曹休考②

 曹休の経歴に於いて、年代が確実となるのは、建安二十二年(217)末の「劉備遣張飛・馬超・吳蘭等屯下辯」という事態に際して、「太祖遣曹洪征之、以休爲騎都尉、參洪軍事。」とあるのが最初である。


 曹休の立場は主將である都護將軍曹洪の參軍であるが、曹操は「汝雖參軍、其實帥也」と、曹休が実質的には帥將であると明言しており、曹洪もそれを聞いて、万事を委ねたと云う。

 これは曹操が先の「千里駒」以来、曹休に抱いていた期待の表れと言える。そもそも、「求賢」に熱心で、「唯才是擧」とまで述べた曹操が単なる身贔屓で曹休を評したとも考え難く、その評に違わぬものが曹休にあり、曹洪もそれを認めていたのであろう。


 なお、この曹洪に関しては、その傳に引く王沈『魏書』に「洪伯父鼎爲尚書令」とあり、安徽省亳州市の「曹氏宗族墓群」出土の磚に「吳郡太守曹鼎」と見える人物に同定される。

 そして、同じく『魏書』には「休祖父嘗爲吳郡太守」ともあり、それは曹休が父の死後、吳に赴いた理由でもあるが、曹操の族子である曹休の祖父であれば、曹操やその「從弟」である曹洪の父輩に当たるので、「洪伯父鼎」・「吳郡太守曹鼎」と曹休の祖父が同一人である蓋然性は高い。

 東漢に於いて、太守・國相から尚書令、或いはその逆という例は直接でないものも含めると多数確認でき、曹鼎がその一例とする事に問題はない。更に言えば、『後漢書』卷六十七黨錮列傳(蔡衍)に「中常侍騰之弟」として見える「河閒相曹鼎」も同一人と思われる。「河閒相曹鼎」は曹操の(養)祖父曹騰の「弟」であるから、曹休の曾祖輩となるが、從父・從子で同名とは考え難く、「弟」が誤伝であろう。

 ともあれ、曹休の祖父が曹洪の伯父であれば、曹休にとって曹洪は父の從兄弟であり、父亡き後、最も身近な親族の一人という事になる。曹操が曹洪に彼を副え、曹洪がそれを受け容れた理由には、この関係もあったと思われる。


 さて、実質的帥將として下辨に向かった曹休は、「備遣張飛屯固山、欲斷軍後。」と、劉備が派遣した張飛によって、後背を断たれ、挟撃されんとするが、彼が「賊實斷道者、當伏兵潛行。今乃先張聲勢、此其不能也。宜及其未集、促擊蘭、蘭破則飛自走矣」と、速戦を主張し、実行した事で勝利を得ている。これが建安二十三年(218)三月の事である。

 以降、下辨を含む漢中では建安二十四年(219)正月に、その守將夏侯淵が定軍山に於いて戦死しており、曹操は漢中に向かったものの、諸軍を帰還させたのみで、五月には長安に戻っている。

 曹休はこの帰還に随い、中領軍に任じられている。中領軍は曹操の中軍(直屬軍)を率いる地位で、その親衛に戻ったとも言える。そして、洛陽へと戻る曹操に同行し、翌年正月のその死去にも立ち会ったと思われる。


 曹操の後を襲い、魏王となった曹丕の下で、曹休は領軍將軍を経て、「鎮南將軍・假節都督諸軍事」に任じられている。

 これは延康元年(220)四月の大將軍夏侯惇の死を受けての人事であり、「都督諸軍事」と任所が不明で、地域を限定しない「諸軍」を統轄したとも考えられるが、夏侯惇が前年まで揚州の居巢・壽春に在った事を鑑みれば、揚州を統轄したと見るのが妥当である。

 そして、曹休は直後に歷陽(揚州)で孫權の將を破り、対岸の蕪湖にある「賊」營を焼き討ちさせ、その功により、征東將軍・領揚州刺史に任じられている。

 同年十月に曹丕は獻帝の禪󠄃りを受けて、皇帝位に即いているが、彼はその七年、満六年に満たない治世に於いて、延康元年(220;中断)、黄初三年(222;四年三月撤退)、黄初五年(224;至廣陵、還)、黄初六年(225;至廣陵、還)と示威も含めて、ほぼ隔年で「征吳」を催している。その間、そして、文帝(曹丕)の死後も一貫して曹休は「都督揚州」として、対吳の前線を担い続けている。


