「伐吳」の計⑤

 魏軍の戦略には互いに齟齬があったと目されるが、それを弥増したのは周魴の降服であったと言える。ただ、これによって曹休の戦略、行動は、当初より「深入」る事になった以外に、大きな変化は無かったと思われる。


 賈逵傳や『晉書』宣帝紀に見える賈逵や司馬懿の戦略構想に従うなら、曹休の行軍には吳軍を引き付けるという目的もあったと思われる。その場合、その行軍に隠密性は無く、堂々と「虎歩」する如き進軍が求められていた筈である。

 また、周魴に呼応を促す必要もあったと思われ、周魴とその眷屬が吳領を脱出し、それを密かに収容するというのならば、隠密性も必要だが、それに曹休自らが赴く必然性は低く、また、合流の必要を考えれば、過度の隠密性は阻害要因となる。

 一方で、周魴の降服に疑念を抱いていたとしても、撤兵するという選択肢は別にして、行動自体に大きな違いはないであろう。ただ、当然ながら、佯降であれば、吳軍が待ち構えている筈で、決戦を想定して進軍していく事になる。

 何れにせよ、積極的か否かの違いはあれ、吳軍との対峙を想定しつつ、ある程度、公然と進軍していく事になる。であればこそ、軍の増強、つまり、賈逵等豫州軍の合流が必要とされたと考える。


 その賈逵が周魴の歸服をどう見ていたかは、言及が無く、不明である。ただ、着目すべきは、詔を受けた後の「逵度賊無東關之備、必并軍於皖。休深入與賊戰、必敗。」という認識である。曹休が「必ず敗」れんというのは、自身が「合進」しないという事を前提としているという点で不審である。

 だが、それ以上に、「賊」こと孫權が「東關之備」を無くすならば、魏軍に備える必要が無い、つまり、「東關」が攻撃を受ける可能性が無いと認識している事になる。

 この「東關」は、既に見た様に、鄂(武昌)と見做すべきである。巢湖の東關であった場合、曹休の進出によってその備えを無くすというのは不合理である。と言うのも、巢湖は合肥に通じ、東は魏の徐州南部に、西は廬江郡に至る。

 魏の揚州・徐州南部の軍事情勢は不分明だが、曹休が侵攻の為に動員していたとしても、合肥などに、それなりの兵力は維持されていた筈である。また、曹休が廬江から転進する可能性も無しではない。つまり、実際の東關攻撃の可能性は兎も角、孫權が東關の防備を撤するとは考え難い。


 一方で、鄂(武昌)であれば、魏の勢力圏に近接しておらず、渡江の必要もあり、東關に比べれば備えを薄くする事はできる。無論、飽くまでも比較的であり、孫權が「東關」の備えを無くすのは、周魴の動向に懸念を抱いていない、という前提がなければならない。

 周魴の降服が事実で、孫權がそれを知らないならば、それに備えないのは当然である。しかし、実際に周魴が反した場合、彼が郡外の鄂(「東關」)を攻撃する可能性は低いが、孫權はそれに対応する必要が生じ、「東關之備」を周魴に振り向ける事はあっても、「皖に於いて軍を并」せる事は困難となる。

 一方で、周魴が佯降であれば、孫權がその動向に備えないのは当然である。つまり、賈逵は周魴が孫權に反する動きを見せないという前提を持っている事になる。従って、賈逵は周魴を佯降であると見ていた可能性がある。

 ただ、孫權が「東關之備」を無くすには、荊州方面、乃ち司馬懿からの攻撃が無い、或いは、阻止できるという確信がなければならない。


 また、賈逵傳の記述によれば、「東關」に「北方之虞」が無い故に、孫權は「東西に急有らば、軍を并せて相ひ救」う事ができるとしている。この「北方之虞」を有らしめるために、賈逵は潦口に屯を移した筈であるが、現に彼が曹休に合流すべく「東」している以上、「東關」に対する圧力としての「北方之虞」は無くなっている。

 すると、その状況も孫權は把握しているから、「東關之備」を無くすという事になる。つまり、孫權は魏軍の展開状況を的確に把握しているという事になる。そして、賈逵の認識はその吳側の認識を前提にしている。これは蔣濟が司馬懿の攻撃が無い事を前提にしている事と共通する。


 では、その荊州方面、つまり、司馬懿の認識はどうであったのであろうか。


 司馬懿に関しては、直接の史料が無く、賈逵以上に判断すべき材料がない。従って、行動から推測するしかないが、その行動は詔による「駐軍」となる。

 この「駐軍」は攻撃的な意図、つまり、夏口攻撃の為に張郃等「關中諸軍」と合流を期したものと考えられる。但し、可能性は低いが、防御的な意図、つまり、吳軍による荊州(襄陽・宛)攻撃に対応する為との見方もある。

