「伐吳」の計③

 最後に、荊州の司馬懿について見てみたい。


 荊州の情勢については、司馬懿が督荊・豫二州諸軍事である以外は、刺史なども不明である。これ以前、文帝(曹丕)の治世に於いて荊州を統轄していたのは、征南大將軍・領荊州刺史・假節都督南方諸軍事であった夏侯尚である。

 夏侯尚は魏の準皇族とも言うべき夏侯氏の出で、曹操の挙兵に従った夏侯淵の從子であり、尚且つ、「文帝與之親友」、文帝(曹丕)とも親しく、その点では「(曹操)使與文帝同止、見待如子」とある曹休や、「(曹操)收養與諸子同、使與文帝共止」とある曹眞と似た立場に在り、この三者が文帝期の対吳・対蜀の軍事を担っていたと言える。

 だが、この夏侯尚が黄初七年(226)四月、文帝崩御に先立つ事、凡そ一月で死去しており、その後任に当たるべき宗室、曹氏・夏侯氏が不在であった為、司馬懿がその任に当たる事となっている。

 その司馬懿の軍事的才幹が発揮されたのが、太和二年(228)年頭の「新城太守孟達反」に対する対処である。諸葛亮の「北伐」の前哨戦とも言うべきこの戦いで、司馬懿は孟達をして「何其神速也」と呻かせる用兵を行っている。


 吳で、この司馬懿に対するのは、黄武元年(222)に侵寇してきた劉備を夷陵に撃破した際に、「領荊州牧」とされた陸遜である。ただ、彼は「石亭の戦い」後に「遣還西陵」とある様に、「西陵」に駐留しており、これは吳主傳黄武元年条に「是歲改夷陵爲西陵」とある夷陵である。

 夷陵(西陵)は荊州の西部だが、蜀の「東關」たる江州から江水を下ってきた出口を扼す位置にあり、北に魏の襄陽とも接し、三國の交に当たる。そして、吳の荊州である江陵には、關羽から奪取した呂蒙の死後、朱然が鎮しており、この両者がこの時点での吳の荊州を統轄する存在と言える。

 なお、朱然は魏の曹真・夏侯尚・張郃等による江陵攻撃を撃退し、魏に於ける文聘と同じく、「名震於敵國」となっている。


 その荊州に於いて、司馬懿は曹休傳に「遣司馬宣王從漢水下」、賈逵傳に「司馬宣王從江陵」とある様に、その屯所の宛(南陽郡)から襄陽に入り、そこから漢水を下った筈である。その軍は『晉書』宣帝紀に「水戰軍向夏口」とある事からすれば、水軍を主体としたものであったと思われる。

 そして、その目的地は「漢水り下」る点からすれば、その江水との合流点、夏口であるのが相応しいが、中途から江陵(南郡)を目指す事も可能である。

 なお、この水路を以て夏口・江陵へ向かうというのは、關羽傳(蜀書六)に「曹公定荊州、先主自樊將南渡江、別遣羽乘船數百艘會江陵。曹公追至當陽長阪、先主斜趣漢津、適與羽船相值、共至夏口。」と、かの「赤壁の戦い」の前段で、劉備が陸路江陵へ逃走する際に、關羽をして「船」で江陵へ向かわせ、最終的には彼も夏口へ至っている。


 だが、漢水を下る司馬懿に対して、賈逵傳では「詔宣王駐軍」と、軍を「」めるよう命が下っており、以降、彼の動向は見えず、以後の戦役に関与しなかったかに見える。

 しかし、張郃傳(魏書十七)に「司馬宣王治水軍於荊州、欲順沔入江伐吳、詔郃督關中諸軍往受節度。至荊州、會冬水淺、大船不得行、乃還屯方城。」とあり、「會冬」という時期まで、「沔にり江に入り吳を伐つ」という軍事行動が進行していた事が知れる。

 張郃傳のこの記述は、「拒亮將馬謖於街亭」・「諸葛亮復出、急攻陳倉」の間にあり、前者は太和二年(228)二月の「右將軍張郃擊亮於街亭、大破之。」、後者は同年十二月の「諸葛亮圍陳倉。」に当たるので、この「冬」というのは、当に太和二年の事である。

 但し、曹休が敗れたのは、明帝紀では「秋九月」、吳主傳では「秋八月」と、月の違いはあるが、「秋」であり、滿寵傳でも年次に問題があるものの「秋」と明記され、一致している。

 また、曹休は戦後の庚子に薨去しているが、九月に庚子はなく、十月(冬)の庚子(十四日)であろう。従って、敗戦はそれ以前、つまり、秋となる。尤も、庚子は十二月にもあるので、「會冬」以降という可能性もあるが、記事の位置、及び他の「秋」という記述を全て否定する説得力はない。

