曹休考①

 「石亭の戦い」は周魴の「偽降」(佯降)により、曹休が「深入」、誘い出され、大敗している。

 この大敗は曹休の責に歸されているが、直接の戦闘に於ける敗北そのものは兎も角、魏軍の戦略に何らかの齟齬があった事は既に指摘した通りである。


 ところで、「偽降」の対象が何故、曹休であったのか、言い換えれば、吳は何故、「偽降」の対象に曹休を選んだのであろうか。周魴傳には「令譎挑魏大司馬揚州牧曹休」と、明確に曹休を名指しして「いつわ」る事が指令されている。


 その理由として、直接には曹休が大司馬、魏の軍事に於ける最高位に在る事、でありながら、最前線に程近い揚州(壽春)に鎮し、現実に吳への軍事的圧力となっていた事、そして、比較的近傍に在り、接触が容易であった事などが挙げられるだろう。

 そして、この「偽降」を受け容れた事で、曹休には「愚將」といった印象も無いではない。つまり、曹休ならば「譎」り易い、容易に欺し得ると見做されたとも考えられる。

 だが、周訪の「降」自体は、曹休が主導したという面があるにせよ、朝廷にも受け容れられており、それ故に司馬懿・賈逵への「駐軍」・「東與休合進」という詔が出たのであり、曹休が独り安易に周魴を信じたわけではない。


 また、仮に曹休が容易に欺せる、乗じ易い人物であったとすれば、それはくみし易い相手であるとも言え、果たして、策を以て誘き寄せる必要まで、あったであろうか。吳にとって、曹休が脅威であり、これを排除、或いは打撃を与えたいが、正面からでは困難であるが故に、謀略という手段を執ったとも考えられる。

 だが、大司馬として曹休が擁していた兵力が脅威なのであって、彼個人は無関係という可能性もある。曹休の兵力については、朱桓傳に「休將步騎十萬」、周魴傳にも「休果信魴、帥步騎十萬」と、共に「步騎十萬」であったとする。ただ、これは吳側の記録であり、一般に戦勝の場合、自軍の戦果を喧伝する為に敵軍は過大に記述される傾向がある。

 また、『三國志』に於いて、その兵(「眾」)が「十萬(十餘萬)」とされるのは、曹操に抗した袁紹や劉表の如く、一方に偏して自立した勢力の総兵力を称した場合が多い。魏の東方域を統轄する曹休もそれに準ずるとは言えるが、「十萬」は彼が直接率いた兵ではなく、動員し得る最大限の兵力と見るべきだろう。


 ともあれ、曹休は「石亭の戦い」に於いて鍵となる人物であり、吳が彼を標的とした理由、また、彼が周魴の「降」を受け容れた理由などを考察する為にも、疑問点を挙げ連ねるという趣旨からは外れるが、彼の経歴を概観しておきたい。


 曹休は「太祖族子」、魏の宗室である。ただ、宗室と言っても、「族子」であるから、系譜上の関係はやや遠く、曹操の祖父(父の養父)曹騰の兄の子孫(曾孫)に当たる。但し、曹休は「年十餘歲」で父を喪い、曹操の許で育ち、「與文帝同止、見待如子」という待遇を受けている。


 曹休が父を喪ったのは「天下亂、宗族各散去郷里」の最中であり、その後、吳郡に在ったが、「以太祖舉義兵、……閒行北歸、見太祖。」と、曹操の下に参じている。この「太祖舉義兵」は初平元年(190)正月の「山東州郡起兵以討董卓」時の事である。

 初平元年に最低でも「十餘」であったならば、曹休は光和三年(180)以前の生まれとなる。これがどこまで遡るかは、「餘」及び、「喪父」から「太祖舉義兵」までの期間によって変動する。但し、文脈や、彼の閲歴から考えて、「太祖舉義兵」時に弱冠(二十)を超えていたとは考え難いので、建寧四年(171)以降、主として熹平年間(172~178)の生まれと見るのが妥当である。


 曹休がその最中に父を喪った「天下亂」は熹平年間以降で、最初に想起されるのは、光和七年(184)の「黄巾の乱」である。曹休の本貫である沛國譙県は豫州に属し、隣郡汝南・潁川郡は黄巾の活動が盛んであった地である。曹休の父の死がこの年であったなら、曹休は熹平三年(174)以前の生まれとなるが、曹操の挙兵までの期間がやや長くなる。

 「黃巾の乱」自体はその年の内に平定されているが、その後も各地で「賊」による「寇」が頻発しており、その一つに中平五年(188)四月の「汝南葛陂黃巾攻沒郡縣」というものがある。

 一方で、夏侯淵傳に「太祖居家、曾有縣官事、淵代引重罪、……」という記事が有り、その裴注に『魏略』を引いて「時兗・豫大亂、淵以饑乏、棄其幼子、而活亡弟孤女。」と、「太祖居家」の「時」に、「兗・豫大亂」であったと云う。

 この「太祖居家」は「兗・豫大亂」を鑑みれば、中平元年(184)の黄巾討伐後、濟南相と為っていた曹操が、東郡太守とされるも就かず、中平五年(188)の「置西園八校尉」で典軍校尉に任じられるまでの間に「稱疾歸郷里」していた時期と見られ、上の「汝南葛陂黄巾」の活動は当にその期間に含まれる。