 先ず、後者について考えると、周魴の降服が真実であった場合、吳は曹休の進攻と、周魴の叛乱に対応しつつ、魏領の荊州に攻撃を仕掛けるという、攻防両面の、言わば二正面作戦を強いられる事になる。これは、佯降であった場合も同様で、叛乱への対処が不要になるだけで、二方面に対応しなければならない点に変わりはない。

 この両面作戦の遂行が吳に不可能とは言えないが、殊に前者を強いて行うべき理由は見出せない。つまり、周魴についてどう判断していたとしても、強いて言えば、佯降であった場合に、攻撃を受ける可能性があるが、防御的に「駐軍」を続ける理由は薄い。従って、「駐軍」から司馬懿が周魴についてどう判断していたかは判じ難いが、「駐軍」を続けたとすれば、佯降であると見做していた可能性があると言える。


 しかし、司馬懿の「駐軍」は攻撃的な意図からである可能性が高い。この場合、周魴が佯降であったならば、賈逵が想定する「賊無東關之備、必并軍於皖」という状態、つまり、吳が曹休邀撃に傾注する事態を生じさせない為に、夏口・鄂方面への攻撃が早急に行われる必要がある。

 一方で、降服が事実であったならば、逆に「無東關之備」とさせる事が夏口・鄂(=東關)への攻撃を容易にする。そのように考えると、実際に司馬懿の進軍は「會冬」まで行われていないのだから、攻撃を急ぐ必要がない、つまり、降服を信じていたという事になる。


 以上を以て、司馬懿の判断を断定するのは憶断であるが、彼が切迫した意識を持っていなかった事を推測させる事例がある。

 吳は陸遜傳に「自爲中部、令朱桓・全琮爲左右翼」、朱桓傳に「陸遜爲元帥、全琮與桓爲左右督」とある様に、陸遜を主帥として、全琮・朱桓の三者で、曹休を迎撃している。朱桓は先に見た様に濡須方面に在ったと見られ、廬江を行く曹休の迎撃に当たるのは妥当である。

 全琮は本傳に「黄初元年、魏以舟軍大出洞口、權使呂範督諸將拒之、軍營相望。……遷琮綏南將軍、進封錢唐侯。四年、假節領九江太守。」とある。九江郡は廬江郡の北、壽春・合肥・歴陽を含む地域であり、洞口(洞浦)も歴陽近郊の地である。

 また、周魴傳の「書三」に「全琮・朱桓趨合肥」とあり、朱桓と同じく、巢湖方面、歴陽周辺に在ったと見られる。歴陽の対岸に当たる牛渚には「督」が配されており、全琮はそこに屯している。「石亭の戦い」の後、全琮は東安郡を領する事となるが、その後、「還牛渚」とあるので、当該期にも引き続き牛渚に在った筈である。


 陸遜については、本傳に黄武元年の対劉備戦の後、「加拜遜輔國將軍、領荊州牧、即改封江陵侯。」とあるのみで、荊州に在るであろう以外、その任所は不明である。但し、戦後に「遣還西陵」とある「還」に着目すれば、西陵と推定される。

 西陵は吳主傳黄武元年条に「是歲改夷陵爲西陵」とある様に、同年に陸遜が劉備を撃破した夷陵である。同地は江陵の西北西、所謂「三峽」の蜀からの出口に当たり、東方は当陽・長坂・麦城などを経て北に襄陽に至り、魏・吳・蜀の接壌地となっている。つまり、陸遜は魏・蜀双方に備える任に在った事になる。

 従って、元より廬江郡方面に在った全琮・朱桓とは異なり、陸遜は曹休迎撃の為に召喚され、任所を離れた事になる。この際、当然守將は残したであろうが、一定程度の軍が陸遜と共に移動し、多かれ少なかれ、吳の荊州方面の軍事情勢は変更された筈である。

 しかし、この情勢変化に対して、司馬懿が対応した形跡は見られない。江陵の朱然の存在があったとしても、陸遜不在の西陵に何らかの対応があって然るべきである。

 これは、夏口攻撃に専念していた為ともとれるが、司馬懿の情勢認識に緩みがあったとも言える。例えば、同年の孟達討伐に見せた鋭敏さに比べると、明らかに鈍い。


 以上から、司馬懿は周魴の降伏について肯定的に、賈逵は否定的に見ていた可能性があるという推測が得られる。但し、賈逵についても、佯降を見抜いていたと言うには、その行動から見て、疑念が残る。

 と言うのも、賈逵は「水陸並進、行二百里」の後、「得生賊」て「休戰敗」を知り、「兼道進軍」している。逆に言えば、「得生賊」までは通常の進軍をしていたという事になる。記述に従えば「休深入與賊戰、必敗」と認識しているにも拘らずである。

 これは曹休の敗北を見過ごすつもりであったのでなければ、少なくとも自軍が合流するまではそうした事態が生じないと見ていたという事であろう。従って、曹休の敗退が賈逵の想定より早かったという可能性はあるが、賈逵自身も切迫した認識は持っていなかったという事になる。

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