 となると、司馬懿は「秋」に曹休が敗れた以降も「伐吳」を断念せず、「冬」になって水深が浅くなって、大船が航行できなくなり、断念したという事になる。無論、この年の「冬」の到来が早く、季節上は「秋」であるうちに「冬」になったという可能性はある。因みにこの年の九月は10/16~11/14に当たる。だが、何れにしても、曹休の行軍との連動を欠き、時宜を逸しているように見える。


 そもそも、この「駐軍」の理由は何であったのだろうか。張郃傳と賈逵傳の記述を考え合わせると、張郃「督」するところの「關中諸軍」との合流を期してのものであるかに見える。

 張郃は年初の時点で蜀、諸葛亮の侵寇(「北伐」)に対応する為、關中(長安)に在り、そこから諸軍を率いて、荊州に向かっている。その張郃が荊州に至ったのが、「會冬」であるというのだから、その合流は当初からの予定ではなく、曹休の上表によって、戦略が変更された後に計画されたものであろう。


 では、何故、軍を止めてまで關中の軍と合流する必要があったのか。先ず、考えられるのは防御的な意味、つまり、吳軍による襄陽など荊州の諸城への攻撃に対応する為である。この場合、司馬懿の「駐軍」自体も、それに対応する為となる。しかし、張郃傳に「治水軍於荊州、欲順沔入江伐吳」とある以上、合流が防御の為であったとは考え難い。

 であれば、合流は攻撃的な意味、つまり、「伐吳」の為という事になる。思えば、この曹休上表後の状況は、当に「陸軍以向皖城、引權東下」であり、司馬懿は「水戰軍向夏口、乘其虛而擊之」べき状況で、關中の諸軍はその為の増強であったと見るべきである。

 先に、宣帝紀と賈逵傳の記述の違いは傳主を主導者とする為のものかもしれないとしたが、或いは、戦略の変更により、夏口方面を攻める役割が、「東」する事になった賈逵から司馬懿に変更されたという可能性がある。

 その場合、本来、司馬懿は東の曹休と同様、賈逵等が「東關」を攻める際に、荊州の吳軍を引き付ける役割であったが、夏口攻略も視野に入れた事で、軍の増強が必要とされたのだろう。


 司馬懿の「駐軍」が夏口(或いは「東關」)攻撃を期して、關中諸軍と合流し、軍を増強する為であったならば、何故、攻撃は行われなかったのか。

 張郃傳に見える「水淺く、大船行くを得ず」が原因という事になるが、曹休の進軍は「秋」であるにも拘わらず、司馬懿は「冬」に至るまで進発していない。

 曹休が会戦に至るのが予定より早かったという事はあるかもしれないが、賈逵に関して見たように、詔が下った時点で既に曹休は皖近郊に至っている可能性がある。司馬懿が張郃と合流したのが何処かは不明だが、「順沔」とある事、關中から荊州への経路を考えれば、沔水(漢水)に沿った地点、襄陽などが考えられる。


 宛・襄陽間は「三百餘里(王昶傳)」であるから、曹休が合肥から夾石を経て皖の手前に至る時点で司馬懿が到達しているには相応しい場所である。因みに、『元豐九域志』では鄧州の「南至本州界九十里、自界首至襄州九十里」である襄州が襄陽であり、鄧州の「州東北一百二十里」が南陽(宛)であるので、概ね300(宋)里となる。

 なお、詳細は措くが、長安から襄陽へは、長安東南の上洛、北宋代の商州から南陽(同鄧州)、或いは襄陽西北の武當(均州)を経由する経路になるが、どちらの場合も900~1000(宋)里程を移動する必要があり、賈逵が曹休に合流するよりも更に時間を要すると考えられ、なればこそ、司馬懿に「駐軍」の指令が出たのであろう。逆に言えば、曹休は軍を駐めなくとも、賈逵が合流できると考えられていたとも言える。


 だが、襄陽から夏口までは『元豐九域志』に依れば、鄂州の「西至本州界三百三十八里、自界首至郢州二百六十里」である郢州が、襄州の「東南至本州界一百六十一里、自界首至郢州五十六里」であるので、815(宋)里という彼方であり、江陵まででも、襄州から「南至本州界一百四十七里、自界首至江陵府五百一十里」であるから657(宋)里であり、曹休の全行程に近い距離がある。

 水軍の行程が陸軍よりかなり早いとしても、遥か後方に位置していた事になり、曹休が既に皖に在ったならば、その敗退までに夏口を衝く事は困難であったと思われる。

 であれば、詔が到った時点では、曹休はいま少し後方にあり、司馬懿が軍を駐め、張郃等と合流後に進軍を再開しても、充分に間に合う公算であったと考えられる。 ただ、その場合、賈逵が曹休との合流が果たせなかった理由が、より不可解となる。


 最終的に、司馬懿の攻撃が行われなかった原因は不明だが、ここにも、曹休の行軍との間に齟齬が見られる。

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