 また、『魏略』には「建安五年、時霸從妹年十三四」なる少女が見えるが、建安五年(200)に「年十三四」ならば、当に中平五年(188)、或いはその前年の生まれである。夏侯淵が「其幼子」を棄てて「活」かしたと云うのは、この「霸從妹」、夏侯淵の子霸の從妹、乃ち「亡弟孤女」であったのだろう。

 この事から考えると、曹休傳の「天下亂」も「黃巾の乱」そのものと言うより、それによって惹起された中平五年(188)前後の争乱と見る方が妥当である。であれば、曹休は熹平末、六年(177)前後の生まれで、「十餘」、十代前半で父を喪い、それから然程時を措かずに曹操の挙兵によって、吳郡から北へ歸ったと見たい。

 なお、曹休と「同止」、「止」(居る所)を同じくした「文帝」こと曹丕は中平四年(187)生まれであるから、曹休とは十歳前後の年齢差があった事になる。


 吳から遙々自らの下に歸した曹休を、曹操は「此吾家千里駒也」と称したと云う。

 「千里駒」は千里を駆ける馬の若駒、駿馬と成るべきものを云い、元来は漢武帝が宗室の劉德を称した語である。曹操は劉氏の「千里駒」、劉德に比して、曹休を「吾家」、曹氏の「千里駒」と評した事になる。

 なお、この「吾家千里駒」は人口に膾炙しており、後世、前趙(漢)の劉淵が族子劉曜を、前秦の苻堅が從兄子苻朗を同様に評した事例などが伝わっている。ここで、曹休が「駒」とされた事からも、彼が当時は弱年、十代であったと推定される。


 曹休が曹操の下に至った時期は不明だが、「易姓名轉至荊州、閒行北歸」と、荊州を経由して、しかも、正体を隠して北行したと云うのだから、吳から北へ直歸する経路に支障があったと考えられる。

 その原因としては、反董卓の挙兵当初、南陽に拠っていた袁術が、曹操との対立などから、南方へ逃れ、初平四年(193)三月に「袁術殺楊州刺史陳溫、據淮南。」となった事があったのではないか。

 同年以降に北歸したのならば、曹操の下に至ったのは興平年間(194~195)ではなかったか。同年間、曹操は張邈等が引き入れた呂布によって、本拠とした兗州を一時奪われ、その奪還の為に奮闘しており、曹休がその最中、或いは平定直後に「歸」還した故に、より歓待されたとも想像される。


 以降、曹休は、獻帝(劉協)を許に迎え、漢廷の主宰者となっていく曹操の下で、「常從征伐」とされるが、弱年故に、当初は文字通り、ただ「從」っていたのみと思われる。

 やがて、「使領虎豹騎宿衛」と、「虎豹騎」を領して宿衛、曹操の直衛に当たっている。この「虎豹騎」は曹純傳(曹仁傳附)に引く『魏書』に「皆天下驍銳、或從百人將補之」とされる精鋭であり、それを任された曹休への信任が窺える。


 ところで、この「虎豹騎」については王沈『魏書』にその「督」であった曹純の死後、「選代」、後任を選ぶ様に云われた曹操が「純之比、何可復得。吾獨不中督邪」、曹純に代わり得るものはいないとして、「遂不選」であったとする。つまり、曹純の死後、虎豹騎の「督」は不在であり、曹休が「領」したのは、それ以前と見做される。

 だが、曹純はその傳に引く『英雄記』に「二十、從太祖到襄邑募兵」とあり、これは初平元年(190)正月の「舉義兵」時の事であろうから、その前年末に「二十」として、建寧三年(170)生まれである。

 曹純は「太祖從弟」である曹仁の弟、乃ち曹休の父排であり、この点からも曹休より年長と見られる。その曹純より前に、曹休が虎豹騎を「領」したというのは、やや不自然である。

 また、曹純が虎豹騎の督と為ったのは、その傳に「督虎豹騎從圍南皮」とある時点であり、これは続けて、「袁譚出戰、士卒多死。」ともある様に、建安九年(204)九月の「譚懼、拔平原、走保南皮」時の事である。

 以降、曹純は「麾下騎」・「部騎」を率いて転戦しており、この「騎」は虎豹騎に他ならないだろう。『魏書』に従えば、建安十五年(210)の死去時まで引き続きその地位にあった事になり、その間に曹休が虎豹騎を「領」していたとは考え難い。


 すると、曹休傳の続く記述は「劉備遣將吳蘭屯下辯」、建安二十二年(217)末の「劉備遣張飛・馬超・吳蘭等屯下辯」時の事であるから、建安九年以前から十餘年に亘って、曹休の経歴は不詳となる。

 曹純の「督」と、曹休の「領」が全く同等の地位とは断言できないものの、曹純が三十五で任じられたのと同様の地位に、二十代半ばで就きながら、以降の動静が不明というのは、記録の不備、事績の欠如と言えなくもないが、不審である。

 従って、曹操が「不選」であったのは一時的なものであり、建安二十二年(217)以前の程からぬ時期に虎豹騎を「領」したと見るべきである。なお、同年に曹休は四十前後となり、それ以前、曹純と同年輩で虎豹騎の指揮を委ねられたというのは、妥当ではないか。

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