「伐吳」の計①

 太和二年の軍事行動に於いて、魏軍は当初、揚州の曹休、荊州の司馬懿、そして、賈逵以下豫州諸將の三軍編成であったと見られる。


 主力は東西の両軍で、大司馬曹休の揚州軍が合肥方面から皖(廬江郡)へ、驃騎大將軍司馬懿の荊州軍は宛から江陵(南郡)へ向かっている。一方で、中路軍の目標は賈逵傳では「東關」、滿寵傳では夏口で、吳の武昌郡一帯である。

 従って、当初の予定では三軍は南へ並進し、それぞれの目標に向かい、最終的には「東關」方面に集結する予定であったと思われる。だが、周魴の降服によって、曹休が「深入」する事となり、戦略が変更され、最終的には曹休の敗北によって、同年の軍事行動は失敗している。

 賈逵傳の記述を見る限り、「深入應之(=周魴)」は当初からの目的ではなく、戦略の変更であった事になる。では、当初、この進攻の目的は何であっただろうか。


 その点で着目すべきは、賈逵傳の記述、「每出兵爲寇、輒西從江夏、東從廬江。國家征伐、亦由淮・沔。……逵以爲宜開直道臨江、若權自守、則二方無救;若二方無救、則東關可取。乃移屯潦口、陳攻取之計、帝善之。」である。

 賈逵は、「直道を開きて江に臨み、若し權自ら守らば、則ち二方に救け無く、若し二方救け無くば、則ち東關取る可し」と述べ、屯を潦口に移している。ここで「帝」とあるのは、明帝の事であれば、この「攻取之計」が述べられ、潦口に移ったのは、早くとも黄初七年(226)、おそらくは太和元年(227)から、同二年(228)の出征以前となる。

 従って、この「攻取之計」は、太和元年前後に述べられ、早期に実行すべく期待された経略となる。その前提で、この計と魏軍の当初の経路を見比べると、東軍の向かう皖は、当に「二方」の一、廬江に当たる。

 一方、西軍が向かう先は賈逵傳では南郡の江陵とあるが、南郡は「二方」の江夏に接しており、経路の中途、襄陽から漢水を通じて向かう事もできる。曹休傳の「從漢水下」から見て、司馬懿の目標は、江陵より、むしろ夏口であった可能性がある。

 何れにせよ、この曹休・司馬懿の進軍は賈逵の云う「二方無救」を生じさせ、賈逵は孫權が「在」る「東關」へ向かうのだから、「權自守、則二方無救」となる。すると、最終的な目的は「取る可」きという「東關」となる。


 同様の戦略は、『晉書』宣帝紀の「若爲陸軍以向皖城、引權東下、爲水戰軍向夏口、乘其虛而擊之、此神兵從天而墮、破之必矣」という司馬懿の発言にも見える。この記述は、司馬懿が孟達を討った記事(太和二年正月)と、「(太和)四年、遷大將軍、……」(太和四年二月)という記事の間にあり、太和二年から三年の間に述べられた事になる。

 この発言のうち、「陸軍以向皖城」は、当に曹休の経路そのものであり、吳主傳に「權至皖口」とある様に、孫權も「東下」している。そして、「水戰軍向夏口」は、賈逵の云う「二方」の一、江夏へ向かうものである。従って、この宣帝紀の記述も太和二年時点のものであり、同年の司馬懿の軍事行動の目的は当然、「乘其虛而擊之」であり、夏口であった事になる。


 司馬懿の行動に若干の差異があり、孫權が「東下」している点で賈逵傳の「權自守」とは異なるが、共通するのは、廬江方面に吳の耳目を引き付ける一方で、荊州又は豫州から、吳の「心喉」たる夏口・東關を衝くという点である。賈逵傳・宣帝紀の違いは、賈逵・司馬懿がそれぞれに主導した記述が採用された故であろうか。

 兎も角、魏軍は当初、東軍の曹休が吳軍の主力を引き付け、西軍又は賈逵等の中路軍、或いはその両軍が吳の本拠を衝くという戦略であったと思われる。本拠を衝くのが中路軍であった場合は、西軍は吳の荊州方面の軍を引き付ける役割であっただろう。

 最終的に武昌(東關)の攻略・奪取までが構想されていたかは不明だが、それが為された場合、吳領は少なくとも江水の縁辺に於いては荊州と揚州に分断され、その後の全域制圧に益した事であろう。従って、究極的には「平吳」までを視野に入れた戦略であったと思われる。

 同種の戦略は後に実際に行われた晉による「平吳」でも採られている。琅邪王伷(司馬懿子)・王渾等が建業(揚州)に向かい、王戎・胡奮・杜預といった諸將がそれぞれ荊州の武昌・夏口・江陵に出でて吳の諸軍を引き付ける一方で、益州から王濬・唐彬が江水を下って、吳軍の側背を衝いている。

