節、休曰:「逵性剛、素侮易諸將、不可爲督。」帝乃止。及夾石之敗、微逵、休軍幾無救也。會病篤、謂左右曰:「受國厚恩、恨不斬孫權以下見先帝。喪事一不得有所脩作。」薨、諡曰肅侯。(賈逵傳)


 會休軍已敗、盡棄器仗輜重退還。吳欲塞夾石、遇救兵至、是以官軍得不沒。(蔣濟傳)


 賊果從無彊口斷夾石、要休還路。休戰不利、退走。會朱靈等從後來斷道、與賊相遇。賊驚走、休軍乃得還。是歲休薨、寵以前將軍代都督揚州諸軍事。(滿寵傳)


 追亡逐北、徑至夾石、斬獲萬餘、牛馬騾驢車乘萬兩、軍資器械略盡。休還、疽發背死。(陸遜傳)


 曹休傳のみ「石亭」以外で戦い、「退還宿」していた夜に「士卒亂」れて敗走した事になっている。陸遜傳の状況と異なるのは、敗北を小さく見せる為の記述かと思われる。「石亭」は「夾石」の誤りであろうか。

 但し、石亭近郊で戦い、軍を退いた夜に、壊走したとしても問題はない。ただ、この場合、曹休傳では元より記述がない「夾石」について、全く触れていない事になる。

 その「夾石」であるが、賈逵傳では「多設旗鼓爲疑兵、賊見逵軍、遂退。逵據夾石、以兵糧給休、休軍乃振。」、蔣濟傳では「吳欲塞夾石、遇救兵至、是以官軍得不沒。」、滿寵傳では「會朱靈等從後來斷道、與賊相遇。賊驚走、休軍乃得還。」と、吳軍が撤退した事で、曹休軍が帰還を果たしたという点では一致している。

 しかし、各記述をよく見ると、吳軍撤退の契機となったのが、「(賈)逵軍」・「救兵」・「朱靈等」と一致していない。「救兵」は「(賈)逵軍」或いは「朱靈等」の言い換えと言えるが、賈逵・朱靈と名が一致しない。

 また、賈逵傳の記述もよく見れば、「(賈)逵 夾石に據り、以て兵糧を(曹)休に給し、休軍 乃ち振う。」であり、「得不沒」・「得還」とする蔣濟傳・滿寵傳とはやや異なる。

 深読みすれば、賈逵が夾石を確保して、兵糧を曹休軍に供給した事で、敗走してきた曹休軍は勢いを取り戻し、その後、「朱靈等」が到達した事で、吳軍が全面撤退した、ともとれる。

 無論、「等」の中に賈逵が含まれ、同一事を言っているとするのが妥当であるが、互いに名が見えない事は不審である。或いは、曹休の敗報を得た「(賈)逵軍」の「諸將」が待つ事を欲した「後軍」がこの「朱靈等」の軍であったのかもしれない。


 最後に、『魏略』によれば、曹休は賈逵の「進遲」に対して「呵責」して、「往拾棄仗」を命じている。これに対して、賈逵は「恃心直」み、「本爲國家作豫州刺史、不來相爲拾棄仗也」と応えたと云う。

 これを曹休が賈逵に責任を押し付けているという文脈で読むと、単なる意趣であるかに見える。ただ、曹休の側から見ると、賈逵は「兼道進軍」したとは言え、「設旗鼓爲疑兵」て吳軍を退かせたのみで、戦闘を行っていない。

 そして、曹休の言う「棄仗」の「仗」は「兵器」のことであり、それには陸遜傳に云う「牛馬騾驢車乘萬兩、軍資器械」が含まれるであろうが、遺棄された死傷者、更には潰乱した生存者なども含むのではないか。

 その回収を余力がある筈の賈逵に行わせるのは、不当ではないとも言える。但し、吳軍が完全に撤退したかが定かでないという点では酷な命令ではある。

 一方で、賈逵は「本爲國家作豫州刺史」と言うが、この戦役に関しては、豫州刺史として何程の事も為していない。曹休軍を救ったとしても、後方に現れて退路を確保した、窮極的にはそれだけとも言える。

 その点では、賈逵の言も「呵責」された事に対する意趣にも聞こえる。

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