 後に明帝(曹叡)が司馬懿に対して、「二虜宜討、何者爲先」という問いを発しているが、曹丕の場合、問うまでもなく、吳というのがその答えであり、後方からの督戦とは言え、常に自ら出征している。

 そして、曹休も延康元年・黄初三年には実際に出征しており、記録には見えないが、五年・六年にも揚州の都督として関与しているだろう。文帝との関係や、「吳」との縁を考えれば、曹休自身も「征吳」に積極的であったと考えられる。つまり、吳にとって曹休は主敵、それも、その強硬な一人であったと言える。


 魏にとって揚州は対吳の最前線であるが、他の対吳・対蜀の前線である荊州や雍州に比して遠隔である。都城からの距離は、統制の困難さに繋がり、自立化の危険性などを孕む事になる。一方で、敵國の勢力圏に近接する以上、軍事的な権限を与えておかねば、即応性を欠く事になる。

 なお、『續漢書』郡國志に依れば、雍州(長安)は「雒陽西九百五十里」、荊州(宛)は「雒陽南七百里」と洛陽から千里未満であるのに対して、揚州(壽春)は「雒陽東一千五百里」である。

 また、臧覇傳(魏書十八)に「以曹休都督青・徐」とあり、一時的の可能性もあるが、曹休は青・徐州も督しており、青州(齊國臨淄)が「雒陽東千八百里」、徐州(東海郡郯)が「雒陽東千五百里」と、やはり遠隔に在る。

 従って、揚州の都督(帥將)には、人格的にも、能力的にも、より信頼の置ける人物を配する必要があり、曹操の晩年に、挙兵以来の將で、最も近しい身内とも言える夏侯惇がその任にあったのは、その故であると言えよう。逆に、魏末に於いては、王淩・毌丘儉・諸葛誕等が「揚州」に於いて、反司馬氏の動きを見せる事になる。


 そうした「揚州」を十年近くに亘って委ねられた曹休は、魏(曹氏)にとって、少なくとも、曹丕にとっては最も信頼し得る人物であったと言える。

 曹丕は曹休が夏侯惇に代わって揚州に赴く際には、自ら送別に臨み、その手を取って別れを惜しんでおり、また、曹休傳に引く『魏書』には、母を亡くし憔悴する曹休に対して、使者を遣わして慰撫すると共に、早期の復帰を望んだ事が記されている。これ等は「征吳」の為に曹休が不可欠と見做していた故であろう。


 ただ、吳の朱桓が「休本以親戚見任、非智勇名將也」としている様に、曹休が起用されたのは、才幹によってではなく、この親密さの故である、という見方もある。

 しかし、朱桓は曹丕や曹仁に対しても、「雖曹丕自來、尚不足憂、況仁等邪」という言を残しており、本より自負心の強い人物であり、敵対する立場に在る事からすれば、その発言は割り引いて考える必要がある。また、殊更に「智勇名將」に非ざると述べている事からすれば、逆に、そう見る向きがあったとも考えられる。


 一方で、滿寵が「曹休雖明果而希用兵」としており、曹休の將器に留保が必要であったかにも見える。とは言え、滿寵の立場としては曹休をあから様に愚劣と評するわけにはいかなかったにせよ、「明果」、明敏果断と評しており、そう評されるだけの、実績の一端が在ったと考えられる。

 また、「兵を用いることまれ」と云い、曹休の將としての閲歴は建安末からの十年程しかなく、曹操の挙兵以来、或いは、その覇権確立の過程で參じた將領に比べれば、確かに「希」(稀)と言えるかも知れない。

 だが、そうした將達の次世代、曹操の子排に当たる者としては、その晩年以降の戦役にはほぼ係わっており、同じく曹操の「族子」たる曹眞などと並び、むしろ比較的豊富な戦歴を有すると言える。

 後年、明帝の崩御に当たって、孫資が「陛下即阼、猶有曹休外內之望」と述べた事が、劉放傳(魏書十四)引く『孫資別傳』に見え、少なくとも、明帝即位の時点で、曹休に「外內之望」を得るだけの実績があった事は否定し難かったと言える。


 以上から、曹休は太和二年(228)の時点に於いて、魏にとっても、吳にとっても、無視し難い將であり、為に吳の謀略の対象とされたと考える。

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