 当時は、吳の都が下流の建業に遷っていた事、そして、蜀(益州)が晉の治下に在った点が太和二年当時と異なり、経路が重層化しているが、発想の根幹は同一と言える。

 この戦略が変質したのは、周魴の降服、その申し入れによる。これに対して、曹休が「深入應之」ぜんとした上表によって、司馬懿、賈逵に対しても変更の詔命が下っている。

 その変更によって、各軍の戦略はどのように変化したのであろうか。


 曹休については、その当座の目的地は皖で変わりないが、「深」くとある様に、最終的には鄱陽の周魴と呼応できる位置まで進出する事になっただろう。鄱陽郡は、廬江郡とは江水を挟んだ対岸の豫章郡を分割して立てられた郡で、その東北を占める。従って、その鄱陽郡と相呼応する為には、江水の縁辺まで進出する必要がある。

 周魴が曹休に送った書簡の其の三(以下「書三」)に「若明使君以萬兵從皖南首江渚、魴便從此率厲吏民、以爲内應」とあり、この「皖り南して江渚にむか」うを実行する予定であったのだろう。

 曹休傳の「向尋陽」はこの時点での目的地が記されたとも考えられる。因みに、尋陽は、江水が贛水と合流して再び東北へと向きを変える一帯にあり、廬江と豫章(鄱陽)の界となっている彭蠡澤(鄱陽湖)の西北にある縣である。


 当初の戦略では吳軍を引き付ける陽動的な役目であり、必ずしも全面的に吳軍と対決する事は想定されていなかったと思われる。ところが、周魴と呼応する事で、東軍の赴く先が主戦場となり、また、「深入」する事で後背への備えが薄くなる危険性が生じる。

 この点を危惧したのが、滿寵の「今所從道、背湖旁江、易進難退、此兵之窪地也。若入無彊口、宜深爲之備」という上疏であり、蔣濟が同様の危惧を抱いていた事が、蔣濟傳(魏書第十四)に見える。蔣濟のこの発言にはやや問題があるので別に見たい。

 兎も角、その危惧に対応すべく発せられたのが賈逵への「東與休合進」という指令であろう。吳軍の主力と対峙する事になる東軍の増強、そして、その後背の備えを厚くする意味がある。ただ、「合進」とある以上、増強が主眼であり、曹休が決戦に及ぶ前に、火急速やかに合流する事が求められた筈である。


 曹休が赴く廬江郡は揚州の西北部に当たり、江水と大別山脈に挟まれた一帯である。曹休は壽春から合肥に南下した後、基本的には西南へ、大別山脈の東麓沿いに、江水とほぼ並行に南下した筈である。

 この廬江郡、その中心たる皖一帯は「皖田肥美」と云われる地であったが、吳主傳に「初、曹公恐江濱郡縣爲權所略、徵令內移。民轉相驚、自廬江・九江・蘄春・廣陵戶十餘萬皆東渡江、江西遂虛、合肥以南惟有皖城。」と、嘗て「江濱郡縣」が孫權に寇掠される事を恐れた曹操が、民を「內」、北へ移そうとした所、却って、「廬江・九江・蘄春・廣陵戶十餘萬」が渡江逃亡し、「合肥以南惟有皖城」となったと云う。

 これは蔣濟傳に「建安十三年、孫權率眾圍合肥。」の「明年」、十四年(209)に「太祖不從、而江・淮間十餘萬眾、皆驚走吳。」と、曹操が蔣濟の言に従わず、「江・淮間十餘萬眾」が吳に逃亡したという記事と同一であろう。

 この「合肥以南だ皖城有るのみ」は誇張はあれど、全くの虚偽とは言い難く、『晉書』地理志に見える廬江郡の戸数は、『續漢書』郡國志から激減しており、しかも、その減少幅は周辺各郡に比しても著しい。その理由としては、魏・吳の勢力圏の狭間に位置したという廬江郡の地勢があるだろう。

 廬江郡は南北の狭間として、「石亭の戦い」の舞台となった様に、前後を含めて度々戦場となっている。しかも、歴史的にはむしろ東西の狭間としての位置にあり、古くは楚と吳、近くは劉表と孫策・孫權の戦いが行われたのも、廬江郡から西の江夏郡に掛けての地である。

 こうした戦乱が人々を廬江の地から離れさせた結果が、晉代、地理志に於ける戸数の激減であったと見られる。太和二年(228)の時点では二十年前の民の大量逃亡の影響も大きく、曹休が向かった先には、合肥以降、「皖城」を除いて、大規模な集落、縣は存在しなかったと考えられる。その皖も建安十四年の時点では魏(曹操)に屬していたが、建安十九年(214)に吳(孫權)が廬江太守朱光を破って奪取して以降、吳領となっている。


 無論、「虛」となると言っても、文字通り人跡が絶えている事はなく、流散した戸口を把握できなくなっているだけ、でもある。しかし、把握できない戸口は資力として利用できず、事実上、無に等しい。そして、それが合肥以南に無いならば、曹休がいざという時に拠るべき場所も、頼るべき人力も無いという事を意味する。

 そして、それは大別山脈と江水に挟まれた地勢とも相俟って、孤立しやすいとも言え、なればこそ、軍の増強、側背の備えが必要という事になる。


 なお、『元豐九域志』に依れば、壽州の「東南至本州界一百二十里、自界首至廬州六十五里」の廬州、その廬州へ「北至本州界一百二十里、自界首至廬州一百七十里」であるのが懷寧縣、乃ち皖を治所とする舒州であり、壽春から皖は概ね475(宋)里、魏の里程では六百里強となる。

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